門司城(もじじょう)
門司城の基本情報
通称・別名
- 門司関山城、門司ヶ関山城、亀城
所在地
- 福岡県北九州市門司区門司字古城山
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 紀井通資
築城年
- 元暦2年(1185)
主な改修者
- -
主な城主
- 紀井通資、門司(藤原)氏、大内氏、大友氏、毛利氏、細川氏
廃城年
- 元和3年(1617)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
下関前田台場(山口県下関市)[1.8km]
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門司城の解説文
[引用元:Wikipedia「門司城」の項目]門司城(もじじょう)は、豊前国企救郡門司(現福岡県北九州市門司区大字門司字古城山)に存在した日本の城(山城)。城跡は和布刈公園として整備されている。
【概要】
関門海峡を望む、標高175mの古城山の山頂に築かれた。本丸跡には砲台の土台が残っている。
【沿革】
『豊前志』などの記述によれば、1185年(元暦2年)に平知盛が家臣の紀井通資に命じて築いたという。
1255年(建長7年)に藤原親房が豊前代官職として入城し、門司氏(もんじし)を名乗るようになった。南北朝時代には当城の門司親尚らが北朝、猿喰城の門司親頼が南朝に付いて門司氏は分裂している。
戦国時代には当城をめぐる攻防が続き、1430年(永享2年)に秋月春種と原田信朝が大内氏を攻めて当城を落とした。その後、大内氏の城として存続するも、1551年(天文19年)の大寧寺の変の後、厳島の戦い、防長経略を経て、毛利氏と大友氏の不可侵条約の条件として豊前国は大友領となり、門司城は大友氏の城となった。しかし、毛利氏は1558年(永禄元年)に小早川隆景を大将として門司城を攻撃。城を奪取し、仁保隆慰を城代とした。
1561年(永禄4年)には戸次鑑連、田原親堅、臼杵鑑速ら大友義鎮の軍勢・数万人が門司城を攻めた(門司城の戦い)が、毛利氏はこれを撃退している。この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号し、将軍足利義輝を仲介しての和睦交渉を進め、1564年(永禄7年)7月に尼子氏との戦いが激化た毛利氏との和睦が成立し、門司城は引き続き毛利氏の勢力下となった。
1600年(慶長5年)に細川忠興が豊前国に入ると、城を修築して長岡勘解由を城代におき、1617年(元和3年)に廃城となった。1892年(明治25年)に大日本帝国海軍の下関要塞が築かれたため遺構はほぼ壊滅したが、往事の石垣が一部残っている。
【参考文献】
・角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年[続きを見る]
門司城の口コミ情報
2019年07月31日 内大臣織田晃司
門司城
めかり公園に駐車場がありますが一方通行になっており、登った道を下りることはできません。
和布刈(めかり)って当て字かっ!
2018年05月26日 cinelli2
門司城
めかり公園への連絡道路を進むと駐車場があり、その脇に城跡への案内板があります。そこを登って行けばしばらくして門司城の石柱があります。
2016年10月12日 カーネル
門司城
鹿児島本線の門司港駅より
県道261を北上します
門司城まで道なりに歩くと遠回りなので、真光寺の前を通り山へ向かう道を進むと、急な階段になります
これを登りなぞの施設(たぶん関門トンネルの排気塔)の脇を歩くと、林道を経てお城の東の車道に出れます
車道にでたら反時計回りに進むと近いですが、時計回りに進むと、関門海峡を見下ろせる展望台からの景色がキレイなのでお薦めです
さらに時計回りに、グルグル回りながら登り続けると、山頂の本丸です
ここには立派な石碑が立ってます。帰りもショートカットできる急階段から県道261に向かい、門司港駅に戻りました。早歩きで往復1時間半でした
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2012年06月04日 征夷大将軍あぶり餅
門司城
門司港レトロ展望台の北側にレンタサイクルターミナルあり。電動付自転車を借りれば城跡まで楽に登れるかな。レンタル料金は1日500円。関門人道トンネルを抜ければ檀ノ浦古戦場跡からもまた違った眺めも楽しめます。