守田蓑洲旧居及び沓尾の石切丁場

守田蓑洲旧居及び沓尾の石切丁場([宇留津城  寺社・史跡])

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守田蓑洲旧居及び沓尾の石切丁場の口コミ情報

2025年08月01日 尼崎城信濃守一口城主


6/22、松山〜小倉フェリーで早朝に九州に上陸後、未攻略だった北九州の大三ヶ岳城をリア攻めし帰路は夕方に門司からのフェリー⛴️で関西に帰港予定でした。夕方のフェリーまで時間が出来、中津の軍師殿が行橋まで出陣🚙してくれるとのことになり、私はバス🚌と列車🛤️に乗り継ぎ行橋まで移動。
軍師殿に行橋駅から東(周防灘方面)にある守田蓑洲旧居及び旧居前の沓尾の石丁場の史跡を案内して頂きました。
まず、守田蓑洲旧居からですが説明板(写真①)と玄関(写真②※裏山が沓尾の石丁場跡(松山神社⛩️))を撮影。
頂いたパンフレットより、守田蓑洲旧居は江戸時代に代々村役人(庄屋や大庄屋)を務めた守田家の屋敷で、主屋を中心に、門や庭園からなります。蓑洲(1824~1910)は第27代当主で幕末から明治にかけて地域の発展に尽力したとのこと。
受付の方に案内して頂き、客間からの庭園の眺め(写真③)や明治4年にオランダ人をお迎えしたことによりオランダ門とも呼ばれる冠木門(写真④)などを解説してもらいました。来賓用の浴室のタイル(写真⑤)は当時からの貴重なタイルとのことでこのタイルを見学目的で足を運ばれる方もいらっしゃるとのことでした。
訪問時、最もびっくり😳そして感激✨したのは後藤又兵衛の槍(写真撮って⑥※レプリカ)でした。見えづらいかも知れませんがパネル(写真⑦⑧)を載せておきます。当日の説明から黒田家を出奔した後藤又兵衛の潜伏に協力し出立(大阪の陣⁉️)する際に槍が守田家に伝わったとのことでした。
※当館では馬ヶ岳城の御城印が販売されていたので購入したので、馬ヶ岳城のリア攻めスポットで登録しようとしましたが距離縛りがあるようで宇留津城のリア攻めスポットで登録させて頂きました。

2025年08月01日 尼崎城信濃守一口城主


[沓尾の石切丁場(前編)]
6/22、中津の軍師殿に案内して頂いた福岡県行橋市の守田蓑洲旧居より見学に向かいました。旧居内にあった沓尾の石丁場のパネル(写真①)を載せておきます。※パネルの説明板の文字、小さくて見えづらいかも知れないので頑張って書き起こしてみます✏️「元和元年(→615)の大坂夏の陣で傷んだ大坂城を再興するために徳川幕府は元和六年(1620)に西日本の六十四家の大名に石垣の修築を命じた。これを天下普請という。沓尾石切丁場は、この天下普請に志願した豊前小倉藩主細川忠興が採石を行った場所である。国立国会図書館所蔵の「大坂城普請丁場割之図」の絵図と細川家の重臣であった松井家の文書の二つの資料から、細川忠興は乾櫓が残る西の丸北西西隅の普請を担当していたこと、沓尾から大坂城まで石を運んだことが分かった。下記の「松井家文書」に「大角五つ」とあるように、乾櫓の下の石垣から角部に使われた沓尾産の巨石が見つかっている。細川忠興が石切丁場に沓尾を選んだ理由は、沓尾が海に面していて石を運び出すのに最適だったこと、沓尾山から良質の花崗岩が採れたことだった。沓尾山の麓にある松山神社や龍日売(たつひめ)神社の周辺には、上辺や側面に矢穴と呼ぶ楔を打った跡の残る石が多く見られる。この石が石を切り(割り)出した跡に残った残石である。沓尾の石切丁場には、沓尾の港を開拓せよという細川忠興の命により、今井から沓尾に移り住んだ守田家が関わった可能性が考えられる。〜」
パネルの左側に大坂城の乾櫓の石垣に沓尾産の石が見つかったとあり、大阪城のガイドさんに大坂城の乾櫓の写真(写真②③)を送ってもらいました🙇🏻‍♂️石垣の角石の上から4、5、7、8、9番目の5個の石が沓尾産とのこと。パネルの写真だと見えずらいかも知れないので角部の石垣を上から数えて沓尾産の石を探してみて下さい🔍ガイドさんから細川家の刻印についても<九曜紋>だったり、漢字の<九>が刻まれていることなど教授頂きました🪨
石切丁場見学で、まず守田家旧居前にあった大坂城に運ばれた石材の残石(写真④⑤⑥)を見学。旧居跡でもらった案内図(後編の写真③と同じもの)に沿って松山神社の鳥居(写真⑦)から進みました。参考までに写真⑦の鳥居奥に見えている説明板の案内図(写真⑧)も載せておきます。

2025年08月01日 尼崎城信濃守一口城主


[沓尾の石切丁場後編]
松山神社麓の鳥居から登っていくとふしぎな大石(霊石:写真①②)があり、さらに霊石から階段を上がっていくと案内図(写真③)がありました🪧ショートコースとロングコースの岐路に立ち、当日の山城巡りでの消耗度からショートコースを選択😅ショートコースを進むと蓑洲守田翁祝壽碑の立派な石🪨(写真④⑤)がありました。さらに進むと神勅碑(写真⑥・正面から、写真⑦・背面から)の巨石がありました。
散策中、矢穴のある残石(写真⑧)を見つけ、相方は大坂城へ行ったのか、もしかしたら次の普請に備えていたものなのだろうか❓空想しながら眺めていました。
大坂城のガイドの姉さんに沓尾の石切丁場を解説してもらうと現在の調査で分かっている大坂城の石垣に使われた石の採石場で最も遠い所とのことでした。
大坂の陣で奮戦した後藤又兵衛ゆかりの地と大坂城を支える石の採石場となった地が福岡県行橋市のほぼ同じ場所にあったんだなと口コミを書きながら感傷に浸ってきました🤔

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