龍王城(りゅうおうじょう)

龍王城の基本情報

通称・別名

神楽岳城、臥牛城、(龍王陣屋)

所在地

大分県宇佐市安心院町龍王字古城

旧国名

豊前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

安心院公泰

築城年

正安年間(1299〜1302)

主な改修者

細川氏

主な城主

安心院氏、田原氏、大友氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(空堀)、石垣、虎口

指定文化財

市文化財(龍王城の図)、市史跡(龍王城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

日出生城(大分県玖珠郡)[13.2km]
立石陣屋(大分県杵築市)[13.2km]
光岡城(大分県宇佐市)[13.5km]
時枝城(大分県宇佐市)[15.6km]
日出城(大分県速見郡)[17.7km]

龍王城の解説文

立地
安心院盆地を見下ろす標高315mの竜王山頂上に立地する。麓の集落(近世の城下町があった場所)が位置する段丘上との比高差は180m、沖積平野(安心院盆地)との比高差は210mほどある。

現状
山頂部にテレビの中継アンテナが複数立っており、主郭部の平坦面が若干削平され、さらに入口部などでも後世の改変が及んでいる。

構造
東西に長くかなりの比高差のある頂上部のほぼ中央に主郭を拵え、東西両側にそれぞれ数mの段差を持つ2箇所の大きな曲輪を設ける。

このような基本的構造は天正10年段階の安心院氏籠城段階でできあがっていたと考えられ、この後天正14年の終わりから15年にかけて大友義統が在城した折りにどのような改修を行ったのか、あるいは行わなかったのかについては記録からは不明であるものの細川段階以前と考えられる石垣が一部見られる。

矢穴痕が無く表面をはつっただけのもので、自然の巨石にもたれかかるように積み上げている。これが、大友段階であるとすると文禄2年までの間に龍王城にも手を入れたことになる。

現状では虎口周辺など細川段階の石垣が見られるが、虎口はすべて平虎口で技巧的なものではない。石垣の隅角部も1段しか残らず、山の中腹あたりまで矢穴痕の残る石材が点在していることから、破城されたことが考えられる。

歴史
若干の疑問が残る「宇佐郡三拾六人衆着到状案」に弘治2年(1556)、「大友宗麟公豊前国龍王山城御在陣中宇佐郡三拾六人衆着到」とあるのが初見であるが、この段階では妙見岳城を廻る動きはあるものの、他に龍王城の動静は知られない。確実なのは天正10年(1582)に佐田弾正忠宛の大友義統の書状にある「安心院中務入道切寄」が初めてである。

これは、天正7年頃から起こった豊前の動乱に呼応して安心院氏が龍王城に立て籠もり反大友の立場を明確に示した際のもので、「切寄」という呼称からこの段階で築城あるいは改修された可能性が高い。

田原紹忍を中心にこれを討ったことから結果的に紹忍の城郭となり、天正14年12月に島津氏に府内を攻め込まれた大友義統は妙見岳城を経由して龍王城に紹忍を頼って逃げ籠もる。そして、この龍王城と紹忍の養子である田原親盛の妙見岳城の2城は、天正15年以降豊前に黒田氏が入っても大友氏に留め置かれた。

このように、龍王城は天正10年に表舞台に登場し、一挙に妙見岳城と並ぶ城郭として扱われる意味は判然としない。

黒田氏が慶長5年に転封すると、その後細川氏が豊前に入部し龍王城を改修する。

情報提供:宇佐市教育委員会社会教育課 文化財係

龍王城の口コミ情報

June02様[2011年02月12日]
余談です。
安心院(あじむ)町は、鏝絵(こてえ)を知る人には有名な町です。鏝絵は左官職人が、住人の願いなどを漆喰に描く色彩あるレリーフアートで、民家や土蔵の壁にあります。
広範囲なので時間に余裕があり、興味のある方は、散策しては如何でしょうか?
城下の龍王地区?にも2軒ほどあります。
観光案内所で、地図がもらえます。

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