長野城(ながのじょう)
長野城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福岡県北九州市小倉南区長野
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 平康盛
築城年
- 保元2年(1157)
主な改修者
- -
主な城主
- 長野氏
廃城年
- 天正15年(1587)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、畝状竪堀群
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
豊前松山城(福岡県京都郡)[7.0km]
小倉城(福岡県北九州市)[9.0km]
大三ヶ岳城(福岡県北九州市)[9.1km]
引地山城(福岡県北九州市)[9.4km]
猿喰城(福岡県北九州市)[10.9km]
花尾城(福岡県北九州市)[12.6km]
障子ヶ岳城(福岡県京都郡)[13.5km]
若松城(福岡県北九州市)[13.5km]
鷹取山城(福岡県直方市)[13.7km]
畑城(福岡県北九州市)[13.9km]
長野城の解説文
[引用元:Wikipedia「長野城」の項目]
長野城(ながのじょう)は、福岡県北九州市小倉南区にあった中世の日本の城(山城)。
位置・構造
現在の北九州市小倉南区長野の、標高209mの城山山頂に位置する。山頂の削平地に本丸、その北東の方形台地に櫓があったと推定されている。城の周囲のほとんどを200以上の畝状竪堀で取り囲んでいるのが特徴で[1]、現在もその遺構が残っている。山麓には城主だった豊前長野氏の菩提寺である護念寺がある。現在は、行橋市の禅興寺(曹洞宗)を菩提寺として、子孫の長野盛徳、長野盛義が眠っている。
歴史
『豊前志』の記述では保元2年(1157年)に平康盛が当城を築き長野氏を称したとされる。また、古伝によると保元2年(1157年)平清盛の従兄弟とされる平時盛の6男、修理判官康盛が豊前の国司となり規矩郡長野に城を築き地名を取り長野氏と称したとされる。しかし現在では長野氏の出自は大宰府官人または長野荘の荘官の説もあり創始は定まっていないが、長野氏の子孫の名前に代々「盛」がつくことが多いことからも平家との縁が深いことを伺わせる。
南北朝時代以降、長野氏は当城を本拠として企救・田川・京都郡などを勢力下においた。
やがて長野氏は大内氏に属し、永禄元年(1558年)に毛利氏が門司城を落とすとその勢力下に入っている。毛利氏が九州から撤退した後の永禄8年(1565年)には大友氏が来攻し、長野氏を支配下に入れた。天正15年(1587年)の九州征伐の後は筑前国に小早川隆景が入り、長野氏はその家臣となって当地を去り、長野城は破却された。
城主であった長野氏の子孫に、守静坊10代目で日本山岳修験学会顧問を務めた長野覚がいる。その他、近代の子孫においては、長野盛徳 - 長野盛義(昭和6年1月1日没)- 長野義一(昭和40年11月20日没)の系譜があり、長野盛義の従兄に、奥保鞏がいる。
出典
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年
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長野城の口コミ情報
2022年07月19日 RED副将軍
長野城
国内最大規模の248条に及ぶ畝状竪堀群は圧巻です✨
オススメ度 ★★★★★
1157年に平康盛によって築かれたと云われます。豊前守に任ぜられ長野氏を名乗りました。
室町時代に入ると、北九州地方に侵攻してきた大内氏に従い、1558年に大内氏が毛利氏に滅ぼされると毛利氏に従います。
1559年から、豊後の大友義鎮が幾度と侵攻をしてきますが、1565年に遂に降伏。
大友氏の傘下となると、1569年に今度は毛利軍に攻められ落城。ここで長野氏は一旦は歴史から消えます。
毛利氏も北九州維持は難しかったため撤退し、1578年には耳川の戦いで大友氏が衰退すると、長野氏も再び馬ヶ岳城で復興し、長野城にも復帰しました。
1585年、豊臣秀吉の九州征伐が開始。長野氏は島津氏と同盟関係にあったため征伐対象となり、抵抗するも大軍を前に降伏。長野氏は転封となり、長野城は廃城となりました。
見所
本丸、二ノ丸、出丸の大きく3ブロックで構成され、おびただしい数の畝状竪堀群が周囲をビッシリと張り巡らせています。
主郭周辺は浅いところが多く、下草も多いので冬期の訪城をオススメします。
最大の見所は本丸から二ノ丸への間です。土橋状になり、その両脇に最大の畝状岨塁が連続しており必見です。
行き方は、長野緑地公園に駐車し、そこから林道を徒歩で向かいます。途中で崩落している個所もあり注意が必要です。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
宝積寺城[長野城 周辺城郭]
「ほうしゃくじじょう」と読むようです。
「豊前国戦国事典」によると、宝積寺伊賀守が居城したそうで、城跡は山頂の南北約100m、東西約50mの範囲に展開しているとありました。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
長尾城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、戦国時代の山城で土塁が現存するとありました。
長野氏の支城で、長野氏の家臣、高野三郎能行の居城となっていたようです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
水上城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、戦国時代に長野氏の砦として築かれたようです。
曲輪と堀切が残っているそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
山本城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、築城者は長野氏一族の山本義親で、南北朝時代から戦国時代の城のようです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
木下城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、南北朝時代から戦国時代までの城だそうです。
応永年間(1394-1428)には小野田兵部少輔種尚が築城し詰城としていたようです。麓に館跡があるそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
稗畑山城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、長野種盛が築城し長野氏の出城となったようです。
永禄8(1565)年、長野成敗の際に大友氏の城となったようです。
永禄11年5月3日毛利勢占領、5月20日大友勢攻略、9月毛利勢の総攻撃で落城したとありました。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
椎山城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、鎌倉時代から戦国時代の城で築城者は長野豊前守種守。
『北九州戦国史』では、長野義衡が築城者として挙げているようです。
曲輪と堀切が残っているそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
貫城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、築城者は新田上野介義基で南北朝時代の応安年間(1368-1375)に築城されたようです。戦国時代には新田氏の後裔の貫氏の城になり、曲輪や土塁、空堀が残っているそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
堀越城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、築城者は長野義仁で長野氏の支城として紹介されていました。
しかし、『北九州戦国史』では長野氏の一族である堀越義豊が築城者とされているようです。
元亀元(1570)年以降、高橋鑑種の家臣、高橋治郎が在城していたようです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
丸ヶ口城[長野城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、戦国時代の山城で、高橋治郎が築城者とされているが、『北九州戦国史』では長野義種の子、義仁を築城者として挙げているそうです。
長野氏の支城だとありました。
2021年04月03日 大納言Z周防守369
貫城[長野城 周辺城郭]
(ぬき)と呼ぶ。南北朝時代に新田義基が築いたといわれ、のちに懐良親王の実子を養子に迎え、貫掃部介宗景と名乗らせて城主にした。
2019年04月23日 大隅守上
駐車場[長野城 駐車場]
ここに車を停めて歩きます
2018年02月02日 笑門来猫
長野城
林道を延々と歩いた先に赤い三角コーンが置いてあり、その奥に「二の郭入口」という10㎝程度の小さな案内板を発見できました。
竪堀の中を登って二ノ郭へ。尾根道を進んで本丸。その後、あちこち迷いながら、藪を何度か突っ切って出丸へ。その後、林道に降りてくるというコースで回りました。
現状は人の手がほぼ入っておらず、十二分な注意が必要なお城と思います。(イノシシ、マムシの警告あり。立ち枯れの大木も多いです。)
ちなみに、木に巻き付けられた赤いテープが道標になるのですが、必ずしもメインルートを示しているわけではないようで、これを辿って進んでいたら迷ってしまいました。
そこで参考にしたのが余湖さんの縄張図。見通しが効かない藪エリアでも大岩の存在感は大きいのですが、それがきっちり図面に描かれており、自分の場所を把握するのに非常に役に立ちました。訪問される方は必携です。
2016年10月12日 カーネル
長野城
日豊本線 安部山公園駅から西鉄バスで舞が丘5丁目で下車
バス停から南へ30分歩き、東九州自動車道がトンネルになるところを目指します
林道長野線の起点を過ぎるとゲートがありますが、右側から入れます
高速をくぐり林道を登ります
20分で林道が大きく崩れていてますが、右斜面にはこれを迂回するための道があるのでよじ登り、そのまま尾根を通り山中へ
尾根を進んで出丸の標識がある小山を過ぎ、先へ進むと本丸です
道中の右手には畝堀が続いてます
いいところですが、道が明瞭でないので迷わないように注意です(2回行き2回とも迷いました)
バスが少ないので帰りは、ひたすら北上して農事センター入口のバス停まで歩きました。歩いた時間は3時間
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2013年12月16日 三河守コーキしゃん
長野城
県道25号「長野緑地入口」の信号を長野緑地方面へ曲がります。
長野緑地の駐車場(トイレ有り)にクルマを停めて、南に250mほど歩くと林道入口のゲードがあります。
ゲードから東九州自動車道をくぐり、林道を道なりに20分程行くと崖崩れの為行き止まりになりますが、右手に登り用のロープがあり、ピンクリボンをたどって登ると出丸に出ます。
土塁、横堀、枡形状の虎口、なんと言って畝状竪堀がとても良好に残っているお城で、特に本丸南側の斜面は長くくっきりと竪堀が残っていて、かなり見応えがあります。
城域も結構広いので、長い時間楽しめると思います。