玖珠城(くすじょう)

玖珠城の基本情報

通称・別名

高勝寺城、伐株山城、切株山城、切株城

所在地

大分県玖珠郡玖珠町大字山田字万年山

旧国名

豊後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

南北朝時代

主な改修者

主な城主

小田氏、魚返氏、中嶋氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、畝状竪堀群、堀切

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

角牟礼城(大分県玖珠郡)[5.1km]
日出生城(大分県玖珠郡)[13.1km]
鳶ノ尾城(熊本県阿蘇郡)[15.6km]
一ツ戸城(大分県中津市)[18.8km]
永山城(大分県日田市)[20.2km]
日隈城(大分県日田市)[20.3km]
白米城(大分県中津市)[23.1km]
山野城(大分県竹田市)[25.9km]
龍王城(大分県宇佐市)[26.3km]
長岩城(大分県中津市)[26.9km]

玖珠城の解説文

伝承
玖珠町のシンボル伐株山はその山容から、大きなクスノキが倒れたあとの切株が山となったという伝説がある。山頂にはもともと「こうしょうじ(高勝寺か)」という山岳寺院があったといわれ、現在「テラドコロ」と呼ばれる付近に寺が展開されていたと考えられている。

歴史
伐株山は南北朝期に南朝方の九州最大の拠点「高勝寺之城」となった。籠城者の中に高勝寺僧団の名があり、その後の史料にも高勝寺の名が確認されることから、城と寺の共存時期があったと考えられ、城は寺側の規制を受けない南の細尾根を中心に展開されていたと推測している。その後武士の支配が寺側にも及び戦国期には山頂全体が武士勢力による城郭として機能するようになったと考えられている。

玖珠郡は、豊前・筑前・筑後・肥後へ通じる要衝地であるため、大友支配下にあった戦国期(大内氏や島津氏等の周辺大名と抗争が激化した天文~天正年間のころ)に、周辺大名の豊後侵攻を防ぐため、玖珠を通過する街道の盆地出入口などにある城を改修強化した。伐株山城はそのうちの一つで、その立地から街道の出入口を守るというよりは、玖珠盆地全体に睨みを利かせるという役割があったと考えられる。

天正14年の島津氏の豊後侵攻では、久住方面から侵攻してきた島津軍の勢いを止められず、玖珠郡衆が立て籠もっていた伐株山城は落城したため、玖珠郡衆の残党は角牟礼城に移った。この戦以後、伐株山城は城として使われることはなかった。

遺構
伐株山城跡は、伐株山(標高684m)の山頂にあった城で、玖珠盆地の中央南側に位置しているため、盆地全体を見渡すことができる。

戦国期後半に成立した伐株山城の縄張は、玖珠郡最大規模で曲輪数も多い城郭である。北側の細尾根の頂上部南側を堀切で区切り、北に向かって連続する曲輪と切岸を配置している。山頂北半分は、メサという平らな地形に方形居館のような土塁に囲まれた曲輪を見晴らしの良い縁辺部に複数配置している。また、山頂北縁辺部には「馬飛ばせ」と呼ばれる帯状の曲輪がまわり、北西側の斜面には畝状竪堀群がつくられている。東側に「テラドコロ」と呼ばれる一段低い平場は東側への眺望がきくことから、ここも曲輪のひとつと考えられる。

伐株山城の曲輪群の配置を見ると、連郭状をなす南側の細尾根部を除くと分散的で、曲輪群の階層差があまり見られない。このことから一つの強大な権力によって築城されたのではなく、同等規模の氏族の連合(玖珠郡衆)による臨時性の強い陣城と考えられている。

交通
JR九州久大線豊後森駅から車で約20分。

提供:玖珠町教育委員会

玖珠城の口コミ情報

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