御館(おたて)

御館の基本情報

通称・別名

上杉館

所在地

新潟県上越市五智1

旧国名

越後国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

上杉謙信

築城年

弘治年間(1555〜1558)

主な改修者

主な城主

上杉憲政

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

福島城(新潟県上越市)[2.4km]
春日山城(新潟県上越市)[3.6km]
高田城(新潟県上越市)[6.6km]
雁金城(新潟県上越市)[12.4km]
鮫ヶ尾城(新潟県妙高市)[13.0km]
徳合城(新潟県糸魚川市)[15.1km]
箕冠城(新潟県上越市)[16.8km]
柿崎城(新潟県上越市)[17.7km]
京ヶ岳城(新潟県上越市)[18.5km]
直峰城(新潟県上越市)[19.4km]

御館の解説文



上杉館(うえすぎやかた)は、新潟県上越市にあった日本の城(館)。現在のJR直江津駅周辺の府中(府内)と呼ばれた港湾都市域に位置する。主な遺跡として、越後守護上杉氏の館(至徳寺館)と、やや離れた位置に関東管領上杉憲政の館(御館〔おたて〕)があり、周辺にも比して小規模な屋敷跡がいくつかあったがいずれも開発によりめぼしい遺構は残っていない。

至徳寺館 

「至徳寺」という字名から至徳年間に上杉憲将の菩提を弔うために開かれた至徳寺跡とされてきたが、昭和50年代から調査が行われ、その規模や出土品などから越後国衙・守護所とみるのが有力となっている。「伝至徳寺」などとも呼ばれる[1]。関川河口付近の流通の要所に位置し、付近に港津があったと推定される。

概要

遺物群から遺跡の使用時期は11世紀~13世紀前半、14世紀末~16世紀初頭、16世紀末~17世紀前半に分かれる。

中世前期は饗宴(儀礼)に使用されたと考えられる土師器や、大量の貿易陶磁器、灰釉陶器、珠洲陶などが出土し、越後国衙域に属していたと推定される。13世紀後半の変容ないし廃絶期を経て、中世後半に越後守護所となる。

室町から戦国時代、特に15世紀後半から16世紀初頭は遺跡の最盛期であり、かつ越後府中の最盛期でもある。遺物量も急増し中国製天目茶碗、酒海壺、風炉・瓦燈といった瓦器、皆朱漆器、他地域に比べ多分化した儀礼土器などが出土している。 二回以上の火災の痕跡があり、かつ一括して廃棄された遺物の年代から、15世紀中頃の火災は越後守護上杉房定と守護代長尾氏との交戦、16世紀初めの火災は永正の乱によるものと推定される。永正期以降は衰微し、上杉氏の会津移封後に堀氏が福島城築城までの間に利用したのを最後に廃絶するが、中世後期の遺跡の最盛期と越後守護上杉氏の盛衰は見事に合致する。

遺構・構造

直江津駅から南方の地域に位置し、関川の自然堤防上に形成されている。15世紀に掘削された幅6~8メートル・深さ1.5メートルの堀遺構が検出されており、一辺約250メートルの方形の区画が想定されている(ただし東堀は検出されていない)。東西大路が区画を分断するように走っているが、区画内の部分は堀の廃絶後に出来たものである。

御館 

概要

上杉謙信が弘治年間に造営したとされ、謙信死後に勃発した御館の乱の主戦場となり天正7年(1579年)落城した。その後、堀氏が利用したともいわれるが慶長5年(1599年)時点で既に耕地化されている。遺物も16世紀代のものが中心で、国産・舶載陶磁器などが出土している。

遺構・構造

直江津駅の西南約700メートルの地に位置し、低湿地を開発して造営された。幅約20メートルの堀で囲まれた東西約120メートル・南北約150メートルの主郭があり、東西に虎口がある。5つの郭で構成され、堀を含めた城館の外郭は東西約250メートル・南北約300メートルで府内随一の規模である。建物や庭園、井戸跡が検出されている。

越後府中 

府中には守護の迎賓館である至徳寺長松院があったことが知られており、これが至徳寺館の南堀に接する東西約200メートル・南北約170メートルの地域と推定されているが異論もある。

至徳寺館の北東部には御館・至徳寺館に次ぐ三番目の規模をもつ但馬屋敷があり、守護代長尾氏の館と推定されている。近代まで土塁が残っていたが直江津駅と鉄道関連施設の建設に伴い消滅した。他にも奉行人の屋敷跡や、屋敷跡をうかがわせる字名が存在した。

参考文献 

  • 小島幸雄 「伝至徳寺跡の調査」 『日本歴史』556号、1994年。
  • 中西聰 「越後の守護所と城下町」 『守護所と戦国城下町』 高志書院、2006年。
  • 『上越市史研究』6・7・9号、上越市、2001-2004年。
  • 『上越市史叢書8 考古 -中・近世資料-』 上越市、2003年。
  • 『上越市史叢書9 上越の城』 上越市、2004年

御館の口コミ情報

2024年08月10日 ◇オレンジ◇左衛門督
御館

住宅街の公園にありました。バイクだったので良かったですが、駐車場は見当たりませんでした。

2024年06月02日 G伊予守マッツァカーネ
御館

当時の面影はまったく残ってなく、ただの小さな公園でした。

2024年05月06日 とりこ武蔵守
御館



線路に近い住宅街の一画で小さな公園になっていました当時を忍ぶようなものは石碑があるくらいです駐車場はないので車で訪れる方はご注意ください

2023年11月07日 みくみく勘解由長官ばあ2
御館



御館跡は芝生の公園になっていて、説明板に書いてあるように線路際の道路まで歩き、線路越しに眺めて見ました。電車の架線でちょっと見にくかったのですが春日山城らしき姿を見ることが出来ました。

2023年11月04日 くっしー治部大輔尚人
御館



小さな公園になっていますが、設置看板の内容が充実してますよ!!
ただ、車を駐車するスペースがなくて困りました。線路沿いなので直江津駅から歩いてもいいかもしれませんね。

2023年09月07日 尼崎城駿河守一口城主
村上義清公建立の供養塔[御館  寺社・史跡]



8月11日、御館公園でまち歩き散歩マップ(写真①)を眺めていたところ、光源寺付近に村上義清公建立の供養塔が載っていたので行ってみました。供養塔(写真②③)は光源寺境内墓地内ではなく、本堂裏手の道端側の墓地の一角にありました。たまたま光源寺でお墓参りをされている方がいらっしゃって供養塔の場所を教えて頂きました。他のお墓に囲まれていたので1人では見つけることが出来なかったと思われます。供養塔の側面に説明文(写真④)があり文字が見えづらいかも知れないのでそのまま書きます<信濃葛尾城主村上義清は天文二十二年甲斐の武田信玄に敗れ信濃衆高梨政頼らと越後の上杉謙信を頼ってきた。それがもとで五回にわたる川中島の合戦となったのである。永禄十一年十月三日、この地で義清は故国を偲び父の冥福を祈って供養塔を建立した。しかし義清はついに信濃帰還がかなわぬまま天正元年根知城で死去したといわれる。>
想定外の場所で川中島の戦いのキーパーソンの史跡に出会えてびっくりしました。

2023年09月07日 尼崎城駿河守一口城主
御館



8月11日直江津駅から進軍。謙信公死後の上杉家を二分した御館の乱の舞台ですが特に遺構らしきものは見当たらず、現在は御館公園(写真①②)という住宅街の中にある公園になっていました。公園の一角にパネルや石碑(写真③④⑤)があり、写真⑤のパネルに線路の方に出てみると春日山城が見えると書いてあったので見に行きました🛤春日山城は見えたものの架線と重なりなかなかパネルに載っているような写真は撮れませんでした(写真⑥中央部の山頂が茶色になっている山が春日山⛰)。
かつて御館があった敷地の一角から実際に春日山城を眺めてみると春日山城からその気になればすぐに駆けつけて来れる(来てしまう?)ような距離感に感じられました。🐴味方だったら心強いけれど敵にしたら怖いなと思われる春日山城との距離感でした😨

2023年08月28日 血圧高い系男子RED副将軍
御館



越後を二分した御館の乱の舞台⚔

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

弘治年間(1555年〜1558年)に上杉謙信によって築かれたと伝わります。
上杉謙信を頼って上野国平井城から逃れてきた関東管領の上杉憲政のために築造されました。
1578年に上杉謙信が急逝すると、ともに養子である上杉景勝と上杉景虎との間で御館の乱と呼ばれる家督争いが勃発します。
上杉景勝は春日山城を占拠し、上杉景虎は御館に籠もり防戦となりました。
翌年には上杉景勝は御館に攻撃を開始し、御館は落城。上杉景虎は、実父が北条氏康であり北条氏を頼って小田原へと落ちる途中で鮫ヶ尾城に立ち寄りましたが、鮫ヶ尾城の堀江宗親は上杉景勝に内応しており謀反。上杉景虎はここで自刃したとされます。
その後の御館は、堀氏が利用したとも云われていますがしばらくして廃城となり耕作地となった様です。

見所
現在は、宅地開発により消滅。主郭部が御館公園となり案内板や城跡碑が立っています。
かつては、幅20mの堀で囲まれた主郭があり、東西に虎口が開口。
5つの郭で構成され、外郭は東西250m、南北300mの大規模なもので、建物や庭園、井戸跡が発掘調査で検出されています。

2023年03月11日 弾正尹 カルシファー
御館



直江津駅から歩いて10分ちょっと。住宅地内にあって、公園になっています。

2022年07月10日 御家人宮内卿斬九郎
御館



住宅街の中にある小さな公園。遺構らしきものは無く、石碑と看板程度。思った以上に春日山城から近いことに驚き。

2021年06月07日 陸奥守新九郎
御館



遺構はほぼありませんが、御館を訪ねて春日山城との距離・位置関係などを知ると、御館の乱の状況が理解でき、感慨深いものがあります。

2017年11月25日 安田大蔵卿秀俊
御館

近隣情報・ 光源寺(国府1丁目)に 村上義清が建てた父祖の供養塔があります。
武田信玄に信濃国を追われて上杉謙信を頼ってから15年が経った1568年に父の冥福を祈り建立した供養塔。 信濃の地を取り戻せなかった義清の無念が伝わってくる感じです。

2017年06月12日 安田大蔵卿秀俊
御館

路駐で 碑のある御館公園をサッと見回りました。解説板と周辺マップ、上杉憲政 顕彰碑の3点がありました。

周辺には、御館の乱の時に景虎派の北条景広が参拝帰りを狙われ襲撃されたという府中八幡宮があります。(その事の解説板は無いですが) 御館とセットで上杉家の家督争いをたどってみては?

2015年08月30日 駿河守武蔵守
御館

駐車場がないので、車で行かれる方はご注意を!

2011年04月10日 古楽侍従広家
御館

御館の乱の冠にもなってる地なのですが、公園に石碑と案内板があるだけでした。ここと春日山は思った以上に近く。ここに立つと御館の乱という命名は本質的ではない気がします。

御館の周辺スポット情報

 大場砦(周辺城郭)

 地頭屋敷(周辺城郭)

 村上義清公建立の供養塔(寺社・史跡)

 御館公園(関連施設)

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