真玉城(まだまじょう)
真玉城の基本情報
通称・別名
- 真玉氏居館
所在地
- 大分県豊後高田市西真玉大村
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 真玉(木付)重実
築城年
- 正平8年〔南朝〕/文和2年〔北朝〕(1353)
主な改修者
- -
主な城主
- 真玉氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀・水堀)
指定文化財
- 県史跡(真玉氏居館跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
高田城(大分県豊後高田市)[5.4km]
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真玉城の解説文
[引用元:Wikipedia「真玉城」の項目]
真玉城(またまじょう)は、大分県豊後高田市大村にあった日本の城。
概要
真玉城は、現在真玉寺がある周囲を水堀が取り囲み、真玉寺北側に高田高校真玉分校跡となっている内城、更に外側に現在は田畑と住宅地となっている外城が配置された縄張りの城である。高校跡地のグランド北側には約30m程の土塁とその外側に堀が残り、またグランド西側には田畑となった空堀跡がよく残っている。
歴史
1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年)に杵築城主木付頼直の弟重実が真玉荘を分知され、この地に築城、以後真玉氏代々の居城となった。
1590年(天正18年)、9代真玉統寛は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣する途中、家臣山田兼佐の謀反によって落命する。この内乱によって真玉氏は滅亡した。
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真玉城の口コミ情報
2021年12月02日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
白丸城[真玉城 周辺城郭]
「大分の中世城館」では地図で位置が示されている程度でしたが、リア攻めした際にこの城域に住んでおられる方に遭遇し、(ソーシャルディスタンスを保って)少し話をお聴き出来ました。
その方によると確かに住んでおられる方たちによってここは城と認識されていることや、この地域一帯が城だったこと、石垣も用いられていた事などもお聴き出来ました。話を聞いた方の家の石垣は崩れたので積み直したそうですが、裏手に住んでいる方の家の石垣は城のものだと仰っていました。また堀の名残りのような川跡もありました。
またここの地名は「城前」でこの地域へのいわば登城口にあたる橋の名前は「城川橋」となっています。さらにY!MAPで調べると城前という地域がかなり広く、しかも南側には大友氏に仕えた吉弘氏(吉弘統幸や高橋紹運、立花宗茂を輩出した家系)の居城があったとされる松行や筧城があったとされる伝承地に繋がっています。
それでひょっとしたらここが筧城で白丸城は別名かもしれませんし、筧城の出丸でその名が白丸だったのかもしれません。または筧城や屋山城の支城だったかもしれません。そんな事も思い巡らすことの出来た城でした。
2021年08月03日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
真玉城
近くに車を停めれる場所はありません。
遺構としては水濠が残っています。また近辺には土塁も残っているようです。
役場等で貰える「豊後高田の城跡」という冊子では、現在ある真玉寺は近世になって現在の場所に移って来たらしく、ここが小字「貴戸(城戸)ノ前」であることから、ここが虎口として機能していた可能性もあるようです。またその冊子ではどちらにしても本丸は隣地の高田高校真玉分校跡地のようです。
水濠は良い状態で残っていますし、車中からも確認しやすいので、近くを通り掛かる際には足を運んでも良いのではないでしょうか。
2021年05月23日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
筧城[真玉城 周辺城郭]
航空写真の地図上では吉弘氏館として紹介されていました。
写真の筧城跡伝承地を辿ると到着します。
直ぐ近くに車を10台程は停めることの出来る空き地がありますので直前まで車で行けます。伝承地は車を降りて直ぐです。
伝承地としての曲輪は小さいので、ここに寄って屋山城を目指しても良いかと思います。
伝承地ではありますが、城跡の周りには(遺構かは分かりませんが)石垣が多くあり、家臣団の屋敷跡と言われても不思議はない感じの曲輪のようなものも幾つか連なっています(現在は畑地等ですが)。ほとんどは私の願望がそう見せていると思いますが(^^;
2021年05月05日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
屋山城[真玉城 周辺城郭]
同じ屋山にある長安寺への案内板を目指せば登城口にたどり着けます。駐車場も長安寺の駐車場の隣にあるので(登城者と登山者の兼用)ひたすらそこをまずは目指してください。車で山の大体中腹辺りまで登れます。
それからしばらくは登山道に沿って登ります(舗装されたものやそうでない道)、約20分程でしょうか。季節によっては躑躅などの花も楽しみながら登れます。
この道は案内板によれば唯一の城への登城口で、竪堀として表現されてました。
この道を登りきると大手口となります。ここからの景色は絶景ですが、ここから急な勾配の虎口を7分程登ると主郭手前の曲輪となります。
そこから主郭 ⇒ (一番奥の)ショウケが鼻まで10分かからないぐらいでしょうか。かなり大満足な山城です。
かなり細長い縄張りとなっています。足を踏み外せば転げ落ちそうな感じですので、足元は要注意です。
電波は入りましたが(au)1人での登城は避けた方が良いと感じました。
雨や雪の時期などは滑り安く危険かと思います。
また夏の時期は飲料水は十分に用意されておいた方が良いと思います。
城攻め、帰陣合わせて2時間くらいは見ていた方が良いと思います。
守りやすく攻めにくい城ですが、曲輪が狭いので、大軍での籠城には向かないように感じましたが、仮に島津が攻めたならば落とせなかった城として歴史に残ったのではないかと思います。落とせても岩屋城のような感じで歴史に名を残したでしょう。
豊臣なら向城を築城して兵糧攻めかなと感じました。
こちらに赴く時には候補に加えて損はないかと思います。
2021年05月03日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
屋山城[真玉城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、山頂は「囲い岩」という岩石に囲まれた天然の要害になっているようです。ここは戦時に用いられるための山塞で、平時は山麓の筧城に館を構えていたそうです。
7代吉弘親信の時に、国東市にある吉弘城からこの屋山城に居城を移したとありました。
2020年10月01日 戸次豊前守紹運亮幸盛
筧城[真玉城 周辺城郭]
高橋紹運や立花宗茂の生誕地とされている所です。ただ明確な資料や遺跡がないため、(伝)と表記されています。城郭というより館跡です。石垣も後世のものっぽいですが、曲輪跡はなんとなく確認できます。『軍師官兵衛』で吉弘統幸が取り上げられたからか、紹運や宗茂の生誕地というより吉弘統幸をはじめとした吉弘家の居館としている感じが強いです。
2019年05月29日 虹雷 大宰大弐 サンダー
真玉城
残念ながら、県指定の立て看板は無くなってて見当たりませんでした。入っていいのかなと思うようなクリーク沿いの細い道を15メートルくらい進むと看板が見えてきます。かなり分かりにくいです。