宇留津城(うるつじょう)

宇留津城の基本情報

通称・別名

所在地

福岡県築上郡築上町大字宇留津(地図は石碑の場所を示す)

旧国名

豊前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

緒方惟栄

築城年

元暦年間(1184〜1185)

主な改修者

主な城主

緒方惟栄、加来氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

馬ヶ岳城(福岡県行橋市)[10.3km]
旭城(福岡県豊前市)[10.6km]
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)[11.7km]
中津城(大分県中津市)[14.1km]
唐原山城(福岡県築上郡)[15.3km]
豊前松山城(福岡県京都郡)[16.2km]
障子ヶ岳城(福岡県京都郡)[17.0km]
城井谷城(福岡県築上郡)[17.7km]
大畑城(大分県中津市)[19.5km]
長岩城(大分県中津市)[19.9km]

宇留津城の口コミ情報

2025年08月01日 尼崎城信濃守一口城主
守田蓑洲旧居及び沓尾の石切丁場[宇留津城  寺社・史跡]



6/22、松山〜小倉フェリーで早朝に九州に上陸後、未攻略だった北九州の大三ヶ岳城をリア攻めし帰路は夕方に門司からのフェリー⛴️で関西に帰港予定でした。夕方のフェリーまで時間が出来、中津の軍師殿が行橋まで出陣🚙してくれるとのことになり、私はバス🚌と列車🛤️に乗り継ぎ行橋まで移動。
軍師殿に行橋駅から東(周防灘方面)にある守田蓑洲旧居及び旧居前の沓尾の石丁場の史跡を案内して頂きました。
まず、守田蓑洲旧居からですが説明板(写真①)と玄関(写真②※裏山が沓尾の石丁場跡(松山神社⛩️))を撮影。
頂いたパンフレットより、守田蓑洲旧居は江戸時代に代々村役人(庄屋や大庄屋)を務めた守田家の屋敷で、主屋を中心に、門や庭園からなります。蓑洲(1824~1910)は第27代当主で幕末から明治にかけて地域の発展に尽力したとのこと。
受付の方に案内して頂き、客間からの庭園の眺め(写真③)や明治4年にオランダ人をお迎えしたことによりオランダ門とも呼ばれる冠木門(写真④)などを解説してもらいました。来賓用の浴室のタイル(写真⑤)は当時からの貴重なタイルとのことでこのタイルを見学目的で足を運ばれる方もいらっしゃるとのことでした。
訪問時、最もびっくり😳そして感激✨したのは後藤又兵衛の槍(写真撮って⑥※レプリカ)でした。見えづらいかも知れませんがパネル(写真⑦⑧)を載せておきます。当日の説明から黒田家を出奔した後藤又兵衛の潜伏に協力し出立(大阪の陣⁉️)する際に槍が守田家に伝わったとのことでした。
※当館では馬ヶ岳城の御城印が販売されていたので購入したので、馬ヶ岳城のリア攻めスポットで登録しようとしましたが距離縛りがあるようで宇留津城のリア攻めスポットで登録させて頂きました。

2025年08月01日 尼崎城信濃守一口城主
守田蓑洲旧居及び沓尾の石切丁場[宇留津城  寺社・史跡]



[沓尾の石切丁場(前編)]
6/22、中津の軍師殿に案内して頂いた福岡県行橋市の守田蓑洲旧居より見学に向かいました。旧居内にあった沓尾の石丁場のパネル(写真①)を載せておきます。※パネルの説明板の文字、小さくて見えづらいかも知れないので頑張って書き起こしてみます✏️「元和元年(→615)の大坂夏の陣で傷んだ大坂城を再興するために徳川幕府は元和六年(1620)に西日本の六十四家の大名に石垣の修築を命じた。これを天下普請という。沓尾石切丁場は、この天下普請に志願した豊前小倉藩主細川忠興が採石を行った場所である。国立国会図書館所蔵の「大坂城普請丁場割之図」の絵図と細川家の重臣であった松井家の文書の二つの資料から、細川忠興は乾櫓が残る西の丸北西西隅の普請を担当していたこと、沓尾から大坂城まで石を運んだことが分かった。下記の「松井家文書」に「大角五つ」とあるように、乾櫓の下の石垣から角部に使われた沓尾産の巨石が見つかっている。細川忠興が石切丁場に沓尾を選んだ理由は、沓尾が海に面していて石を運び出すのに最適だったこと、沓尾山から良質の花崗岩が採れたことだった。沓尾山の麓にある松山神社や龍日売(たつひめ)神社の周辺には、上辺や側面に矢穴と呼ぶ楔を打った跡の残る石が多く見られる。この石が石を切り(割り)出した跡に残った残石である。沓尾の石切丁場には、沓尾の港を開拓せよという細川忠興の命により、今井から沓尾に移り住んだ守田家が関わった可能性が考えられる。〜」
パネルの左側に大坂城の乾櫓の石垣に沓尾産の石が見つかったとあり、大阪城のガイドさんに大坂城の乾櫓の写真(写真②③)を送ってもらいました🙇🏻‍♂️石垣の角石の上から4、5、7、8、9番目の5個の石が沓尾産とのこと。パネルの写真だと見えずらいかも知れないので角部の石垣を上から数えて沓尾産の石を探してみて下さい🔍ガイドさんから細川家の刻印についても<九曜紋>だったり、漢字の<九>が刻まれていることなど教授頂きました🪨
石切丁場見学で、まず守田家旧居前にあった大坂城に運ばれた石材の残石(写真④⑤⑥)を見学。旧居跡でもらった案内図(後編の写真③と同じもの)に沿って松山神社の鳥居(写真⑦)から進みました。参考までに写真⑦の鳥居奥に見えている説明板の案内図(写真⑧)も載せておきます。

2025年08月01日 尼崎城信濃守一口城主
守田蓑洲旧居及び沓尾の石切丁場[宇留津城  寺社・史跡]



[沓尾の石切丁場後編]
松山神社麓の鳥居から登っていくとふしぎな大石(霊石:写真①②)があり、さらに霊石から階段を上がっていくと案内図(写真③)がありました🪧ショートコースとロングコースの岐路に立ち、当日の山城巡りでの消耗度からショートコースを選択😅ショートコースを進むと蓑洲守田翁祝壽碑の立派な石🪨(写真④⑤)がありました。さらに進むと神勅碑(写真⑥・正面から、写真⑦・背面から)の巨石がありました。
散策中、矢穴のある残石(写真⑧)を見つけ、相方は大坂城へ行ったのか、もしかしたら次の普請に備えていたものなのだろうか❓空想しながら眺めていました。
大坂城のガイドの姉さんに沓尾の石切丁場を解説してもらうと現在の調査で分かっている大坂城の石垣に使われた石の採石場で最も遠い所とのことでした。
大坂の陣で奮戦した後藤又兵衛ゆかりの地と大坂城を支える石の採石場となった地が福岡県行橋市のほぼ同じ場所にあったんだなと口コミを書きながら感傷に浸ってきました🤔

2025年06月07日 宮内少輔星穏
法然寺城[宇留津城  周辺城郭]



法然寺は、築上町東八田にある浄土宗のお寺です。

天正15年(1587年)に九州を平定した豊臣秀吉から豊前六郡を与えられた黒田官兵衛が、最初に仮の館にしたとされます。黒田家の歴史を記す『黒田家譜』には、「孝高豊前国に入国し、まず時枝城(大分県宇佐市)にて領内の仕置を沙汰し三カ条の制法を出し給う。その後、法然寺という寺を仮りの住まいとし、しばらく留り居続ける。長政は京都郡馬ケ岳の城に居給う。その間二里あり」とあります。

訪れて思ったことは、比較的小さな寺で平地であり、なぜ官兵衛がここを居所としたのかということでした。調べたところ、法然寺を再興した行信とのつながりがあることがわかりました。

法然寺は、西願法師が天台宗の金剛院胎蔵寺を開山したが後に荒れ果て、その寺を行信が浄土宗西山派の念仏三昧院法然寺として再興しました。行信は播磨国で生まれ、天台宗を学んだ後、法然上人に浄土宗を修めた人物です。法然寺は、企救郡(現北九州市小倉南区)長野にある護念寺の末寺で、護念寺は最初に、秀吉・官兵衛の軍門に下った馬ケ岳城主の長野氏の一族が開いた寺です。

官兵衛が法然寺を再興した行信と同じ播磨国の出身であること、長野氏の縁である護念寺との関係、豊前六郡を治めるには馬ケ岳より交通の便が良いことなどを考えると、官兵衛がこの法然寺を選んだ理由がうなずけました。

法然寺へは、国道10号を中津市方面へ東八田交差点を右折してすぐになります。

遺構としては、堀跡と思われるくぼんだ区画が境内の周囲にあります。幅は約10mあるということで、防御を意識したものであったと思われます。

参考文献 『豊前戦国事典』三浦尚司編、『京築風土記』山内公二

2025年03月27日 ハチ
宇留津城



この看板をはいります。神社にありますが今は桜が綺麗だった。

2025年02月23日 宮内少輔星穏
沓尾石丁場跡[宇留津城  寺社・史跡]



福岡県行橋市の沓尾(くつお)にある石丁場跡は、江戸時代に荒廃した大阪城の石垣の修復のために石を切り出した場所です。

元和6年(1620)に徳川幕府が出した天下普請により、西日本の大名を中心に石垣の修復が命じられました。豊前小倉藩の城主、細川忠興は沓尾で石を切り出し、沓尾港から大阪城へ運ばせました。忠興が角石用の巨石五つを切り出した事が古文書に記されており、平成19年(2007)に大阪城で行われた石材鑑定で乾櫓下の石垣角石に使われた事が特定されています。乾櫓は大阪・京都を往還する旅人が必ず目にする「晴れの場所」で、忠興が特に望んだ場所だそうです。そのため、石垣の切り出しにもかなりの想い入れがあったと思われます。

石丁場跡は、龍日賣(たつひめ)神社の裏山にあります。また、周辺にある松尾神社(豊前松山城の城主、杉弾正弘信らの霊を祀る)にも巨石がごろごろとしていて、矢穴が残る石もたくさんありました。豊臣秀吉が城を築く際に切り出そうとしたら霊が現われて暴れ、石工達が作業をやめたという「霊石」をはじめ、「獅子岩」や「烏帽子岩」と呼ばれる奇岩などがあり、地元の方々に大切にされているようです。

2025年01月14日 自転車制覇
宇留津城



10号線から少し入ります。道幅も広く、到着容易。先達さんのコメント通り平野の至るところに池、湿地が点在し、間隔を明けて水量の豊かな川もあり、陽当たりの良い、農業生産の上がる土地柄に見えました。お寺、神社の造りも立派な地域です。豊前の国の【豊】そのまま❗

2024年08月24日 宮内少輔星穏
野ノ仲城[宇留津城  周辺城郭]



野ノ仲城は宇留津城から北西に2kmの所に位置します。応永年間には八田氏が、天正年間には宇留津城城主であった加来氏の家臣、一万田左近が居城していました。

天正十四年(1586)、豊臣秀吉の九州平定の際に黒田官兵衛らの攻撃を受けて宇留津城とともに落城したとされています。

現在遺構は残っていませんが、大正時代まで外濠や土塁跡が残っていたようです。周辺には、土居ノ内、矢倉下、上小路など城跡に関係する地名が残り、野ノ仲城があったと推定されています。

八田の若武将と竜神姫との恋の伝説があり、ひっそりと龍神社が祀られていました。

2022年04月23日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
参勤交代お休み場[宇留津城  碑・説明板]



偶然見つけました。小倉から中津を経由して宇佐神宮へと続く中津街道で、この場所にお茶屋が並んでいて道中の休憩所として賑わっていたようです。

駐車場はありませんが、離合するためか少し広くスペースをとっている所にあるので交通の邪魔にならないように配慮して見学出来ます。

2022年04月23日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
宇留津城



現在城址は須佐神社となっていて、残念ながら遺構も消滅してしまっています。
堀の名残などもあるかもしれないと思いつつ周囲を散策しましたが、官兵衛が苦戦したとは思えない長閑な感じでした。しかし、城址の周囲には田んぼが広がっているので、当時から湿地として難攻な城だったことを匂わせてくれます。

須佐神社の駐車場に停めることが出来ます。

2021年04月30日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
法然寺城[宇留津城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」には、法然寺の境内に位置した平地の城館。
天正15(1587)年、黒田官兵衛がこの寺を仮の居所としたそうです。

2021年04月30日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
沓尾城[宇留津城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」には、築城者は北畠顕吉で根津海上警備のために築城された南北朝時代から戦国時代までの山城だったそうです。

2021年04月30日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
元永城[宇留津城  周辺城郭]



「豊前国戦国事典」によると、築城者は北畠兵部少輔で北畠氏代々の居城となった戦国時代の山城だそうです。

城址は神社となっていました。そのため石段など整備されているので登城しやすかったです。
一部大雨被害からの復旧がなされていない箇所もあり、立入禁止区画等ありましたが(2022年4月22日現在)、地元の方の散歩コースとしても利用されている感じでした。

主郭と思われる頂部には神社があり、堀切を挟んで副郭がありました。
また登城する間にそれなりに大きな空堀や、神社への道として利用している大きな竪堀も見受けられました。

途中まで車で登れますし、そこに駐車場として利用出来る広いスペースもあります。
ちなみに主郭と副郭を区切る堀切辺りに、猪が筍を掘り出したと思える跡もあったので用心されてください。

中々良い感じの山城でした。

2021年04月30日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
覗山城[宇留津城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」には、平安時代の山城とありました。
築城者は高瀬種忠で、天慶の乱の頃に築城されたようです。

2021年04月30日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
茶臼山城[宇留津城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」には、船迫窯跡公園にある小規模な山城とあり、沿革等の詳細は不明なようです。

2021年04月30日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
広幡城[宇留津城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」によると、鎌倉時代に宮原忠将が築いたそうです。
それから、城井鎮房が出城として修築し、家臣の瓜田春永を城代として置いたようです。
天正15(1587)年に黒田軍の攻撃を受けた時には降伏し落城したとありました。
城跡には岩丸山の尾根道に沿って土塁が残っているそうです。

2021年04月29日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
赤幡城[宇留津城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」によると、神社の背後に城跡はあるようです。
城井谷の防衛の最前線の城だったようです。
天正15(1587)年、黒田氏の家臣、母里太兵衛と小河内伝右衛門の軍勢に攻められ落城したとありました。

2021年04月28日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
釜倉城[宇留津城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」には、築城者は北条太郎とありました。
天正16(1588)年の黒田氏との合戦の際に、城井氏の出城として使われたそうです。

2021年03月24日 龍馬備中守【】
沓尾山石切丁場[宇留津城  寺社・史跡]



福岡県の行橋市にある沓尾山の石切丁場☆現在・山には沓尾松尾神社があってコレは苅田松山城主様の杉弾正弘信氏を祀ってます☆

この沓尾山の巨石群は平尾花崗閃緑岩と火成岩で出来ていて境内には「獅子岩」や「烏帽子岩」と名付けられた奇岩が沢山あります☆

コレだけの巨石が沢山転がっている為やっぱりありますね♪石切丁場☆
至る所にノミの痕跡(矢穴)が残ります♪
江戸時代からの石切丁場は石垣の石達に使用されました☆ここから切り出された石材群は【大坂城天下普請】の為に小倉藩主・細川忠興の命で海路で大坂へ運ばれて使用されていました☆
あの石はどこから来たんだろう?そんな疑問も払拭されました♪


2012年11月09日 きたろう三世
宇留津城

公民館に石碑と説明板がある。須佐神社に土塁があるが関連はわからず、遺構は無い様子。かつての堀は水田になっているので、雰囲気は味わえた。5㎞程度南西に行くと城山桜公園(馬場城)があり、堀切や曲輪等の遺構が残る。

宇留津城の周辺スポット情報

 参勤交代お休み場(碑・説明板)

 釜倉城(周辺城郭)

 赤幡城(周辺城郭)

 広幡城(周辺城郭)

 茶臼山城(周辺城郭)

 覗山城(周辺城郭)

 元永城(周辺城郭)

 沓尾城(周辺城郭)

 法然寺城(周辺城郭)

 野ノ仲城(周辺城郭)

 沓尾山石切丁場(寺社・史跡)

 沓尾石丁場跡(寺社・史跡)

 守田蓑洲旧居及び沓尾の石切丁場(寺社・史跡)

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