御天山城
御天山城([箕冠城 周辺城郭])
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御天山城の口コミ情報
2024年07月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、今回の口コミは信濃を離れて越後の山城、御天山城っす。訪城理由は、お近くの箕冠城を訪ねた帰り道でGMYSGしてたらヒットしたから。おいら基本的に越後のお城とか全然知らないのさ。あ、GMYSG…「Googleマップで山城してGO♪」の事っす。
御天山城は大熊川東岸(右岸)、別所川西岸(左岸)、両川に挟まれた山塊を構成する一つ、標高約262mの山頂ピークを中心に立地する要害です。北麓の長野・新潟県道95号、上越飯山線からの比高は170m位でしょか。北東方、標高243mの小ピークには同じ箕冠城のリア攻めマップにある焼山城が立地する。ちなみに御天平城とも呼ばれるらしい。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北東麓の「焼山城跡登城口」を目標に設定して下さい。此処から約0.1km北行すればお山に入る道が付いている。車の捨て場所は路駐でOK♪レベル、探索する気が無ければ30分以内でリア攻めを切り上げる事も可能だ。
築城年代、築城者は不明です。城主としては福王子彦八郎孝重の名が伝わる。はっきり言って越後の地方史については浅学なんで全く知らないんだけど、福王子氏は頚城郡板倉郷の地頭職だったそうで、史料上は一貫して府内長尾氏に従っている。城主とされる彦八郎孝重は、天文五年(西暦1536年)、越後守護、上杉定実の一族、上条定範に加担する上田長尾氏と戦い、アプリの登録城、魚沼郡の下倉山城に籠城、長尾房長を退けている。
お城の現況は…まず、このお山、採土によるものなのか地滑りによるものなのか知らんけど、山体の半分ぐらい、西側斜面がごっそりと削り取られているような気がする。縄張の重点は山稜の西側にあったと思われるので、城域の殆どは消滅していると考えられる。山頂部は僅かに形状を留めているが、重機によって地形が分断されており、もはや縄張がどうだとか言える状況に全くない。又、山頂から南側に一段下がった部分には堀形、東側斜面には腰郭様の地形が見られるが、どうにも後世の改変の可能性の方が高いように思う。唯一の慰めは展望が開けている事ぐらい…眺めだけはすこぶる良い。ちなみに狼煙リレーでもやってたんだろうか…痕跡が残っていた。
福王子氏の要害だったのかは別として、二次利用である事を含めて、焼山城に付随する狼煙台や物見台だったと考えた方がよいのかもしれない。山陰に当たる焼山城の立地と役割は道押さえの居館城を越える事はなく、遠隔地への伝達手段を別に頼る必要が発生する。焼山城の後背地、上段に当たる御天山城の立地は正にそれを補うに適当だったと考える。
付近山中には、山寺三千坊の通称で知られた山岳仏教の総本山、山寺薬師への参拝道が部分で今も残る。説明板によると、御天山城の築城に伴い馬道として再整備されたとあるが、その確証を得る事は出来ないだろう。ちなみに山寺薬師は、建仁元年(西暦1201年)の「建仁の乱」の際、乱の首謀者である城長茂の庇護を受けていた事から焼き討ちされ、七堂を誇った伽藍もこの際に焼亡したんだそう。
御天山城繋がりで周辺地域における地滑りについて調べていたら、山寺薬師の南西麓、猿供養集落に「人柱供養堂」なる御堂が建っている事を知った。当地には、地滑りを防ぐために旅の僧が自ら進んで人柱になったという伝説が残っていたそうだが、昭和十二年(西暦1937年)、村人が客土中に掘り出した大甕の中に、座禅姿の人骨と宋銭が納められていたそうで、これにより伝説が事実であった事が確認された。後の人骨の調査によれば、踵の骨が丈夫な五十歳位の男性である事が判明、遊行僧のものであると推測されている。
※未見だけど、猿供養寺集落には「地すべり資料館」なるものが存在する。地滑りが好発する地域なんだろう。後背地の関田山脈は平地から隆起した若い山脈である事が知られているが、隆起は今も続いており、その影響を顕著に受ける地域でもある。資料館、事前に知ってたら行ってたのに〜
※写真⑦は文中にある山寺薬師への参拝道、説明板では単に「軍用道路(馬道)」とする。結構立派な道形が部分で残ってる。
※写真⑧は西麓、福王子集落付近から撮影した近景っす。