時枝城(ときえだじょう)

時枝城の基本情報

通称・別名

所在地

大分県宇佐市大字下時枝

旧国名

豊前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

時枝惟光

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

時枝氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

光岡城(大分県宇佐市)[4.7km]
大畑城(大分県中津市)[8.8km]
高田城(大分県豊後高田市)[12.5km]
中津城(大分県中津市)[12.6km]
唐原山城(福岡県築上郡)[13.6km]
佐田城(大分県宇佐市)[14.8km]
佐野鞍懸城(大分県豊後高田市)[15.5km]
真玉城(大分県豊後高田市)[16.4km]
旭城(福岡県豊前市)[17.3km]
白米城(大分県中津市)[17.5km]

時枝城の解説文



時枝城(ときえだじょう)は、大分県宇佐市下時枝にあった日本の城。宇佐神宮弥勒寺の寺務方であった時枝氏の居城。

概要 

戦国時代には時枝平太夫が城主となっていた。平太夫は反大友氏の急先鋒で、毛利氏や秋月氏らと呼応してたびたび反乱を起こしている。豊臣秀吉による九州平定の際には真っ先に豊臣氏に降伏し、その案内役を務めるとともに、時枝城を黒田孝高に提供した。時枝氏が黒田氏の家臣となって筑前国に移ってからは廃城となり、のちに時枝陣屋がおかれた。

時枝城の口コミ情報

2022年07月13日 【永】源九郎豊前守牛若丸
藤田遺跡[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、発掘調査により、12~14世紀の宇佐宮関係の館跡が検出されているようです。
そしてこの遺跡は「社務宿館」考えられているようです。「社務」とは宇佐宮大宮司のことで、「社務宿館」は文字通り「大宮司の公邸」を指すとされるとありました。

現在は大半が水田になっており、幼稚園などの建物も建っているので遺構は地中に保存している感じでしょうか。
遺跡の南側を寄藻川が流れており宇佐神宮に続いているので、天然の堀として、また水路としても用いていたかもしれません。

2022年07月12日 【永】源九郎豊前守牛若丸
立山城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、文書上の名称は大楽寺ノ上ノ要害として記載されているようで、さらに宮成氏の切寄という別称もあるようです。別称から、宮成氏の居城または詰城だったと思われます。ちなみに「大分の中世城館」では立山城と菱形城を別個のものとして認識しているようです。


「日本城郭大系」では菱形城として紹介しています。
文治年間、宇佐大宮司公房が築き立山城と称したとあります。
応永年間、菱形刑部少輔宇佐長量の居城となって菱形城とも称すとありました。
長量の子を刑部左衛門尉諸方といい、その子太郎晴房は真ヶ江を領して真ヶ江氏し称し、その孫真加江六郎は大友義鎮の軍役に従ったそうです。

「豊前国戦国事典」では「日本城郭大系」の説明を支持した記述となっています。


現在は神社や病院とその駐車場、そして太陽光発電の敷地となっています。
立地からして平山城に近いかもしれません。

また立山城の南側の防備は比較的容易かと感じました。そちら側が高くなっているからです。
しかし、北側はそれほど高低差はないので攻めやすいかもしれません。但し現在は水田が広がっており、築城当時も同じような環境であれば湿地帯なので攻城は難しかったやもしれません。

2022年07月12日 【永】源九郎豊前守牛若丸
狐坂城[時枝城  周辺城郭]



「豊前国戦国事典」によると、源平争乱の時代、元暦元(1184)年7月宇佐大宮司公房が築城し、源氏方の緒方惟栄の軍を防いだ城だそうです。
天文の頃(1532-55)には宇佐氏一族の御幡式部丞の居城となったとありました。

現在は宅地や畑地となっています。畑地の一部は曲輪を利用したものもあるかと思われます。
土塁も一部残っているようにも見えます。

城跡の立地を考えると、寄藻川を利用した宇佐神宮を守るための支城の1つように感じました。
立山城が詰城だとするとこちらは出城の役目も担っていたかもしれません。

2022年07月12日 【永】源九郎豊前守牛若丸
辛島城[時枝城  周辺城郭]



「日本城郭大系」には、宇佐宮司辛島並時の居城で、天正14年、大友義統の大軍の囲まれたので、戦わずして宇佐宮に逃亡したそうです。

城跡に辛島氏の先祖を祀る石祠があります。ひょっとしたらここが本丸だったかもしれません。
現在は宅地、畑地となっています。
その周囲には堀の名残とも思える区画分を見ることが出来ます。
平城であり、籠城には向かない立地となっています。

2022年07月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
畑田城[時枝城  周辺城郭]



「日本城郭大系」や「豊前国戦国事典」によると、畑田村城という名称で呼ばれており、天文年間(1532-55)、是恒備前守国賀の城で、日向耳川の合戦に出陣して戦死したそうです。
その子外記義道は八歳で家督を継いだが、天正17(1589)年、黒田氏に領地を没収されたとありました。

現在はほとんどが宅地となっています。城跡内の道やそれを囲む水路は少し入り組んだ形状になっているので堀を利用したものかもしれません。
また所在地には屋敷の名がついたものが多くあるので、屋敷群を囲むように堀を廻らせた平城だった可能性があります。

2022年07月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
西原遺跡[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、まったく伝承が無く、城郭とは断定できないが、連続する区画の内、南東角部を「ヤグラ」と呼ぶなど何らかの防衛的な施設を伴った集落であったと考えられるとありました。
明治21年の旧字図で確認できる堀、または土塁の可能性のある地筆の内、現在確認できるのは一部のみであると記載されてました。

現在は寺地、宅地、畑地となっています。遺構については分かりませんでした。

ちなみに伝承が全くないので詳細が分からないとの事ですが、時枝城との位置関係を考えるとひょっとしたらここも時枝城の一部だったのではないでしょうか。時枝城だからこそ別個のものとしての伝承がなかったのではないかと思いました。

2022年07月03日 【永】源九郎豊前守牛若丸
安福寺切寄[時枝城  周辺城郭]



現在は寺地や墓地になっています。堀や土塁が分かりやすく残っています。

「大分の中世城館」では城跡に関する説明はなく、地図上に位置表示があるのみでした。しかしながら遺構の状況の項目には現状では遺構は確認出来ないとありますので、私が遺構だと感じて観てカメラでupしたものは違うのかもしれません…

どちらにしてもこの城跡は名称からして、大友氏が豊前を支配するようになってから築城されたものと思われます。
豊前は大友氏が支配する前は大内氏の領国であり、度々大友氏の豊後にまで侵攻してきた歴史があります。その最たるものが勢場ヶ原の戦いです。
その後大内氏の没落によって豊前が大友氏の領国に加えられると、毛利氏が台頭してきます。

この安福寺切寄が立地的に周防灘にも接していることも考えると、対毛利の最前線の城郭の1つとして築城されたのではないかと考えています。

2022年07月02日 【永】源九郎豊前守牛若丸
芦刈城[時枝城  周辺城郭]



隣接する中洲城跡に赴いた時に偶然見つけた城跡です。

現在は芦刈家の墓地となっているようです。

芦刈城としては「大分の中世城館」や「日本城郭大系」、また「豊前国戦国事典」には記載されていません。しかし、「大分の中世城館」ではこの場所ではないですが特定出来ない城として推定地が大まかに載っていること(しかしこれについては他の城跡でもちょくちょくありますがミスプリントの可能性が高いです。地図上の所在地と所在地の住所が一致しないからです。)、また「豊前国戦国事典」の説明文や「日本城郭大系」の大まかな地図と説明文がこの芦刈城の位置関係と大体一致することから、ここは沖洲城(奥洲城)ではないかと思います。
それで以下に沖洲城に関する説明を記載します。

「大分の中世城館」には現状は宅地となっており、以前は土塁と堀があったこと、またここが「上の土居」と呼ばれていたようです。

「日本城郭大系」によると、貞応元年、芦刈実重が豊後に下り、下毛郡の地百五貫を賜り大友氏に属したようです。永禄9年、高尾城攻めに参加した芦刈実蕃は麻生摂津守の首を討ち取り、大友義鎮に献じ、恩賞に預かったとありました。
城跡は日豊線柳ヶ浦駅のすぐ北方の高台にあったようですが、今は水田となっていると記載されており、「日本城郭大系」が発行された当時は水田だったみたいです。同じような記述は「豊前国戦国事典」にもありました。

2022年07月02日 【永】源九郎豊前守牛若丸
中洲城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館2003」では存在は知られていたものの場所は不明とありますが、推定地としてここと隣接する芦刈城を含めて城域として示していました。そして、「大分県遺跡地図2018」では所在地がしっかりとここに定められていました。但し、この城に関する資料等は見つけることは出来ませんでした。

現在は住宅となっており面影はありません。ひょっとしたら住宅の周囲の道路や溝が堀などを利用して作られたものかもしれません。

ここからは個人的な推察ですが、隣接する芦刈城がほぼ沖洲城(奥洲城)で間違いないと思えること、またこの中洲城の名前も似ていることから、沖洲城と同じ城で、それぞれが山城でいう堀切で区切られた曲輪のようなものであり、かつここが沖洲城の本丸→中丸→中洲城となったのではないかと勝手に考えてます。

2022年06月27日 【永】源九郎豊前守牛若丸
時枝城



この地が時枝城跡だということを示す石碑があり、城域には現在めずらこども園が建っています。
それで基本的に遺構は消滅していますが、めずらこども園の周囲をぐるりと廻ると土塁や堀の名残のようなものが残っているように感じます。

2022年05月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
広崎氏切寄[時枝城  周辺城郭]



「豊前国戦国事典」には、広崎城という名称で紹介していて、在地勢力が築いた城館だそうです。
長方形区画の三方を土塁と堀で防備されていたそうです。
「大分の中世城館」では同時代の文書、記録には記載がないが、広崎氏の切寄といわれるとありました。


城址の近くを通る国道387号線と比べると少し高台にありますが平城になります。
2018年版の大分県の史跡を記した地図によると城域はそこそこ広く、その中心部には公民館と寺が建っています。その主郭と思わしき所をよく観察すると畑の畝にも似た土塁や堀が微かに残存しているように見えました。また中心付近を散策すると土塁の名残も残っているように感じました。そしてこの城跡のほとんどが宅地、畑地となっています。

城跡の名称にあるようにここは広崎氏の切寄(城館)だと思いますが、この城址に接する所に神社があり、そこに漢字違いの廣崎さんの名前が奉納者として記載してあったので子孫の方が代々近くに住んでおられるのではないかと感じました。

ちなみに大友氏の独特の呼称である切寄ですが、私が読んだ大友氏の城郭に関する本等には、一般的に知られている城と単純に断定するのが難しいらしく、城というよりも館であったり砦として認識できるものがあるようです。しかも極めつけは切寄と周辺にいる土豪との関係です。

多くの場合城はそこを拠点としている氏族が有していると思うのですが、切寄は有事の際に特定の氏族が籠もるというよりも、周辺の土豪が一緒に用いたり、戦事に別々の土豪が用いている例もあったようなのでとても興味深い城郭となっています。

2022年05月03日 【永】源九郎豊前守牛若丸
宮熊城[時枝城  周辺城郭]



主郭と思われる曲輪は城八幡宮という神社になっています。当時はそれなりに広い城域だったらしく、航空写真の地図を見てもそれを偲ばせてくれるように、土塁の名残とも思えるものが複数箇所に残っていました。

そしてあくまで現在残っている遺構に基づく私見になりますが、東側には水堀と傾斜がきつい切岸を備えていること、北側は(写真では表現出来ませんでしたが)大きめの堀切で防御を高めていました。西側は宅地となっているため判然としませんが、恐らく所々に残念している土塁の名残からも、こちら側も防衛を意識した造りになっていたのではないかと思います。

そう感じた根拠に近いものとして、上記の三方向の反面南側は防御が比較的軽く感じました。というのは、城跡は他と比べて少し高い台地上にあるのですが、南側が他の三方向に比べて比高差が無いように感じたので、そこまで高く土塁等も築いてなかったのではないかと思いました。

城跡の立地として直ぐ北側が周防灘になっていること、そして東側に進めば豊後との境となるため、特にその二方面からの攻撃を意識した縄張りの平城のように感じました。

ただもしこの仮説が正しければ、現在神社となっている辺りは主郭ではなく、もっと南西よりに設けると思うので、そうであれば宅地化や畑地にする過程で失われている可能性があります。

駐車場はありませんが、交通量はほとんどない感じでしたので短く路駐して見学出来ると思います。

2022年04月26日 【永】源九郎豊前守牛若丸
平田城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、堀と土塁で囲まれた40m四方の屋敷区画があるとありました。
「豊前国戦国事典」では、森山安芸守が宇佐大宮司公通を欽慕し、この地に城をかまえて居城したそうです。

現在は宅地となっていますが、一部土塁や堀の跡が残っています。

2022年04月19日 【永】源九郎豊前守牛若丸
永福寺城[時枝城  周辺城郭]



城跡は現在お寺となっています。境内が主郭でしょうか。入口の立札には「城山」という記載もあり、ここが城跡であったことが分かります。高台にあり、切岸や土塁の名残と思われるものがありました。境内前にスペースがありましたが、駐車可能かは定かではありません。

2022年03月22日 【永】源九郎豊前守牛若丸
狐塚城[時枝城  周辺城郭]



「日本城郭大系」によると、住江氏代々の居城で、明徳の頃、住江大蔵丞、弘治年間には住江時允、天正年間には住江左馬頭がいたそうです。

城跡は住吉神社のあたりとありました。遺構は見当たりませんでしたが、近くを水路が巡る場所があるので、堀の名残かもしれません。

2022年03月03日 【永】源九郎豊前守牛若丸
葛原城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、天文の頃に葛原兵庫助則祐の居城だったようです。

現在は神社や寺が建っていて遺構は確認出来ませんでした。

2022年03月02日 【永】源九郎豊前守牛若丸
西光寺城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると赤尾氏の家臣、田城内膳の居城とありました。
ちなみにこの直ぐ近くには正覚寺というお寺がありますが、以前は西光寺と呼ばれていたのでしょうか。

「日本城郭大系」には、赤尾氏の法要を営むために集合したところを佐野親重の軍に攻められ、光岡城は落城したそうです。
その後、弘治の頃に田城内記の名があるとありました。

2022年03月02日 【永】源九郎豊前守牛若丸
吉久遺跡[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、天正14年の「阿曽沼元秀感状」にある「天津城」が吉久遺跡のことを指す可能性があるようですが確証はないとのことです。

この吉久遺跡は、鎌倉時代に宇佐平野に点在したムラが、南北朝期になって集村化した結果出現した「集落」の上に、戦国期末の防御的集落が重なっていると考えられているようです。その防御的集落の中核部分が「天津城」と呼ばれた可能性もあるとありました。

ちなみにここは発掘調査が行われており、その際に堀が確認されていることと、現状でも一部堀があるそうですので天津城の可能性が高いと思います。

現在は宅地や天津小学校が建っています。

2021年10月26日 【永】源九郎豊前守牛若丸
四日市城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、渡邉氏の切寄で、文書上の名称は四日市切寄で、小倉城という別称もあるようです。直ぐ側に小倉の池というのもあるので納得です。

「日本城郭大系」には、肥前の鬼子岳城主であった渡辺光守が流浪して四日市に居住し、その子和泉守光政が大友氏に降り統政は許されたようです。
一族が多く、これを四日市切寄衆とか渡辺寄合衆と呼んだそうです。天正15(1587)年、渡辺統忠は島津征伐の三好秀次の軍に従って薩摩に入ってます。
天正17年、黒田長政は中島氏の籠もる中島城(高家城)を攻略し、次に渡辺統政とその一族500人が立て籠もる四日市城に向かい、一隊は糸口山に、長政の本陣は城を眼下に見下ろすように専一山に布陣していたようです。
城主統政は統房・統貞ら80騎で長政の本陣へ突入したので長政は退却、しかし時の勢いとともに抗し難く和睦し、人質と誓紙を出して戦いは終わったとありました。

ちなみに、現在四日市陣屋を含む一帯が四日市城の城跡かもしれないとありましたが、その後この地に四日市城があったことが「大分の中世城館(2003)」で判明したようなので、時代と共に調査が進み理解が深まるのは良いと思いました。

現在城跡は高速道路の一部になっていたり、宅地や畑地となっています。

2021年07月30日 【永】源九郎豊前守牛若丸
宇佐大宮司館[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、中世以来の宇佐宮大宮司の居住地として紹介されていました。

城館の北側を流れる寄藻川を天然の水堀とし、さらに川から水をひいて水堀を構築していたり周囲には土塁も残っていました。
しかし、残念ながら写真にあるように現在は城館内を見学することは出来ないようです。

ちなみに宇佐神宮内かその周辺に菱形城という城があったようですが、私が調べた資料では場所が不明となっていました。
宇佐神宮の敷地内には菱形池があるのでその近くに菱形城を築き詰城としていたのかもしれません。

2021年07月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
永福寺城[時枝城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると文書上の呼称として
蔀端泉寺ノ上の要害 と呼ばれており、別称では大友氏独特の呼び方である 益永氏切寄 としても知られていたようで、益永氏の居城または詰城だったと思われます。

2021年07月09日 【永】源九郎豊前守牛若丸
大原城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」や「豊前国戦国事典」にもこの城についての情報は得られませんでした。

城址の周辺の地図を見ると、周囲を人工的と思えるような川が流れていますが、ひょっとするとこれはこの城の水濠跡か、その名残かもしれません。
立地的に平城と思われますが、仮にこれが水濠だったとすると、中々の大きさをもつ縄張りの城だったということになります。
ただし、立地的には籠城に向いているとは思えず、この地で政務を行うための居城(館)だったのではないかと勝手に考えてます。
また興味深いことに、この城の近くを豊前日向街道が通っていることから、この地に築城したのではないかと思われます。

2021年06月27日 【永】源九郎豊前守牛若丸
尾永井城[時枝城  周辺城郭]



「大分の中世城館」に平田立賀の居城として紹介され、堀と土塁があるようです。

城跡には小屋?家?のような廃墟となった建物がありましたが、その主郭らしき廻りを堀と土塁が巡っていました。

2021年06月27日 【永】源九郎豊前守牛若丸
矢部城[時枝城  周辺城郭]



地元では龍ヶ鼻城としても知られています。
「豊前国戦国事典」や「大分の中世城館」によると、応永年間(1394-1428)に矢部近江守高朝が築城したようです。 天正6(1578)年、耳川の合戦で矢部山城守は討死し、黒田氏が入部した時、矢部三郎は黒田氏に降ったとありました。

2021年05月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
松山城[時枝城  周辺城郭]



「日本城郭大系」には、城跡の中央付近に一族の位牌を安置した定林庵が建っているようです。
伊予から松山壱岐守が一族を引き連れて、堀や塁を構築して610年間この地に居住したとありました。
天正14(1586)年、城主松山義寛の時に大友義統の攻撃によって落城したそうです。

主郭と思える場所は現在竹藪になっていました。
その周囲には堀らしきものが巡っていました。
立地からして平城だと思います。周囲には田んぼがあるので、当時はひょっとしたら湿地としての防御機能があったかもしれません。

2021年05月07日 【永】源九郎豊前守牛若丸
時枝陣屋[時枝城  周辺城郭]



小笠原長宥が元禄12(1699)年に築城したようです。そして時枝領5000石を治めたとありました。
遺構として石垣と手水鉢が残るとありましたが、手水鉢が何処にあるかはよく分かりませんでした。
石垣の雰囲気が(個人的な感覚ですが)旭城に何となく似てるように感じました。
隣の時枝城には遺構がないですが、すぐ近くなので時枝城をリア攻めする際に立ち寄って見るのも良いかもしれません。

2021年04月25日 【永】源九郎豊前守牛若丸
上田城[時枝城  周辺城郭]

現在神社になっています。この城の縄張りに関する説明はありませんでしたが、仮に上田城の名残がかなり残っていたのなら、なかなか良い城ではないでしょうか。
空堀や土塁もかなり高く感じました。
本丸の位置はわかりませんでしたが、それらしき場所には祠がありましたし、それ以外にも曲輪?二ノ丸?らしき場所や虎口のように見えるものもあり、近くにある高森城や山本切寄、山本砦と同じように駅館川沿いは城や砦を築くのに良い地だったのかもしれません。

ちなみに写真は上田城の遺構であればそうかもしれないという感じで見て頂ければ幸いですm(_ _)m

2021年04月23日 【永】源九郎豊前守牛若丸
敷田城[時枝城  周辺城郭]



「豊前国戦国事典」には、宮熊城を居城としていた萩原山城守種親が天正(1573-1592)の頃に築城して居城としたそうです。
天正17年に黒田氏に反抗しましたが、後に使者を出して降伏したとありました。

主郭があったと思われる所は現在宅地となっていますが、その周囲に堀がはっきりと残っています。

2021年04月23日 【永】源九郎豊前守牛若丸
宮熊城[時枝城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」によると、応永(1394-1428)の頃、萩原土佐守房円が築城したそうです。
比高6~10mの台地先端部の、台地を切断するように掘られた掘と、裾を取り囲む水掘に特徴があるようです。

2021年04月23日 【永】源九郎豊前守牛若丸
中島城[時枝城  周辺城郭]



高家城としても知られています。
「豊前国戦国事典」によると、中島宣長が承久(1219-1222)の頃、または延応(1239-1240)の頃に築城したそうです。
黒田氏が豊前に入った頃に籠城して反抗したようですが、天正17(1589)年に敗れて城主中島統次は自害したとありました。

縄張りはそれなりに広くなっています。堀や土塁の跡が城域内の広範囲に残っている印象です。
主郭があったと思われる所の多くが畑地や竹林などになっていて、その周囲が宅地となっている感じです。

2021年04月23日 【永】源九郎豊前守牛若丸
上田城[時枝城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」には、明徳の頃(1390~1394)、上田左衛門道実が鷹居山に築城したとありました。

2021年04月23日 【永】源九郎豊前守牛若丸
荒木城[時枝城  周辺城郭]



「豊前国戦国事典」には、宇佐氏の分流の荒木三河守の居城とありました。
天正14年、大友義統の軍に攻められ焼き討ちにされたそうです。

城跡には寺が建っていて、その裏辺りには石垣が巡っているように見えました。また曲輪のようなものもありました。

2021年04月23日 【永】源九郎豊前守牛若丸
森山城[時枝城  周辺城郭]



「豊前国戦国事典」には、平家が安徳天皇を奉じて西下し、宇佐大宮司公通の館を行宮としたそうです。
公通が源氏に備えるために築城したとありました。

「大分の中世城館」では、宇佐公通館跡としてこの城跡を紹介しています。

現地に赴くと、「大分の中世城館」にあったように、土塁と堀で囲まれているのが分かりました。

2021年04月21日 【永】源九郎豊前守牛若丸
平清経の墓(入水地)[時枝城  碑・説明板]



直ぐ近くに交差点があり交通量もありますので見学の際には十分お気をつけください。また駐車場等はありません。

2021年04月08日 【永】源九郎豊前守牛若丸
四日市陣屋[時枝城  周辺城郭]



「日本城郭大系」によると、四日市は、中津藩の小笠原氏が支配していたようですが、元禄11年、八万石の領地を四万石に減じられて、残り四万石を公領として召し上げられたそうです。
四日市には岡田庄大夫が代官として任命され、翌12年、まず手代として葛生団右衛門ほか4名、元締役として竹中源治右衛門ほか1名が着任し、後で代官が入部したとありました。
同13年の6月から陣屋建築に着手し、10月に完成したようです。
正德3(1713)年、この地が天草代官の支配地になったため、四日市はその市庁になったそうです。
享保2(1717)年には豊前天領の一部(二万一千石)が中津奥平藩に組み込まれ、同5年には天草代官の支配地から日田代官領となったので、四日市陣屋には日田代官の下吏が詰めて執務したとありました。


現在はテニスコートとして利用されてます。

保存状態はあまり良いとは言えないと思います。

2021年04月07日 【永】源九郎豊前守牛若丸
高森城[時枝城  周辺城郭]



高森城は駅館川下流の標高約25mの台地上に立地しています。本丸等の中心部は、南北250mに及ぶ二重の壕と三列の土塁で区画されており、台地が川に張り出した要害の地に築かれています。

「日本城郭大系」によると、元暦元年、緒方三郎惟栄が源義経の命を受け、豊前制圧の拠点として築いたとありました。
そして緒方氏一族の加来小太郎綱平を置いていたようです。
天正17年、黒田氏に攻められ、城主加来彦次郎は切腹して落城し以来、黒田兵庫頭が城代となり、豊後への出兵の拠点となったとありました。

遺構は土塁や掘が一目で確認出来ます。発掘調査によって掘立柱建物が複数、また櫓跡が確認されているようです。全体的に見ると石垣は用いられず、門跡も明確でないなど、中津城に対して一ランク低い造りに徹しているそうです。

時枝城の周辺スポット情報

 平清経の墓(入水地)(碑・説明板)

 高森城(周辺城郭)

 四日市陣屋(周辺城郭)

 森山城(周辺城郭)

 荒木城(周辺城郭)

 上田城(周辺城郭)

 中島城(周辺城郭)

 宮熊城(周辺城郭)

 敷田城(周辺城郭)

 時枝陣屋(周辺城郭)

 松山城(周辺城郭)

 矢部城(周辺城郭)

 尾永井城(周辺城郭)

 永福寺城(周辺城郭)

 宇佐大宮司館(周辺城郭)

 大原城(周辺城郭)

 四日市城(周辺城郭)

 安福寺切寄(周辺城郭)

 葛原城(周辺城郭)

 西光寺城(周辺城郭)

 吉久遺跡(周辺城郭)

 狐塚城(周辺城郭)

 平田城(周辺城郭)

 中洲城(周辺城郭)

 広崎氏切寄(周辺城郭)

 芦刈城(周辺城郭)

 西原遺跡(周辺城郭)

 畑田城(周辺城郭)

 狐坂城(周辺城郭)

 辛島城(周辺城郭)

 藤田遺跡(周辺城郭)

 立山城(周辺城郭)

 宇佐風土記の丘 大分県立歴史博物館(関連施設)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore