岐部城(きべじょう)
岐部城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大分県国東市国見町岐部
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 岐部成久
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 岐部氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀)、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
富来城(大分県国東市)[10.2km]
真玉城(大分県豊後高田市)[15.4km]
吉広城(大分県国東市)[16.6km]
沓掛城(大分県杵築市)[18.3km]
佐野鞍懸城(大分県豊後高田市)[19.9km]
高田城(大分県豊後高田市)[20.3km]
安岐城(大分県国東市)[23.7km]
杵築城(大分県杵築市)[27.6km]
佐田城(大分県宇佐市)[31.3km]
時枝城(大分県宇佐市)[31.8km]
岐部城の解説文
岐部城の口コミ情報
2023年09月20日 織田上総介晃司
岐部城
ペトロ・カスイ岐部記念公園の駐車場があります。裏山が岐部城ということでペトロ・カスイ公園側から登城。主郭や堀切にはたどり着きましたが石垣(後世の積み上げ)には遭遇しませんでした。
もやし公園(山の反対側)にも登城口があり、登るとすぐに石垣を見ることができます。
2022年03月09日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
岩戸寺古城[岐部城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、山口城という別称があることを紹介しています。
「日本城郭大系」によると、四方を岩壁に囲まれた城跡で、文禄4(1595)年、黒田長政は国東半島の諸城を攻撃してこの岩戸寺古城に押し寄せたそうですが、天然の要害の地で攻めあぐんだようです。
そこで萱を束にして火をつけて城中に投げ込んで火攻めにし、それに伴い城中の山口紀伊守らは打って出たようですが流れ矢に当たって戦死し、城主鬼木左衛門督平信家も負傷して討死、残った永松大膳・葛原民部大輔時房らは何回となく敵を追い散らしたが、ついに力尽きて落城したとありました。
国東北部の熊毛・岐部・竹田津・櫛来からの援軍も間に合わなかったようです。
討死した郷士の菩提を弔う観世音の塔が今も残っているそうです。
2021年09月28日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
姫島城[岐部城 周辺城郭]
「日本の城辞典」によると、黒曜石の断崖上にあり、姫島氏は毛利氏を度々撃退したようです。
「日本城郭大系」によると、永禄12(1569)年、大友宗麟の筑前立花城攻めに姫島入道三甫その他七万八千騎が毛利勢を取り巻いたと『陰徳太平記』に記しているそうです。
天正7(1579)年、毛利の水軍が豊後へ侵入したとき、「姫島寄合衆」はこれを撃退しているようです。
姫島氏の名は『豊陽志』に「姫島丹後守」、『豊城世譜』に「姫島掃部介・姫島平右衛門」が見えるとありました。
2021年07月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
小城[岐部城 周辺城郭]
「大分の中世城館」によると、御所の陣と尾根続きの丘陵先端部を、三方を土塁で囲み、上下2段の曲輪を作っているようです。横堀、櫓台状の高まりもあるそうです。
2021年07月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
御所の陣[岐部城 周辺城郭]
「大分の中世城館」によると、小門山から北東に伸びる尾根の先端部にあるようで、四方向の尾根を全て掘り切り、内部に低い土塁の廻る2段の曲輪を作り、虎口部に一部石垣を用い、横矢が掛かるように折れを設けてあるそうです。
ちなみにここは、田原氏が天正8年に反乱した際に立て籠った鞍懸城と安岐城が国東半島の西の端と東の端にあり、それに対応するために大友氏が拵えたと考えられる城郭のようです。
2021年05月07日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
伊美城[岐部城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によれば、伊美小学校の校域が伊美城の城跡だということです。
伊美氏は竹田津氏、櫛来氏らと共に「浦部衆」と呼ばれる水軍の将として大友氏に仕え、天文2(1533)年、大内軍の水軍を姫島沖で撃破したり、対外貿易で巨額の利益もあげているようです。
現在は国見小学校と名称が変わっています。
小学校の周囲に水路があり、堀を利用したものかもしれません。
立地としては、伊美港からは比較的遠くにあるので、平城の守り難い弱点を補うためかもしれません。近くには低いとは言え山があるので、そのどこかに詰城を築いて用いた可能性もあります。
2021年05月03日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
小門牟礼城[岐部城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、永正3年から4年にかけて、文殊仙寺·両子寺·成仏寺などの衆徒や近郷の浪人らを集めて大友親治が城塞を構築したとありました。そして8年間にわたって周辺を押領したので、大友義鑑は吉弘直氏·寒田親将を大将にして三千ほどの軍で攻め、落城したとありました。
小門牟礼山頂には、この戦いで戦死した小田一党の記念碑が子孫によって建てられているようです。
「大分の中世城館」では、雄渡牟礼城という字で表記しています。
2021年05月03日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
竹田津城[岐部城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、現在は畑や蜜柑畑、雑木林になっているようですが、いろいろな形で石垣が残っているみたいです。
竹田津氏は「浦部水軍」の将として大友氏に従い各地に転戦し、大内氏や毛利氏の水軍と海戦を行っているそうです。また文禄の役の際には、大友義統と共に竹田津港から出陣し、竹田津氏を含めた浦部水軍が活躍したとありました。
現地は「日本城郭大系」にある通り雑木林や蜜柑畑となっていました。蜜柑畑は段々になっていたので曲輪の一部を利用したのかもしれません。
藪のため石垣はよく分かりませんでしたが、土塁のように見えるものもありました。
竹田津港からも近く、低いとは言え山城なので、当時は物見としての眺望も良かったと思われますし、守り易い立地にある城だと感じました。
2021年05月03日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
櫛来城[岐部城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、ここには城山社が建っており、このあたりに櫛来氏代々の居城があったようです。
天正16年、豊前の宇都宮氏の城井城攻撃に櫛来大和守豊重が出陣した記録があり、大友氏滅亡と共に帰農したと考えられているそうです。
現在は神社となっています。整備はあまりされていない感じです。
主郭と考えられる神社までは道が整備されているので登城しやすいですが、当時はもちろんこうした道は無かったですし、道を敷設するためにこの城地を切立っている感じですが、中々守り易い立地だったのではないかと思いました。
海岸まではそれほど遠くなく、周囲にも山があるため良い場所に築城したように感じました。
2019年05月29日 虹雷 大宰大弐 サンダー
岐部城
小高い城跡の上に登ると、建築デザイナーさんの手による木造の展望台が出来ており、登って眺められるようになってました。
2016年01月01日 にゃにゃーにょ豊後守
岐部城
ペトロ岐部†世界を歩いた神父
国道213号線で国東半島北部のトンネルをいくつも抜けると、岐部川を渡る辺りで『ペトロ・カスイ岐部神父記念公園』が見えてくる。
公園には芝生の上に神父の像や教会などがあり、背後に十字架が建つ小山がそびえる。
その小山こそ岐部城址なのじゃ。
駐車場脇に岐部氏主従の供養塔が並んでおり、その付近から登城じゃな。
石段の途中にはベンチもあり、上に進むと瀬戸内に浮かぶ姫島が望めるのじゃ。
城址は立派な石垣が築かれておるが、どうも後年に積まれたモノらしいのう?
山頂の主郭の後方は木が生い茂っておるが、その奥に尾根を分断しておる堀切が見れるぞい。
しかし、岐部城に関する説明板などが全く無いのが残念なのじゃ…。
【ペトロ・カスイ・岐部】
ペトロ岐部(岐部茂勝)は安土桃山時代から江戸時代初期のカトリックの司祭。
情報など無い時代に、自力で歩いてローマへ至ったスゴい方じゃぞ!
エルサレムを訪れた初の日本人でもあるが、帰国後最期は殉教したのじゃ。
城址に隣接する「国見ふるさと展示館」に詳しい史料が展示してあるぞい。
立地
国東半島の北岸で、岐部川と小さな谷に挟まれた細長い丘陵が海岸平野に突き出た、その突端の50mの等高線が回るあたりに位置する。麓の沖積地は標高が4~5m程である。現状
現在は雑木林で工作物は無いが、城郭の北西側斜面には8段に渡って棚田状に石垣が積まれている。さらに、ほぼ中間の地点には柱穴を伴う櫓台状の石垣がある。これらは、城郭の北西裾にある、庄屋であった有永家の借景として構築されたものである可能性が高い。構造
南側から伸びてきた丘陵の先端120mほどの地点で2ヵ所堀切(+竪堀)を入れ、遮断している。内部は、7段の階段状の曲輪が作られている。特に、最も上位の曲輪(主郭)は、手前の曲輪との境に東西両側に小さく竪堀を入れ、横方向の回り込みを防いでいる。残りの下位の曲輪は単純に階段状に作られているが、下位曲輪との通路はジグザグに設定されている。歴史
在地土豪の岐部氏の城郭と言われるが、当該期の文書、記録には見あたらない。しかし、国東半島の浦々を支配する小規模な在地土豪(浦部衆)のひとつの典型的な城郭と考えることができる。参考文献
・『大分の中世城館』第四集総論編(大分県教育委員会)2004年