日出生城(ひじゅうじょう)
日出生城の基本情報
通称・別名
- 山の城
所在地
- 大分県玖珠郡玖珠町日出生
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 帆足氏
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 帆足氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
角牟礼城(大分県玖珠郡)[9.2km]
玖珠城(大分県玖珠郡)[13.2km]
白米城(大分県中津市)[17.4km]
一ツ戸城(大分県中津市)[18.9km]
佐田城(大分県宇佐市)[19.0km]
光岡城(大分県宇佐市)[20.3km]
立石城(大分県別府市)[21.4km]
大畑城(大分県中津市)[23.9km]
時枝城(大分県宇佐市)[24.4km]
長岩城(大分県中津市)[25.2km]
日出生城の解説文
日出生城の口コミ情報
2022年03月06日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
月俣城[日出生城 周辺城郭]
「日本城郭大系」では、河野氏が月俣村に入り月俣氏と称し、天文年間に普請したとありました。
兵衛入道正覚は長岩城主野仲重兼に属したようです。
天正7年、長岩城は落城し、その子太郎員貞は逃れ、田北紹鉄に哀訴し、月俣に帰陣したとありました。
2022年03月06日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
温見谷城[日出生城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、岩男権太左衛門尉重益が大永元年に大内氏に仕え弟源太兵衛尉繁殊は大友氏に属し、深見郷に三十町を賜わり、龍王城衆に加わるとありました。
天正17年、黒田官兵衛に城地を没収され、慶長5年には石垣原の戦いに大友義統に従って戦ったが敗れたと記載されていました。
2022年03月06日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
萩迫城[日出生城 周辺城郭]
「日本城郭大系」では、大永-天文の間、恵良若狭守頼盛が大内氏に属し萩迫に築き、のちに西恵良に移るとありました。
2022年03月06日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
西恵良城[日出生城 周辺城郭]
「日本城郭大系」では、萩迫城から移った恵良鎮実の居城で、天文12年、恵良盛綱は大内義隆の尼子攻めに従軍したとありました。
同年、盛綱はその所領を子の信勝に譲っているようです。
現在は田圃や畑地となっています。
2022年03月06日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
畳石城[日出生城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、清原正高の後裔という松木氏の居城として紹介しています。
天文元年、大友義鑑の命を受けて大内氏の家臣糸長隼人を襲ってその居城を抜き、ここに本拠を構え、このときに大友氏に畳石四十町を宛行われたとあります。
松木和泉守正直は森村の香浄寺伊賀守を攻め滅ぼし、正直の弟主水は日向耳川の合戦に出陣して戦死したようです。
正直の子正春は天正15(1587)年、豊臣秀吉の島津討伐の軍に参加し、後に中津城に入った黒田如水に降ったそうですが、細川氏が中津城に入ってから、後孫は大庄屋となって当地に続いたとありました。
2021年10月22日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
下恵良城[日出生城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には寺地までが城跡と記載されていていたように城域は広いです。
その近くから登る階段も整備されていて現在は神社となっています。その階段は急傾斜なので、天然なのか切岸かは分かりませんが、守りやすかったと思われます。また近くを恵良川が流れているので天然の水堀としての機能を果たしていたと思いますし、玖珠方面に抜ける道があるなど交通の要衝地として城の選地としても納得です。
現在の神社があるところが主郭の可能性が高いと思いますが曲輪も広いです。
また立派な天守台のように見える石垣の上に神社があったのは興味深かったです。ただこの石垣は残念ながら恵良城のものではないと思われます。
どちらにしてもここは詰城として用い、麓にある寺付近を居館として用いていたのではないかと感じました。
近くに公民館があるので車はそこに駐車出来ます。
2021年06月27日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
下恵良城[日出生城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、恵良若狭守頼盛が築城したとして紹介されていました。
2021年06月01日 INO【兒】左京大夫
日出生城
いくつか曲輪は確認できましたが、旧墓所のようです
歴史
日出生城が歴史に登場するのは、天正14年の島津氏の豊後侵攻である。この戦で本城(帆足城:現在の大分自動車道玖珠IC付近)を失った帆足氏(玖珠郡衆)が、同年12月帆足鑑直を大将に500人で立て籠もったといわれている。日出生城に島津軍が攻めると、帆足氏は籠城せずに兵を二手に分け島津本陣に切り込み撤退させる。この時留守の城を守っていたのが鑑直の妻である。鑑直の妻は古後氏(玖珠郡衆)の娘で性質貞直、姿色端麗であるとともに身の丈五尺八寸、武芸の達人で「帆足の鬼御前」と呼ばれていたという。帆足氏は島津氏の豊後撤退までこの城を守りきったという(山の城合戦記)。
豊後国志には「嶮堅なる要衝なり。(略)地、険しく攻むべからず。薩軍克たずして去る。」とある。
遺構
天保15年に日出生川底地区から描かれた日出生城があるが、豊後国志にあるように、急な崖に囲まれている様子がわかる。詳細な縄張は不明であるが、昭和37年の調査(自衛隊第3特科群本部)では、城の南東側に大手とあり、南側のピークに城山と書かれている。
交通
JR九州久大線豊後森駅から車で約20分。