岐部城(きべじょう)
岐部城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大分県国東市国見町岐部
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 岐部成久
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 岐部氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀)、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
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富来城(大分県国東市)[10.2km]
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岐部城の解説文
岐部城の口コミ情報
にゃにゃーにょ豊後守様[2016年01月01日]
ペトロ岐部†世界を歩いた神父
国道213号線で国東半島北部のトンネルをいくつも抜けると、岐部川を渡る辺りで『ペトロ・カスイ岐部神父記念公園』が見えてくる。
公園には芝生の上に神父の像や教会などがあり、背後に十字架が建つ小山がそびえる。
その小山こそ岐部城址なのじゃ。
駐車場脇に岐部氏主従の供養塔が並んでおり、その付近から登城じゃな。
石段の途中にはベンチもあり、上に進むと瀬戸内に浮かぶ姫島が望めるのじゃ。
城址は立派な石垣が築かれておるが、どうも後年に積まれたモノらしいのう?
山頂の主郭の後方は木が生い茂っておるが、その奥に尾根を分断しておる堀切が見れるぞい。
しかし、岐部城に関する説明板などが全く無いのが残念なのじゃ…。
【ペトロ・カスイ・岐部】
ペトロ岐部(岐部茂勝)は安土桃山時代から江戸時代初期のカトリックの司祭。
情報など無い時代に、自力で歩いてローマへ至ったスゴい方じゃぞ!
エルサレムを訪れた初の日本人でもあるが、帰国後最期は殉教したのじゃ。
城址に隣接する「国見ふるさと展示館」に詳しい史料が展示してあるぞい。
国東半島の北岸で、岐部川と小さな谷に挟まれた細長い丘陵が海岸平野に突き出た、その突端の50mの等高線が回るあたりに位置する。麓の沖積地は標高が4~5m程である。
【現状】
現在は雑木林で工作物は無いが、城郭の北西側斜面には8段に渡って棚田状に石垣が積まれている。さらに、ほぼ中間の地点には柱穴を伴う櫓台状の石垣がある。これらは、城郭の北西裾にある、庄屋であった有永家の借景として構築されたものである可能性が高い。
【構造】
南側から伸びてきた丘陵の先端120mほどの地点で2ヵ所堀切(+竪堀)を入れ、遮断している。内部は、7段の階段状の曲輪が作られている。特に、最も上位の曲輪(主郭)は、手前の曲輪との境に東西両側に小さく竪堀を入れ、横方向の回り込みを防いでいる。残りの下位の曲輪は単純に階段状に作られているが、下位曲輪との通路はジグザグに設定されている。
【歴史】
在地土豪の岐部氏の城郭と言われるが、当該期の文書、記録には見あたらない。しかし、国東半島の浦々を支配する小規模な在地土豪(浦部衆)のひとつの典型的な城郭と考えることができる。
【参考文献】
・『大分の中世城館』第四集総論編(大分県教育委員会)2004年
情報提供:国東市教育委員会文化財課