城井谷城(きいだにじょう)
城井谷城の基本情報
通称・別名
- 萱切城、城井郷城、城井の郷城、城井ノ上(きいのこ)城
所在地
- 福岡県築上郡築上町寒田
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宇都宮信房
築城年
- 建久6年(1195)
主な改修者
- 宇都宮氏
主な城主
- 城井(宇都宮)氏
廃城年
- 天正16年(1588)
遺構
- 曲輪、石垣、米倉跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
長岩城(大分県中津市)[7.4km]
岩石城(福岡県田川郡)[11.2km]
一ツ戸城(大分県中津市)[14.5km]
松尾城(福岡県朝倉郡)[15.5km]
旭城(福岡県豊前市)[16.0km]
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)[16.8km]
白米城(大分県中津市)[16.8km]
馬ヶ岳城(福岡県行橋市)[16.9km]
唐原山城(福岡県築上郡)[17.5km]
宇留津城(福岡県築上郡)[17.7km]
城井谷城の解説文
[引用元:Wikipedia「城井谷城」の項目]
城井谷城(きいだにじょう)は、福岡県築上郡築上町寒田にあった日本の城。萱切城などの別名がある。
歴史
1195年(建久6年)、源頼朝によって豊前守護職に任ぜられた宇都宮信房が築城し、豊前宇都宮氏の居城となった。後に宇都宮氏は城井氏と改名するが、この城の重要性は変わることなく、城井谷城を中心に城井氏は豊前の勢力を保った。
時代は流れ、戦国時代になっても、周囲の勢力の変遷(大内氏→大友氏→島津氏)に翻弄されながらも、城は一度として侵されることなく存続した。しかし、1586年(天正14年)より始まる豊臣秀吉の九州征伐によって、城井氏当主・城井鎮房も秀吉に従うこととなった。1587年(天正15年)、秀吉は鎮房に伊予国への移封を命じたが、父祖伝来の地を守りたい一心の城井鎮房はそれに反発。秀吉によって豊前6郡の領主となった黒田孝高と不穏な空気が流れることとなった。鎮房の心情を良く知る毛利勝信は、鎮房に一度城井谷城を出て、その後に秀吉への嘆願を行うことを提案し、鎮房は城井谷城を明け渡した。勝信は秀吉へ城井氏移封を中止するように訴えたが、秀吉は頑としてこれを拒否。鎮房はついに決断し、同年10月、城井谷城を急襲し、奪回。籠城して豊臣軍を迎え撃つこととなった。また、豊前最大の国人領主である城井氏の蜂起に呼応する形で豊前国人一揆が発生することになった。
地の利のある鎮房はゲリラ作戦により、攻撃してきた黒田長政が率いる豊臣軍を撃退。鎮房は本領安堵と鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件に、和議を受け入れた。1588年(天正16年)、鎮房は長政の招きにより中津城へ向かったが、孝高が長政に授けた謀略により、鎮房は城内にて酒宴の席で謀殺された。城下の合元寺に留め置かれた部下および城井谷城の留守を守っていた鎮房の父・長房や家臣団も掃討された。さらに肥後国人一揆鎮圧のため黒田孝高に同行して肥後にいた嫡男・朝房も孝高に暗殺された。鶴姫は、山国川の千本松河原で磔の刑をうけ惨殺された。こうして大名としての城井氏は滅亡した。
参照文献
- 吉永正春『戦国九州の女たち』西日本新聞社、1997年、ISBN 9784816704321
- 吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社、2000年、ISBN 9784874153215
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城井谷城の口コミ情報
2024年05月22日 つか征夷大将軍ぽ
裏門[城井谷城 遺構・復元物]
1番の見どころですが自分は看板を見逃してかなり時間をロスしました。城跡を上って行く途中に炭焼き窯跡(城跡遺構ではない)があるのでそこを超えたら沢の右側を基本的に歩くと良いかと思います。また、裏門に行くにはチェーンを掴みながら上がるところがあるのである程度の装備と天候は気をつけましょう。裏門上も歩けます。
2024年02月29日 星穏
天徳寺[城井谷城 寺社・史跡]
築上町にある月光山天徳寺は、豊前宇都宮氏の菩提寺です。関東から下向した信房から数えて5代目の頼房によって創建されました。
寺宝の「三足蟇の香炉」は、宇都宮氏の祖である宗円が後冷泉天皇から賜ったものといわれています。また、開山当時の御本尊と思われる釈迦如来像(南北朝時代)や鎮房が寺に奉納したといわれる仏画「十六羅漢図」の掛軸もあり、これらは毎年三月に一般公開されています。
本堂の裏山には、宇都宮氏累代のお墓が静かに佇んでいます。この中には、豊臣秀吉の九州征伐の際に非業の死を遂げた17代長房、18代鎮房、19代朝房のお墓があります。三代並んでいるのですが、三基とも上部に亀裂(自然に出来たもの)が横に走り、「刀傷」と呼ばれているようです。
寺の背後は本庄城という山城となっています。山頂には馬蹄形の帯郭や堀切、虎口、寺の裏手にも土塁と堀切が残っており、天徳寺境内も城跡だった可能性があるようです。(写真は天徳寺の裏手にある土塁と堀切)
2022年03月27日 眞田左衛門佐十兵衛
三丁弓の岩[城井谷城 遺構・復元物]
ここの攻め手を防ぐのに三丁の弓で足りた事に由来する
2021年11月27日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
城井谷城
城井谷城を目指す方へ、注意!
496号線から32号線を経由(北進ルート)して駐車場のある牧の原キャンプ場を目指す皆様。写真の通り、1月20日まで通行止めです。予想もしてなかったんで私は車中で泣きました。
豊前市から南進する237号線を経由して行くのなら行けるかもしれませんが調べていません。お近くの方。追記願います。
2021年06月05日 RED副将軍
大平城[城井谷城 周辺城郭]
秀吉の九州平定後、豊前国には黒田孝高が入封。城井宇都宮氏は伊予国に移封となるが反発。反発に際して奪還し、最初の拠点とした城郭。
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
急斜度の登城路を進めば突如広い削平地が現れます。
急斜面ですが虎ロープがあり、整備も行き届き登りやすいです。城井谷城へ訪城の際はこちらもオススメします。
2021年05月05日 RED副将軍
城井谷城
城井谷渓谷の奥にある天然の要害です。
オススメ度 ★★★★★
城主の城井鎮房は結局、謀殺されてしまいますが、攻め寄せる豊臣軍の黒田長政を相手に最後まで抵抗し撃退したのは納得の要害です。「king of 詰め城」を勝手に認定しちゃいます。
見所は、三丁弓の岩、表門、中門、裏門と沢山ありますが、共通するのは天然の奇岩、巨岩を利用しているということ。物凄い地形です。
それだけの要害だけに現代でも裏門まで行くにはそれなりの装備と覚悟が必要です。
裏門の直前には傾斜70度の岩盤を登る必要があります。登りきれば、裏門の天然の岩のアーチは城好きで無くとも魅了されます。
更にアーチを抜けて右に進むとアーチを登り、渡って頂上まで行くことが出来ます。実はここからが本番です。両サイド断崖絶壁の細尾根を登るのですが、鎖があるので一定の経験があれば心配はありません。一部に鎖、ロープが無く岩を掴んで登る箇所があり、それなりの高所なのでご注意下さい。山頂の眺望は360度パノラマの絶景です。
山頂まで行ければ長岩城の弓形砲座(専用ルート)の細尾根も登る事ができると思います。
荒天時は行くべき様な所ではありません。
あと最大の注意すべきことは携帯の電波が入らず、山頂で僅かに入る程度ということです。ルートから外れ迷うと大変なことになるのでご注意下さい。
写真
1.表門
2.中門
3.炭焼窯
4.番人の穴
5.裏門の内部より
6.裏門のアーチを登る
7.山頂までの細尾根(両サイド断崖絶壁)
8.山頂からの眺望
2021年04月29日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
城井谷城
何度も討ち取られました(^^;
前日に大雨が降り、しかし午後からは晴れて来たので次回のリア攻めのために道順を覚えようと城前まで来たら、ウズウズして行けるとこまで少し登城してみたのですが、何度も討ち取られたかのように本丸まで行くのは(本日は)断念しました(笑)
表門の辺りまで車で行けますが、小さいながらも落石があるので、手前の牧の原キャンプ場辺りから徒歩で行くと良いかもしれません。
また表門も勾配が急なので、雨の日やその翌日などはかなり滑り落ちそうです。(そのため安全第一で登城を断念しました。)
また携帯の電波もあまりないような場所のため1人での城攻めは安全のために辞めた方が良さそうです(^^;
ちなみに現地では「城井ノ上城(きいのこしょう)」として紹介して道標を建てています。
2021年04月28日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
小山田城[城井谷城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、この城は、大平城の防衛と連絡を目的として築かれた出城で、城井氏一族の小山田氏の居城だったようです。
天正15(1587)年、黒田長政の軍が城井谷を侵攻してきた時に、城井鎮房はこの小山田城に本陣を構えて、城井谷に黒田軍を誘って討ち破り敗走させたそうです。
2021年04月27日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
上伊良原城[城井谷城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、郭、堀が残っているそうです。
城山という山名以外に城に関する情報はないそうです。「福岡県の城郭」において上伊良原城として初めて報告されているようです。
2021年04月27日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
大平城[城井谷城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、別名を「城井城」として紹介しています。
この城は城井氏後期の本城として築城されたようです。
天正15(1587)年、九州を平定した豊臣秀吉から伊予(愛媛県)今治に国替えを命じられたがそれを不服とし、大村助右衛門から大平城を奪還し、城井の諸城を修築して黒田氏に対して一揆を起こしたようです。
同年12月、黒田官兵衛の12000の軍によって攻められ、味方はことごとく討ち取られ孤立無援の鎮房は官兵衛と和睦し鶴姫を黒田長政に嫁がせた。
しかし、中津城の酒宴の席で謀殺され、その後黒田軍に城井谷に攻め込まれ防戦したが敗れ大平城は落城したようです。
2021年04月27日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
本庄城[城井谷城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、「若山城」とも紹介されていました。
城井氏(宇都宮氏)の初期の本城と伝えられています。明応10(1501)年、大内氏と大友氏の戦いにおいて大友氏に降伏した城井直重は、大内氏が再度豊前に侵攻した時は、攻められ落城したとありました。
2021年04月27日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
茅城[城井谷城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、「茅切城」、漢字違いで「萱切城」と紹介されていました。
天正15(1587)年、黒田統治に反対して決起した一揆鎮圧のために黒田勢によって造られた小規模の城郭とありました。
2021年04月27日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
小川内城[城井谷城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には「神楽城」としても紹介されていました。周囲は切り立った断崖絶壁で、黒田氏が宇都宮氏を攻める時にここを修築して向城としたそうです。
「日本城郭大系」では古川美濃守が築城者となっていますが、「福岡県の城」では吉川広家となっているそうです。
2019年06月13日 じょーうん隠岐守
本庄城[城井谷城 周辺城郭]
城井谷城の支城であった本庄城。天徳寺の背後にあり、土塁と空堀が見ることがてきます。
2019年06月13日 じょーうん隠岐守
天徳寺[城井谷城 寺社・史跡]
城井宇都宮氏の菩提寺である天徳寺。城井一族の墓や城井氏に関する物などがあります。
2019年04月24日 じょーうん隠岐守
大平城[城井谷城 周辺城郭]
城井鎮房が豊前一揆の際に、黒田家から奪還し、拠点とした城です。曲輪や帯曲輪が良好に見れます。
2017年12月25日 笑門来猫
城井谷城
大河ドラマ黒田官兵衛や、戦国繚乱などで描かれている宇都宮鎮房の城ということで、楽しみに訪問。
「三丁弓の岩」「表門」を実際に目にすると、脳内の記憶と重なり、ホント興奮しますね。
中は「隠し里」というイメージを持っていたのですが、意外と平地は少なく渓流沿いを歩くイメージです。
そしてクライマックスが「裏門」。これを見上げた瞬間、無性に感動しますね~。大穴のところまでは鎖あり、足場も多数穿ってあるので、体力があれば問題ないと思います。
そして、大穴を抜けた後に右手に進むと、なんと「大穴の上の橋の部分」にも登れます。
ただ、谷底が無風でも、橋の上は強烈な風の通り道になっており、もちろん生きた心地のしない断崖絶壁ですので、自己責任&無理は禁物です。
2017年08月02日 カーネル
城井谷城
日豊線築城駅から太陽交通の寒田線バス(といってもワンボックスカー)で終点の上寒田で下車
そのまま進行方向の南に歩きます
ずーっと緩やかに登りで5分ほど歩くと、小さい標識に[城・牧之原キャンプ場まで3km]とあるので、まずは牧之原キャンプ場を目指す
キャンプ場のところに宇都宮氏一族と城井ノ上城の説明板があり、三丁弓の岩やミニチュア天守を超えると登山口で、ここまでバス停から35分
沢に沿って登ると、天然の岩が門の役目を果たしてます
本丸を超えて、緩く登り続けると10分ちょいで裏門に着きます
見上げる場所の岩に、大穴があり圧倒されます
その裏門へは体感で、垂直の岩(足場狭し)を登る必要があり、特に下りが怖い
バス停に戻って2時間半でした。バス停は知らないとゴミ捨て場に見えます
帰りのバスは地元の人でいっぱいでした。記憶に残るいいお城でした
2016年08月17日 弾正星左京大夫りき
城井谷城
今回は、築城駅から地元のタクシー(太陽交通)を利用しました。タクシーは貸し切りにした方が安く済みます。1時間4千~で、最短時間3時間から貸し切る事が出来ました(3時間1万2千円)
近い築城駅からでも約20~30分程かかります。3丁弓の岩の少し先に登り口があります。そこから登って行くのですが、
岩が剥き出しの山道で、登りにくく、滑りやすい道のりでした。靴は登山用の靴をオススメします。道は分かりにくいですが、
途中途中に赤い目印が木に貼り付けてあるので、それを目印にして行くと良いと思います。表門の岩穴を抜け、更に進むと途中に鎖を伝って岩場を登る場所があります。
結構な急斜面の岩場で、鎖をしっかり掴む為や、枝や草があるので軍手があると、
とても便利でした。
道と言える様な感じでは無いので、悪天候や積雪等がある場合は、やめた方が良いと思います。今回は3時間のタクシー貸し切りで時間内に間に合いました。
2013年12月23日 芦屋能登守虎吉
城井谷城
牧の原キャンプ場から数分車で行った城井霊園前に登山口と無料駐車場があります。
そこから表門まではすぐ、本丸までも15分程度です。
しかし、その上の裏門までの道のりで積雪があり、登城を断念しました…
登山口から2時間程度で裏門を抜けて別の道から牧の原キャンプ場に戻る周遊コースがあるとか。
軍手や靴など、装備は万全に。割とキケンです。