尾園城
尾園城([笠木城 周辺城郭])
笠木城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「尾園城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
尾園城の口コミ情報
2025年07月14日 大内周防守毛利
尾園城もとい尾園本城は宮若市山口に所在する丘城である。尾園本城は幕末に写された『筑前要領』(香月文書)に記された城の名前で城主を尾園加賀守としている。ただし戦国時代にこの地域を支配していた宗像氏の『天正十三年宗像氏貞分限帳』(元和年間に写される)には尾園氏の名前が見られない。尾園本城は明治につくられた『福岡県地理全誌』では宮山城とされ、柴田左京の居城と記されている。柴田左京は天正十三年分限帳に宗像氏貞の家中に書かれていることから宗像氏貞の時には柴田左京が入っていることからこちらの方が信ぴょう性が高いだろう。
(『筑前要領』であるが、表書きの人物とその人物が行動した年代や当時の大名間の関係性に矛盾が生じている。また内容から推測する限りでは大友氏を正当化するように見て取れることから軍記物の側面が強いのではないかと思われる)
当城は立花山城を拠点とする立花氏(大友勢)が宗像を攻める際、若宮庄(宮若市)から宗像に攻めるルートと江戸時代の唐津街道から途中分岐して古代の郡道とされる見坂峠(現在の九州自動車道のルート)を越えて宗像に攻めるルートの交差点にあたる重要な地点である。尾園本城の周囲には尾根伝いに山下城、平地を挟んで茶臼山城があるなど城が密集していることから当時の緊迫した状況が感じられる。
城の縄張りですが、長方形の形をしており(私が現地を見た限りそれプラス南側に少し張り出しがあるように感じられた)、両端に堀切により緩やかな尾根を分断している。この堀切の底部は主郭を囲む帯曲輪と繋がっている。堀切は竪堀と繋がる構造ではないため時代の古い形式とされるが、堀切の底が帯曲輪と一体と為している城は若宮庄の城によく見られるもので他の地域にはあまり見られないことからこの地域の軍事的なドクトリンとしてこのような堀切になったとも考えられる。ちなみにこの堀切帯曲輪連結が古いタイプだということを裏付ける史料的考古学的な資料はなく、単に形式論から推測されただけである。またこの城は丘城とはいえかなり周囲が緩やかなため堀切から竪堀を繋げたところで労働力、維持管理の費用や手間を考えるとあまり効果はないであろう。
西側の堀切の城外側は土塁をなしており、敵はこの土塁(外から攻めると土塁と分かりづらい)を登ってからようやく堀切の存在に気付き、堀切に敵兵を落とし負傷させる仕組みとされる。
帯曲輪は完全に一周している訳ではなく、東側の堀切南側の帯曲輪と接続するところに土塁を設け遮断している。
宗像氏の兵士の動員数や周囲の城の数を踏まえると切岸や堀切、最低限の土塁を構築するといった必要最低限の防御施設を構築していることが伺える。堀切は2mぐらいの深さだと推測されるが、落下すれば負傷は避けられない。堀切は角度のきつい薬研の構造が今もはっきりと見て取れる。周囲の城が近いため連携しながら敵の兵を分散し、ゲリラ戦を行うことも十分可能である。
アクセスは山口八幡宮から裏山を登ったところにあります。
写真
①②切岸
③東側堀切
④帯曲輪と堀切を遮断する土塁
⑤主郭(西側は1段高くなっています)
⑥石碑
⑦⑧西側堀切
2024年04月01日 ヒデタカ筑前守
山口八幡宮より直ぐに取り付けます。八幡宮の裏側が城郭で、小城なので巡りやすくドライブスルー的な城跡です。