光岡城(みつおかじょう)

光岡城の基本情報

通称・別名

赤尾城

所在地

大分県宇佐市大字赤尾字光岡

旧国名

豊前国

分類・構造

単郭式山城

天守構造

築城主

赤尾種綱

築城年

正平5年〔南朝〕/観応元年〔北朝〕(1350)

主な改修者

主な城主

赤尾氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、土橋、井戸跡、掘立柱建物跡、物見櫓跡、柱穴

指定文化財

県史跡(光岡城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

時枝城(大分県宇佐市)[4.7km]
大畑城(大分県中津市)[6.9km]
唐原山城(福岡県築上郡)[11.7km]
中津城(大分県中津市)[12.5km]
白米城(大分県中津市)[13.2km]
龍王城(大分県宇佐市)[13.5km]
高田城(大分県豊後高田市)[16.1km]
旭城(福岡県豊前市)[16.1km]
立石陣屋(大分県杵築市)[18.8km]
日出生城(大分県玖珠郡)[20.3km]

光岡城の解説文

立地
市内西部の上赤尾地区にある標高130mの丘陵上に構築された山城であり、集落との比高差は約80mを測る。平時は谷内にある館で生活し、非常時に立て籠もる詰城として使用されていたものである。館跡の堀・土塁の一部は近年まで現存していた。

城跡からは宇佐平野をはじめ西国東から東中津が、前面には豊前海が一望にできる。また、当時の主要な城である時枝城・高家城・高森城が、背後には妙見嶽城も望むことができる。さらに、晴天時には山口の宇部・小野田(旧周防国)も望むこができるという地理的にも重要な場所に立地している。

現状
昭和58年の調査時には、城跡内部の北側及び南側の土塁の一部が壊され、横堀を埋められた状態で確認された。平成23年度の発掘調査では多くの建物跡などが確認されるなど保存状態はかなり良好なものであるといえる。

城跡北側約250mの尾根の斜面には岩盤より染み出る水を溜める升形の掘込みが構築されており、地元民はこれが井戸跡であると伝えている。

現在城跡は、大分県指定史跡として建物等の遺構表示(床面復元1棟を含む)・説明板の設置などの史跡整備が実施されている。さらに、史跡周辺の整備もなされており、市内外から多くの観光客が訪れている。

構造
丘陵の尾根上に横堀を巡らした単郭式の山城であるが、内部の土塁の各コーナー部分に張出しが構築されていることや虎口部分の外側土塁に食違いを持たせていることなど当時としては斬新的な構造をしているのが特徴的である。

主郭は南北約140m、東西約80mの規模をもち、谷を見下ろす位置に土橋の虎口が構築されている。内側土橋の張出し部分のほか4ヵ所において櫓跡と想定される平場及び階段の痕跡が確認された。主郭内部は2段の曲輪で構成されている。

発掘調査で確認された4棟の大型掘立柱建物跡は郭北側の虎口前面に集中し、その内の1棟は検出状態より物見櫓跡と想定される。柵列の南側部分では岩盤をノミで穿って柱穴を掘っている。横堀は空堀であり、平成23年度の発掘調査により北側及び南側部分は破城時の内側土塁の土砂により2.7mほど埋められていたことが確認された。

復元される土塁との比高差は約10mを測る。北側の横堀では鈎の手状に屈曲していることが注目される。堀の掘削により生じた石を利用して外側土塁上に高さ1m程の石垣を構築し、その内側には幅1mほどの犬走りが巡っている。

歴史
『豊州城堡記』によると、「建武年中(1334~6)高武蔵守築之。貞和六(1350)年4月筑前原田之余流赤尾孫五郎種親か族赤尾次郎左衛門尉種綱尊氏将軍二属、吉田村之地頭職二被補任、嫡男兵庫介弘種・嫡孫修理亮国種か代大内家ニ従、兵威ヲ輝也、文明中(1469~87)寺庵建立吉田村ヲ赤尾ト改。」とある。

また、『今永家文書』(市内森山)の文安2(1445)年頃の記述には「赤尾城近村五ケ村云々」とあることなどから、赤尾氏が1350年以降からこの地の豪族として勢力を誇っていたことがわかる。しかしながら、『今永家文書』にあるの赤尾城が光岡城のことであるかは不明である。

これに対し「佐田文書」には、「天正8(1580)9月8日に、築上郡の城井氏や長野氏らが、赤尾三河入道(統秀)の宅所と切寄を攻撃し村中に放火した」ことが記載されており、すでに平時の館である宅所と詰城となる切寄(光岡城)とが存在していたことがわかる。

光岡城跡の主郭内部の発掘調査では遺物が一点も出土していないため城の存続時期などは不明である。しかしながら、堀・土塁の特徴的な構造などから、現存している遺構は天正15年以降のものである可能性も考えられるため、これから解明していかなければならない課題としてあげられる。

情報提供:宇佐市教育委員会

光岡城の口コミ情報

2021年09月09日 隠岐守たびたび
光岡城



城内には城主だった赤尾氏を祭った赤尾神社がある。赤尾氏は筑前の原田氏の一族で、足利尊氏から吉田村の地頭職に補任された人物。その後、戦国時代に大友氏が攻めいったとき、大友方、反大友方にわかれて壮絶な戦いが行われた。赤尾氏は大友方だったので、反大友方から攻められ、ここ光岡城にたてこもった。

横堀、土橋、西の堀にわずかに残る石垣。よく残っているので飽きないです。
東側の横堀と切岸は、圧巻です。(写真は圧巻の場所ではないので、すみません。)

2021年07月30日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
木部城[光岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、木部氏代々の居城として用いられたようです。この城は場所が特定出来ないものを含めて宇佐市(安心院、院内を除く)にある64城のうちの1つです。

2021年07月30日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
野依城[光岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、この城の名称は のよりじょう と読むそうで、野依弾正忠貞輔(忠手)が居城としていた城のようです。

2021年07月30日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
植野城[光岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、この城は天正年間に上野新左衛門の居城だったようで、周辺には土塁で囲まれた屋敷区画が複数あるそうです。

2021年06月27日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
今仁城[光岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には今仁氏の居城として紹介されていました。

2021年06月27日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
土井城[光岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には、佐野城や佐野切寄とも呼ばれ佐野氏の居城で土塁が一部残っているようです。

2021年04月23日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
山本砦[光岡城  周辺城郭]

(中津市教育委員会発行の城館ガイドブックによると)丘陵は妙見岳から延びてきたものでその先端部にあたります。土塁を巡らせた主郭と、そこから北に向かって延びる細い尾根を階段状に削り出した曲輪群からなるそうです。
妙見嶽城との関係から大友氏の城郭と言えるそうです。
駅館川に流れ込む小河川を挟んで対峙する山本切寄と同時期であるならば、黒田氏と大友氏が接する最前線ということになるようです。

2021年04月23日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
高尾山城[光岡城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」によると、高尾山とその南の峰続きの茶臼山一帯に立地していたようです。
永禄9(1566)年、麻生親政は大友氏の田原親賢の非道な政策と、人質として大友館に出していた嫡子七郎の非業の死を発端として大友氏に叛いたそうです。
城は三方より攻められ奮戦しましたが、およそ二十日余後に落城したとありました。

2021年04月23日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
丸尾城[光岡城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」にこの城について載ってました。
それによるとここは標高約30mだそうです。
年代は不明ですが、内尾公重が築城したそうです。丸尾集落の詰城と見られるみたいです。
その後、天正の頃まで代々居城したとありました。

2021年04月11日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
山本切寄[光岡城  周辺城郭]

(中津市教育委員会発行の城館ガイドブックによると)
駅館川の崖に面した台地角部に築かれた単郭の城郭だそうです。
コーナー部分に櫓台を設けるという点は、高森城(時枝城周辺城郭)や光岡城などと共通していて、黒田入部以降の城郭と考えられるそうです。

2021年04月10日 【✾】遮那王豊前守牛若丸
丸尾城[光岡城  周辺城郭]



土地を所有されている方が図書館で見た文献で「清水城」を目にし、場所不明とされていたが、「自分の土地のものでは」と調べ、地区名から丸尾城と呼ばれているのを知った。「長峰の歴史物語」の文化財分布図に丸尾城跡と明記されているのを見つけ、専門家にも聞いた。

 今も堀や井戸の跡が残されているという。宇佐市教委によると、中世の城館だが、発掘調査はされておらず、内部構造など詳しくは分かっていない。

↑ネットで調べたら上記のようにありました。中世城郭で未調査ですし状態も悪くないので貴重かもしれません。

千田嘉博先生に調べて欲しいです( ≧∀≦)ノ

説明が載っていた看板には黒田氏に一蹴されたとありましたが、ここが当時のままだとすると、私が指揮しても簡単に落とせそうに感じました(^^;

2021年04月08日 堀切凡夫
山本切寄[光岡城  周辺城郭]

詳細不明。南北朝時代のものか。現在は椎茸栽培で一部使われるも、土作りの櫓台、巨大空堀、土塁、虎口が良好に残ってます。

2021年03月08日 龍馬備中守【】
妙見嶽城[光岡城  周辺城郭]



大分県の宇佐市にある妙見嶽城☆別名を極楽寺城と呼びます♪

豊前・豊後の国境に付近で要衝になる為、当初は城井氏、後には杉氏など豊前国守護や守護代を務める武将が在城する程、重要拠点とされて来た場所になります☆

戦国時代には豊前に勢力を伸ばしてきた大友氏と周防・大内氏の間で激しく争奪が繰り返されました☆大内氏が滅び豊前国が大友氏の支配下におかれてからは重臣の田原氏が入り豊前の重要な城郭として毛利氏・高橋氏・秋月氏らの勢力に対する前線基地の一つとなって行きます☆
豊薩合戦の時には大友方の最後の拠点になっていて府内を追われた大友吉統が最終的に逃げ込んだのもこの妙見嶽城で、この時、大友吉統が府内で大した抵抗もせずにただ妙見嶽城まで逃げてきた事は秀吉の怒りを買い後の大友氏改易の原因の一つにもなっています。。

城郭としては凄い!!の一言です♪
境目の城の凄まじさが良く出ています♪取った取られたになった時の城は、よりパワーアップの為に改修、拡大が行なわれる訳ですがこの城郭も正にそれが良く出ております☆
大友氏が恐らく今ある形に持っていったと思われ彼らの土木量もまた素晴らしいです☆
特に主郭の南東側の連続畝状竪堀群、主郭の北西側の6連続堀切は中々鬼気迫るモノを感じます!!生き延びようと考え動いた結果が、あの様な事になるんだなぁ〜と感激しました♪凄く良い城郭です♪
オススメの1城です♪

2019年07月19日 戸次豊前守紹運亮幸盛
光岡城

宇佐インターを降りてすぐの交差点を西に8キロほど行くと光岡城入口の看板がみえます。その看板辺りも広いので駐車しても問題ないようですが、そこから道沿いに行った城のすぐそばにも駐車場とトイレがあります。お城の構造は本丸らしき所を土塁と横堀で囲っているだけといったシンプルな感じです。近いほうの駐車場から本丸跡にすぐ登れますが、左側の道のほうに行くと虎口や堀があります。虎口までの堀は綺麗に整備されておりそれはそれで魅力的なのですが、この城の最大の魅力は南側の堀だと思います。高さ(深さ)は一番の所で3,4mくらいあると思います。切り開かれたどこかの山道を歩いている感じでした。こじんまりとしたお城ですがベンチもあちこちにあり、家族で楽しめると思います。

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