箕冠城(みかぶりじょう)
箕冠城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 新潟県上越市板倉区山部字箕冠
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 大熊氏?
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 大熊氏(上杉氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 市史跡(箕冠城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鳥坂城(新潟県妙高市)[5.6km]
京ヶ岳城(新潟県上越市)[5.7km]
鮫ヶ尾城(新潟県妙高市)[7.3km]
猿橋城(新潟県妙高市)[9.4km]
高田城(新潟県上越市)[10.2km]
春日山城(新潟県上越市)[16.0km]
御館(新潟県上越市)[16.8km]
雁金城(新潟県上越市)[17.3km]
福島城(新潟県上越市)[17.7km]
直峰城(新潟県上越市)[18.1km]
箕冠城の解説文
[引用元:Wikipedia「箕冠城」の項目]
箕冠城(みかぶりじょう)は、越後国(現在の新潟県上越市板倉区)にあった日本の城。1974年8月1日に旧中頸城郡板倉町の史跡に指定された[1]。上越市に合併後は市の史跡に指定されている。
歴史
新潟県上越市板倉区にあった山城。築城時期は不明だが、越後国守護上杉氏の重臣大熊氏が居城とした城である。鳥坂城(妙高市)とは山ひとつ隔てた標高242m、比高約160mの独立峰につくられた城で、東西約400m、南北約300mの城域をもつ。山の東側には大熊川、西側には小熊川が流れ、外堀の役目を果たしていた。築城年代はわかっていないが、15世紀末に関東管領上杉氏の所領を管理するために越後(新潟県)に赴いた大熊氏により築城されたと考えられている。城主の大熊氏は戦国時代、重臣として越後守護上杉氏に仕え、その後、長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。大熊氏は家中において段銭方などの要職を務めた。1553年(天文22)、節黒城(十日町市)の上野家成と千手城(十日町市)の下平吉長とが領地争いを起こした。上野家成は栃尾城主で景虎(謙信)の重臣本庄実乃を頼り、下平吉長は大熊朝秀を頼って争いは混迷。朝秀は長尾氏譜代の与板城主の直江実綱(景綱)や、本庄実乃と対立した。国主の景虎は長尾政景、北条高広の謀反に続き、こうした領内の混乱が起こったことで、突如、領国を放棄して出家を宣言する。File:View from Ruin of Mikaburi Castle in Joetsu, Niigata.jpg|thumb|箕冠城本丸跡から観た頸城平野の景色(左手前には北陸新幹線の高架橋も見える。[新潟県上越市板倉区)]朝秀は弘治2年(1556年)に景虎が出家引退を表明したことを受けて、武田晴信(武田信玄)に通じ、箕冠城を捨て越中(富山県)に移り、武田氏と呼応して越後に侵攻する機会をうかがった。しかし、景虎が国主に復帰したことで越後侵攻をあきらめ信濃(長野県)に移り、1563年(永禄6)に武田家に仕官、山県昌景の与力を経て信玄の直臣となり、足軽大将として取り立てられた。勝頼の代には遠江国小山城代に任じられた。織田氏の攻勢を受け、多くの家臣が寝返る中で武田勝頼に忠義を尽くし、1582年(天正10)の天目山の戦いで勝頼と運命を共にした。朝秀の出奔後の箕冠城については明らかではない。間もなく廃城になったとも、信濃口を守備する上杉家の番城として1598年(慶長3)の上杉景勝の会津転封まで存続したとも考えられている。現在、城跡には曲輪(くるわ)、土塁、虎口、堀切、横堀、水の手などの遺構が残っている。
交通
えちごトキめき鉄道新井駅からバスで23分、上越市板倉区菰立で下車、徒歩約15分。
参考文献
- 『上越市史叢書9 上越の城』 (新潟県上越市、2004)
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箕冠城の口コミ情報
2024年08月26日 RED副将軍
箕冠城
山上の溜池と大規模な横堀が特徴的な大熊氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。上杉氏の重臣である大熊氏の居城とされます。
大熊氏は諸説ありますが、清和源氏の系譜で源頼政の後裔と云われる太田資徳が1457年に堀越公方である足利政知の関東下向に付き従い上杉持朝に預けられ、上杉持朝から信濃国高井郡大熊を拝領し大熊氏を称したのが始まりとされます。
その後、大熊氏は上杉氏の重臣となり、大熊政秀は長尾為景に段銭方などの要職を任されており、その子である大熊朝秀も上杉謙信に重用されています。
しかし、1556年に大熊朝秀は長尾景虎が出家引退を表明したことを受けて武田信玄に内通。しかし敵対していた本庄実乃らの箕冠城攻撃を察知し、大熊朝秀は越中へ逃れた後に武田信玄に仕えます。その後は山県昌景の与力となり、根古屋城を居城とし、最終的に武田勝頼と運命を共にしたとされます。
箕冠城は、大熊氏が去った後は間もなく廃城になったとも、春日山城の支城としてしばらく存続したとも云われますが定かではありません。
見所
標高242mの箕冠山に築かれています。
現在は公園として整備されており、城域まで車で登ることができ駐車場も完備しています。
南西中腹の駐車場は大堀切跡とされ既に城域です。200mほど進むと鎧井戸があり、その先に四郭が張り出しています。更に進むと訪城時は干上がっていましたが水堀とも云われる広い溜池があることが特徴的で、溜池の対岸下方には土塁と横堀で厳重な防御線が張られています。
その上が山頂部であり、山頂に主郭を置き、東に堀切を隔てて馬出しと二郭が二段連なります。その下の帯郭が三郭であり、更にその下の南山腹に横堀が巡り、その南下に東西に伸びた二段の四郭と五郭を配し溜池に至ります。
ふらっと訪れましたが、なかなか見所のある特徴的な縄張りで楽しめました。
2024年07月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
御天山城[箕冠城 周辺城郭]
さて、今回の口コミは信濃を離れて越後の山城、御天山城っす。訪城理由は、お近くの箕冠城を訪ねた帰り道でGMYSGしてたらヒットしたから。おいら基本的に越後のお城とか全然知らないのさ。あ、GMYSG…「Googleマップで山城してGO♪」の事っす。
御天山城は大熊川東岸(右岸)、別所川西岸(左岸)、両川に挟まれた山塊を構成する一つ、標高約262mの山頂ピークを中心に立地する要害です。北麓の長野・新潟県道95号、上越飯山線からの比高は170m位でしょか。北東方、標高243mの小ピークには同じ箕冠城のリア攻めマップにある焼山城が立地する。ちなみに御天平城とも呼ばれるらしい。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北東麓の「焼山城跡登城口」を目標に設定して下さい。此処から約0.1km北行すればお山に入る道が付いている。車の捨て場所は路駐でOK♪レベル、探索する気が無ければ30分以内でリア攻めを切り上げる事も可能だ。
築城年代、築城者は不明です。城主としては福王子彦八郎孝重の名が伝わる。はっきり言って越後の地方史については浅学なんで全く知らないんだけど、福王子氏は頚城郡板倉郷の地頭職だったそうで、史料上は一貫して府内長尾氏に従っている。城主とされる彦八郎孝重は、天文五年(西暦1536年)、越後守護、上杉定実の一族、上条定範に加担する上田長尾氏と戦い、アプリの登録城、魚沼郡の下倉山城に籠城、長尾房長を退けている。
お城の現況は…まず、このお山、採土によるものなのか地滑りによるものなのか知らんけど、山体の半分ぐらい、西側斜面がごっそりと削り取られているような気がする。縄張の重点は山稜の西側にあったと思われるので、城域の殆どは消滅していると考えられる。山頂部は僅かに形状を留めているが、重機によって地形が分断されており、もはや縄張がどうだとか言える状況に全くない。又、山頂から南側に一段下がった部分には堀形、東側斜面には腰郭様の地形が見られるが、どうにも後世の改変の可能性の方が高いように思う。唯一の慰めは展望が開けている事ぐらい…眺めだけはすこぶる良い。ちなみに狼煙リレーでもやってたんだろうか…痕跡が残っていた。
福王子氏の要害だったのかは別として、二次利用である事を含めて、焼山城に付随する狼煙台や物見台だったと考えた方がよいのかもしれない。山陰に当たる焼山城の立地と役割は道押さえの居館城を越える事はなく、遠隔地への伝達手段を別に頼る必要が発生する。焼山城の後背地、上段に当たる御天山城の立地は正にそれを補うに適当だったと考える。
付近山中には、山寺三千坊の通称で知られた山岳仏教の総本山、山寺薬師への参拝道が部分で今も残る。説明板によると、御天山城の築城に伴い馬道として再整備されたとあるが、その確証を得る事は出来ないだろう。ちなみに山寺薬師は、建仁元年(西暦1201年)の「建仁の乱」の際、乱の首謀者である城長茂の庇護を受けていた事から焼き討ちされ、七堂を誇った伽藍もこの際に焼亡したんだそう。
御天山城繋がりで周辺地域における地滑りについて調べていたら、山寺薬師の南西麓、猿供養集落に「人柱供養堂」なる御堂が建っている事を知った。当地には、地滑りを防ぐために旅の僧が自ら進んで人柱になったという伝説が残っていたそうだが、昭和十二年(西暦1937年)、村人が客土中に掘り出した大甕の中に、座禅姿の人骨と宋銭が納められていたそうで、これにより伝説が事実であった事が確認された。後の人骨の調査によれば、踵の骨が丈夫な五十歳位の男性である事が判明、遊行僧のものであると推測されている。
※未見だけど、猿供養寺集落には「地すべり資料館」なるものが存在する。地滑りが好発する地域なんだろう。後背地の関田山脈は平地から隆起した若い山脈である事が知られているが、隆起は今も続いており、その影響を顕著に受ける地域でもある。資料館、事前に知ってたら行ってたのに〜
※写真⑦は文中にある山寺薬師への参拝道、説明板では単に「軍用道路(馬道)」とする。結構立派な道形が部分で残ってる。
※写真⑧は西麓、福王子集落付近から撮影した近景っす。
2024年07月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
焼山城[箕冠城 周辺城郭]
さて、今回の口コミは信濃を離れて越後の山城、焼山城っす。訪城理由は、お近くの箕冠城を訪ねた帰り道でGMYSGしてたらヒットしたから。おいら基本的に越後のお城とか全然知らないのさ。あ、GMYSG…「Googleマップで山城してGO♪」の事っす。
焼山城は大熊川東岸(右岸)、別所川西岸(左岸)、両川に挟まれた山塊を構成する一つ、標高243mの山頂ピークを中心に立地する居館城です。北麓の長野・新潟県道95号、上越飯山線からの比高は140m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。登城路入口まで車で横付け出来る。車の捨て場所は路駐でOK♪レベル、探索する気が無ければ10分以内でリア攻めを切り上げる事も可能だ。
築城年代、築城者は不明です。城主としては宮島若狭守吉房、宮島与八郎吉則の名が伝わる。はっきり言って越後の地方史については浅学なんで全く知らないんだけど、宮島氏は上杉景勝のバックボーン、越後国内において悪名高き上田衆を構成する一氏だったらしい。景勝の家督相続後には、同衆の者等が越後の各地に配されており、若狭守吉房もそうした宮島氏の一人だと言えそうだ。同名については、文禄三年(西暦1594年)九月、上杉氏の「定納員数目録」を調べれば容易に判る筈なんだけど、そこまで手を広げるとおいらがパンクしてしまうんで止めておこう。
特定非営利活動法人、「板倉まちづくり振興会」のホームページで焼山城を調べてたら、信濃国水内郡温井に至る関田峠道を扼す道押さえのための城館だと推測されていた。同道の事は既知だったけど、越後口が此処にあったとは知らなんだ。関田峠道は、現在の上越市板倉区から飯山市温井へ抜ける道筋で、現在は前述の、長野・新潟県道95号、上越飯山線がこれに準じ、県道は今も関田峠を越える。甲越が争った時期には川中島に至る長尾勢が関田山脈を越えるために利用したて話なんだけど、むしろ道筋は、春日山から関田峠を越えて飯山盆地へ抜けて志久見口に入り、谷筋を進んで妻有を経て魚沼に至る主要道として整備が進められたんじゃないかなて個人的には考えている(平沢城のリア攻めマップにある上境城や温井城はこれを扼する占地だと思う。ちなみに上境城は必見だ。)。
お城は大変難しい。居館城だったと推測するが、一帯は山塊がなだらかな丘陵地様地形を形成している部分であり、城館が占地していたとは俄かに信じ難いものがある。主郭には説明板が立っており、簡易な縄張図も添付されているが、現況がファジー過ぎて現地でこれを組み立てる作業は困難である。正直、城域すら判定出来ず、お城の向きさえ判り難い。又、南西方に位置する「じゅんさい池」の説明板には、泥田堀が周囲に巡らされていたとも書かれるが、これに関してもどうなんだろう。後世、周辺はかなりの高所まで水田として開発されており、水源となる溜池が所々で散見される。単純に往時の泥田堀と言い切る事も出来ないだろう。ちなみに頑張って探索した結果、竪土塁様地形を探し出したが何とも言えない。
関田峠道を長尾勢が利用したとすれば、弘治三年(西暦1557年)、野沢之湯に拠る市河氏を圧迫した際の事であろう。又、同道に騒々しい時期があったとすれば、天正六年(西暦1578年)の「御館の乱」の際ではないだろうか。当時、春日山にあった上杉景勝は本貫地である魚沼郡との連絡が必要だったろうし、道中の妻有に拠る小森澤刑部大輔政秀(景虎方の飯山城を独断で攻め落としている。)等は景勝の強力な支持基盤の一つだった。
※関田峠道〜関田山脈中、標高約1117mの関田峠を越えるが当然の豪雪地帯であり、現在でも長野・新潟県道95号、上越飯山線は十一月から翌年五月まで冬季閉鎖される。同道は近世に入ると主に商用道としての往来が頻繁だった。ちなみに同峠は、関田山脈を南北に縦走する総延長110kmの信越トレイルの通過点でもある。歩かないとあなた明日死にますて言われない限り挑戦しない。
※「じゅんさい池」〜新潟県新潟市の心霊スポットとは別物なんで安心してつかぁさい。
2024年07月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
箕冠城
さて、今回の口コミは信濃を離れて越後の山城、箕冠城っす。訪城理由は、城主だった大熊氏に数年来に亘って興味を持ち続けていた事、やってる順番は逆なんだけど、たまにはそんな感じのリア攻めもよいかな。
箕冠城は大熊川西岸(左岸)、標高241mの箕冠山山頂部を中心に立地する要害です。北麓の中之宮交差点からの比高は140m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域内の一部は箕冠城公園として整備されており、殆どの道程は車で楽に登れる。駐車場もしっかりと付いているおもてなし度が高い山城だ。
築城年代は不明、築城者は大熊氏です。同氏の出自は様々なものが語られているが何れも不審である。最近の説として、信濃国高井郡大熊郷に拠った在地土豪であったとの推測が提起されており、個人的にはこの説を支持したい。
「諏訪御符禮之古書」、康正二年(西暦1456年)丙子花會の条には、「一 大熊出羽守高家御符之禮三貫三百文頭役二十貫八十丁一反三百宛頭銭取勤候」、寛正二年(西暦1461年)辛巳花會の条には、「一 御堂大熊出羽守高家御符之禮五貫五百文御頭役三十貫御教書如御符」とあり、室町時代後期には高井郡大熊郷に大熊出羽守高家があった事が判る。
…当時の信濃国は信濃守護と越後守護の兼任による半国守護の状態にあり、高井郡や水内郡の国人等は越後守護の差配を受けていた。寛正四年(西暦1463年)には、越後守護、上杉房定の一族、上杉右馬頭が、鎌倉公方、足利成氏を支持する高梨氏、村上氏に対して、高井郡の大熊氏、新野氏と結び、高梨氏の本拠地近く高橋に討ち入り合戦となっている。結果として、上杉右馬頭は高梨政高に討ちとられ、戦いの後に大熊氏は没落、新野氏は凋落した。両氏の上杉氏への同心は、勢力を拡大し続ける高梨氏の強い圧迫を受けていた事によるものだろう。ちなみに戦いを広く見れば、鎌倉公方と関東管領家(室町幕府)の対立の構造の中での一事象だとも言える(成氏は上杉勢の敗退を喜んでいる。)。
少々脱線したが、つまりは、没落した大熊氏は、本貫地を離れて越後守護、上杉氏を頼ったのではないかとするのがその考察だ。同氏の越後での活動の始まりも殆どこれと時期を同じくしている。又、大熊氏は、関川中流域の頚城郡内を本貫地としていたが、それ以前、大熊郷にあった時期から既に同郡内に知行地を得ていた可能性も十分に考えられる。参考程度にしかならないが、高井郡、水内郡の国人の内、市河氏、尾崎氏、中野氏等は頚城郡内に飛地の知行地を得ていた事が後の研究で明らかになっている。
城主だった大熊備前守朝秀は、長尾景虎に叛き、後には武田氏に随身した事がその理由なのか、後世の評価がどうにも芳しくない。経理の才に優れる(実父、政秀と共に上杉氏の段銭収納方を務めた。)他、武田氏による上州攻めの際には、剣豪の上泉伊勢守信綱と討ち合いして無傷であったてエピソードが残る程の剛の者、越中から一向一揆衆を同心させて越後へ討ち入るだけの器量と算段も持ち合わせていたりもするのに彼が正当な評価を受けていないのは個人的には凄く残念な事である。
朝秀は武田氏に重用され、元亀二年(西暦1571年)には遠江の小山城城代を務めたりもしている(付近を通る備前守隧道にその名を残す。)。天正十年(西暦1582年)三月の甲州征伐の際には隠居していたと考えられるが、老骨に鞭打って武田勝頼に同道、武田氏に殉じた事はよく知られている。結果として主家への義理を果たし、己れに付き纏う過去の汚名をも自らの死によって精算したとも言える。その一方で子の五郎左衛門尉常秀の系統は、松代藩真田家家老職として代々に亘って存続、始末を付け、一族の後事を別に託して成功し、引き際を知り、死に際を未練としない。なんと見事な最期ではないだろうか。
あ、お城については投げっぱなしで申し訳無いんだけど、アプリの登録城なんで城郭基本情報とアップされている沢山の写真を参照して下さいまし…ちなみに主郭に上がって高田平野を眺望したら、なんだか知らんけどうるうるしてしまった。汗だくだったんでさらさらしたかったんだけど…
※長尾景虎に背き〜被官衆間の不和、景虎の出家騒動等、理由にあっては様々なものが交錯するが、善悪の判断を近世の武士道を基準に求めてはいけない。被官衆は主筋から知行地を安堵される事で成り立つ一種の契約を担保に奉公している。何事も後事を定めず、それを放棄するに等しい景虎の出家表明は為政者としての資格を殆ど失う行為だ。更に言えば、守護家の被官だった大熊氏が、守護代家を出自とする長尾氏を重く見て義理立てする必要も特に無いだろう。
※夏場は訪城を避けた方が良い。なんじゃこりゃ写真を量産する。
2024年04月21日 まるさん伊豆守小町時間割
焼山城登城口[箕冠城 遺構・復元物]
焼山城入口の案内板から道なりに約2,200m進むと幟が目立つのですぐにわかります。
車の方はこの付近が車の行き違い用か駐車スペースとしてかとにかく道幅が広がっていますので2、3台短時間ならば駐車出来そうです(車の回転考えると2台か?)。
本丸の反対側には「じゅんさい池」の看板がありましてその先に池がありまして私が訪れた際には鴨(かな?)が数羽佇んでいました。
2024年04月21日 まるさん伊豆守小町時間割
焼山城[箕冠城 周辺城郭]
焼山城本丸、小さな石柱が立てられています。
周辺はヤツデ(かな?)がそれなりに多いので晩秋の紅葉時期に来たらかなり印象が変わると思いました。
また、来訪は二度目でしたが以前訪れた際は登城口からここまでの間にかなりの数の蜘蛛の巣がありました。
快適に訪れたいなら春先(多分ですが幟などを設置する際に蜘蛛の巣がなくなったと思えるので)がいいようにも思いました。
2020年11月03日 国府左京大夫城介
駐車スペース[箕冠城 駐車場]
頸南バスの峰山バス停は、ここになります。
新井バスターミナルから、340円+240円となります。
2020年11月03日 国府左京大夫城介
箕冠城
箕冠城を公共交通機関でのリア攻めについて(R2.10.31現在)
箕冠城へは、頸南バスを使うと、登城口側まで行くことができます。
直通のバスではないので、一度乗り換えをする必要がありますが、新井駅から30分ほどで着きます。
新井駅から徒歩2分ほどの所にある「新井バスターミナル」から「板倉コミュニティプラザ前」行きで終点まで乗車し、「菰立」行きのバスに乗り換えます。箕冠城のページでは、この菰立から登城するようになっていますが、途中の「峰山」で下車しても登城可能です。「峰山」バス停は、先人が登録した北側の駐車スペースの場所になります。
そこからやや北側にある登り口を使えば、10分ほどで箕冠城に到着します。
なお、この路線は平日は7本/日、土休日は4本/日しかありません。帰りのバスが来るのに、約二時間ほど時間があるので、城内を散策するには十分な時間はあります。しかし、最終便にあっては、散策する時間は全くありません。
なので、バスでリア攻めする場合は必ずサイトでバスの時間を確認してください。
ただし、新井駅まで歩いて戻るのであれば、別ですが…と言いつつ、歩いた方が一本早い電車に乗れるんじゃないかと思って、帰りは一時間ほどかけて新井駅まで歩いて戻りました。
箕冠城の麓までは、ほぼ平坦なので、そこまで歩きにくくはありません。
2019年05月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
箕冠城
(奥)主郭(手前)三郭への虎口☆城主は大熊氏☆大熊氏は長尾氏の有力な家臣としてこの地域を支配☆
2019年05月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
箕冠城
三郭下を守る横堀☆横堀は深さ5m・幅6m位☆三郭は南西部に大きく張り出し南西側の守備の高さが伺える☆
2019年05月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
箕冠城
二郭・馬出し☆ハート形の郭が可愛かったw標高242m☆東西北の三面が切り立った独立峰で山裾を大熊川と子熊川が流れる天然の要害☆
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
説明板[箕冠城 碑・説明板]
以前は石碑のすぐ横くらいにあった説明板がリニューアルされたもの
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
本丸[箕冠城 遺構・復元物]
箕冠城本丸です
頸城平野(高田平野)を一望できます!
本丸の標柱と展望図は引き抜けるように作られていて積雪のある冬期は寝かされています
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
箕冠城址の石碑[箕冠城 碑・説明板]
箕冠城址の石碑
以前はすぐ横に説明板もあったのですがかなりボロボロになっていたので撤去されたようです
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
二ノ丸[箕冠城 遺構・復元物]
西側を横堀、南側を大きな土塁に囲まれた二ノ丸
東屋とその他にテーブルと長椅子が設置されています
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
横堀[箕冠城 遺構・復元物]
二ノ丸横の横堀
本丸への経路上の土橋は元からあったものかどうかの説明は特にありません
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
トイレ[箕冠城 トイレ]
水洗トイレが設置されています。
また、このすぐ横に登城道(ここでは登上道ではなく登城道と表記されています)への下り口があります。
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
箕冠清水と池[箕冠城 関連施設]
湧き出た清水を利用してため池にしているようです
池の脇には飲用と手洗い用の水道が設置されています
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
鎧井戸[箕冠城 遺構・復元物]
鎧井戸と標示されていますが細かい説明などはありません。現在もかなり水があるようです。
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
駐車場[箕冠城 駐車場]
箕冠城の駐車場
10台以上は駐車できると思います
案内図によれば、ここの西側は大堀切となっていますが樹木が生い茂っているためよくわからないです
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
箕冠城址遊歩道 上り口[箕冠城 その他]
上の駐車場の近くまで登れる遊歩道
車だと見逃しやすい場所ですが向かいにある田中産業の採石場入り口がとにかく目立つので
そこの向かい側を気にしておくとわかりやすいです
ただ、駐車スペースは採石場入り口真向かいの路側帯になりますので安全性を考慮するならば少し下の道の広がった場所に駐車するのがよろしいでしょう
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
駐車スペース[箕冠城 駐車場]
登上道上り口と遊歩道上り口の間にある道路が広がっている部分
正規な駐車場ではないですが奥の施設への入り口を塞がなければ長時間置いても問題のない部分です
2019年05月02日 まるさん伊豆守小町時間割
箕冠城址登上道 上り口[箕冠城 その他]
城址公園の入口を通らずに進める登城道の入り口
私事ですが、初めてここに来た2012年~2013年頃にちょうど道の整備が行われていました
2019年04月25日 まるさん伊豆守小町時間割
トイレ[箕冠城 トイレ]
池の近くに設置されているトイレ
またトイレの手洗い用とは別に池のそばに水道の蛇口もあります
これは私の印象ですが冬期間は凍結防止のためか閉鎖されているようです
そのため晩秋、早春に訪れる際はアテにしない方が懸命だと感じました
2012年05月13日 まるさん伊豆守小町時間割
箕冠城
城跡公園の駐車場まで進むと大きな全体図が書かれていますので、
それを参考に進むとよいかと思います
なお駐車場から公園の中心と言える内門跡地や池付近までは、
ゆっくり歩いても10分かからないと思います。
また、トイレは駐車場ではなく池のそばに設置されていました
2012年05月13日 まるさん伊豆守小町時間割
箕冠城
城跡の名残を残した形のまま公園として整備されています
板倉区山部地内の三叉路に『あと3km』の表示がありますが…
実際にその地点から城跡までは直線で500m程度しか離れていません
ただ、見える側は傾斜が急なためか、道路は山を大きく迂回して同区菰立地内まで進むと城跡公園入口の案内板に辿り着きます。