覗山城
覗山城([宇留津城 周辺城郭])
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覗山城の口コミ情報
2025年12月06日 宮内少輔星穏
覗山城は、行橋市稲童(いなどう)にある覗山(のぞきやま、標高123m)の頂上部にあります。築城者は高瀬種忠、天慶の乱の頃の築城とされています。
北の無線中継塔の横に山頂に至る登山道があります。無線中継塔の上の部分が三郭で、その北東下に堀切があり、そこから小さな段曲輪が続いています。
南西端の山頂部が主郭で、中央が一段小高くなっており、その周囲に短い連続竪堀がやや間隔を開けて巡っています。主郭の東下が一段低い二郭となり、周囲には畝状竪堀群があり、南東尾根は堀切で断ち切っています。
文明8年(1476)、応仁の乱終息間近に覗山合戦が行われています。朝鮮の『成宗康靖大王実録』の文明8年の項に、「豊前国八郡のうち少弐と大内が各四郡ずつ支配していたが、大内が少弐の分をも支配した。少弐政尚は旧領を回復すべく宗職盛、宗国久ら兵四千を率いて豊前国に侵入し、古城(馬ヶ岳城と岩石城)に立て籠もったので、大内氏の代官陶弘護が兵三千を率いて新城(行橋市覗山城か)を築き対陣し、五月の合戦で大友方六〇名、少弐方六名の死者を出したが勝負はつかなかった」とこの間の様子が記されています。
大内政弘から門司彦九郎へ宛てた軍忠状に「去五月二十九日、豊前国除での合戦の時、疵をされたことは神妙である」と除(のぞき)の合戦での負傷を労っています。除も覗も「のぞき」と発音されることから、除は行橋市大字馬場字覗すなわち覗山に当てることができると考えられています。軍忠状には山城の所在は記されていませんが、現地の状況を加えて判断すると文明8年には山城が所在していたと思われます。
参考文献
『行橋市史 中巻』行橋市史編纂委員会編
『豊前国戦国事典』三浦尚編
2021年04月30日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
「豊前国戦国事典」には、平安時代の山城とありました。
築城者は高瀬種忠で、天慶の乱の頃に築城されたようです。









