下関前田台場(しものせきまえだだいば)
下関前田台場の基本情報
通称・別名
- 長州藩下関前田台場、前田御茶屋台場
所在地
- 山口県下関市前田
旧国名
- 長門国
分類・構造
- 台場
天守構造
- なし
築城主
- 長州藩
築城年
- 文久3年(1863)
主な改修者
- -
主な城主
- 長州藩
廃城年
- -
遺構
- (発掘調査:削平地、土塁)
指定文化財
- 国史跡(長州藩下関前田台場跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
門司城(福岡県北九州市)[1.8km]
櫛崎城(山口県下関市)[2.7km]
勝山城(山口県下関市)[6.4km]
猿喰城(福岡県北九州市)[8.6km]
松屋城(山口県下関市)[12.9km]
小倉城(福岡県北九州市)[13.4km]
鬼ヶ城(山口県下関市)[14.0km]
引地山城(福岡県北九州市)[15.5km]
若松城(福岡県北九州市)[16.3km]
豊前松山城(福岡県京都郡)[18.8km]
下関前田台場の解説文
下関前田台場の口コミ情報
2024年05月16日 釣ヶ浜備中守四郎
下関前田台場
9号線の海側にも駐車場があるようでしたが、坂を上がった突き当りにも少し車を置ける所がありました。
2023年02月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
下関前田台場
国指定史跡に登録されています。専用の駐車場は有りませんが、スペースはありました。また壇之浦台場のように長州砲などのレプリカはありませんが、台場としての遺構は残っているので、こちらの方が個人的には好きです。
説明板によると、連合艦隊に徹底的に落とされたのがきっかけで、長州藩が倒幕へと方針転換した貴重な遺構のようです。私が訪れた時には、何やら発掘途中のような跡がありましたので、どんな発見があるか楽しみです。
城郭として観察した限り、守るためというより寧ろ攻撃を重視した造りのように感じました。それで落城もさもありなんという感じでした。
前田台場への入口に看板がありましたが、小さめなので見落としやすいかもしれません。
2023年02月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
壇ノ浦古戦場跡[下関前田台場 碑・説明板]
源平合戦の代表的な古戦場跡です。駐車場はありませんので、関門トンネル人道入口の駐車場に停めたり、バス停があるのでバスを利用して見学する事が出来ます。
今でも大小様々な多くの船が関門海峡を行き来しています。間近で流れの速い色んな海流を観ることが出来ます。きっと壇ノ浦の合戦の頃も同じ海流だったのでないかと思います。
ここで8歳という若さで安徳天皇が入水したことを思うと、いかに戦争が悲惨さかという事が改めて分かります。
ちなみにここは二位尼の辞世の句にちなんで、みもすそ川公園として整備されています。
2023年02月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
壇之浦台場[下関前田台場 周辺城郭]
壇之浦古戦場跡に築かれた台場です。説明板によると攘夷戦の報復に備えて、前田台場とこの壇之浦台場を築いたようです。長州砲とカノン砲のレプリカが展示していましたが、台場としての遺構は不明です。駐車場はないので、関門トンネル人道入口の駐車場に停めて見学しました。バス停もあるのでバスに乗車するのも良いかもしれません。台場としての視点で見ると関門海峡と隣接しているため、幕末の対外国船防御としての城郭機能は皆無のように感じました。
ちなみに前田台場には長州砲のレプリカはありませんのでお気をつけください。
2022年09月11日 としchan左近衛大将
下関前田台場
関門トンネルで門司港から歩いてリアル攻略。石碑と説明の看板があります。なお、遺跡では有りませんが関門トンネル歩道下関側は大砲がならんで雰囲気が面白いです。
2019年07月31日 織田上総介晃司
下関前田台場
長州砲のレプリカがある「みもすそ川公園」より国道9号線を広島方面に進んだ所に下関前田台場はあります。
2011年09月19日 筑後守もんど
下関前田台場
近くの別の砲台跡に当時の大砲のレプリカ?が並べてあり、一緒に見るとよくわかります。
2011年09月19日 筑後守もんど
下関前田台場
地主様のご厚意により一部立ち入り出来ます。
無料駐車場が裏手にあります。
歴史
幕末の攘夷戦争において、長州藩が築造した台場だ。長州藩は外敵に備えるため、響灘沿岸部と長府から彦島にかけての海岸付近に数十か所の台場を設置。下関前田台場は、そのうちのひとつだった。関門海峡の東入り口付近にある茶臼山の西南麓、標高10~16mの高台に設けられ、西の関門海峡から東の周防灘までを一望できる。「低台場」と「高台場」の2つで構成される。攘夷を唱えた長州藩は、文久3年(1863)5月に関門海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダの商船や軍艦を3度に渡り砲撃。低台場は、この砲撃に備えて築かれていた。しかし同年6月にフランス軍に破壊され上陸を許したため、元治元年(1864)に東面の防備を兼ねて短期間で高台場が増設された。
元治元年8月5日からの四国連合艦隊による下関遠征で、下関前田台場は集中的に攻撃を受け、連合艦隊に占拠された。停戦状態を経て、同14日に講和が成立。下関前田台場を含む各台場は連合艦隊に破壊され、設置されていた大砲は接収された。大砲の一部は各国に遺され、このうち一門がフランス・パリのアンヴァリッド軍事博物館から里帰りして下関市立歴史博物館に展示されている。
遺構
発掘調査により、低台場からは大砲設置のために整地された幅6~7mの平坦面と、その背後に存在した作業場と思われる延長35m以上の平坦面が確認されている。現在は失われているが、前面には土塁があったようだ。背後の平坦面に流入した雨水を外部へ排水するためのものと思われる排水溝も見つかっている。イギリス軍が占拠時に作成した実測図によると、規模は幅約80m、奥行き約30mで、弾薬庫を挟んで西に5門、東に1門の大砲が設置され、弾薬庫の西南に上陸用の坂道がある。
戦闘に使用された銃弾のほか、連合艦隊に撃ち込まれたと考えられる砲弾も着弾状態で出土している。陸戦歩兵用の新式ライフル銃であるミニエー銃の銃弾や火縄銃の弾も出土した。
高台場には土塁が残存しており、その規模は、南側が約30cm、西側が約20m、基底幅は3m以上、最大高は115cm。西側の土塁は焼土層に覆われ、その上に敷石が直線的に置かれ、板塀が設けられていたと推定される。イギリス軍の実測図には幅約50m、奥行き約30mと記されている。
この場所からは古瓦が大量に出土しており、前田茶臼山遺跡として古代官衙跡の可能性が予測されている。また、元禄年間には長州藩3代藩主の毛利綱元が藩主の別邸である御茶屋を建造しており、国道9号に面した階段を登ったところに「前田御茶屋䑓場址」の標柱が建てられている。廃藩後は旧長州藩家老の三吉家が家宅を構えた。
交通
・中国自動車道・関門自動車道下関ICから車で約8分参考文献
・『史跡長州藩下関前田台場跡保存管理計画』下関市教育委員会、2015年。・『前田茶臼山遺跡(山口県埋蔵文化財調査報告 第187集)』、山口県教育委員会、2003年。
・山口県埋蔵文化財センター ホームページ、リーフレット。