富来城(とみくじょう)
富来城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大分県国東市国東町富来浦
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 富来忠文
築城年
- 弘長元年(1261)
主な改修者
- -
主な城主
- 富来氏、垣見氏、黒田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀)、土塁
指定文化財
- 市史跡(富来城跡)
再建造物
- 碑
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-
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富来城の解説文
富来城の口コミ情報
にゃにゃーにょ豊後守さん[2014年04月30日]
「富来浦を見下ろす断崖の上に建つ要害の城」と云われていた城…
国道213号線から細い道に入り少し進むと『富来城跡』と大きく書かれた看板が目に入るぞい。
そこが「城山子供公園」そして富来城の本丸跡なのじゃ!
駐車場は無いのじゃが看板の横に車が置ける小スペースがあるぞい。
道幅が狭いぞ、路線バスが通る事もあるから注意じゃぞ。
公園の外側の道路に面した場所に、城の由来が詳しく書かれた説明板があるのじゃ。
公園内は、小さな祠と三浦梅園の歌碑などがあり、碑の左手を下るとそこに当時の石垣があるぞい。
★現在は本丸の一部が小さな公園として残るのみなのじゃが歴史は古く、鎌倉御家人の永井実貞が下向し土着して富来氏となり、曾孫の実忠が富来城を築いた(1261年)のじゃ。
以来、主家の大友氏が没落するまで富来氏の居城として栄えたのじゃ。
★『足利尊氏』が富来城に落ち延びて来た(1336年)のち再び富来から上洛し幕府を開いた!
『黒田官兵衛(如水)』に攻めこまれた!(1600年)
その時黒田軍にいた『宮本武蔵』の足を負傷させた!
…などの逸話もある城なのじゃぞ♪
【古址現状】
富来城は東と北が海に接し、南は富来橋右岸から、万弘寺に至る低地を含み、西は城山から字三ノ丸あたりまで占めている。その中心部は、本丸という字名が示しているとおりである。
【城山】
城地の西南隅にある松林の小丘で、その南の低湿田から仰ぐとき、往時の外郭、物見のおもかげを彷彿させるものがある。
【城屋敷】
城山の西崖から北方にかけ、堀の跡が続いているが、畑や家屋敷となっているところか多い。城屋敷といっている地帯が、二ノ丸と想定される。
【堀跡】
城山下部がもっとも顕著で、下手に細長く続き、お船入に通じているようだ。これと平行するように、北側は狭長の堀をめぐらし、町役場出張所の近くまで装置された。
ニノ丸にあった小高い丘の土を取って、深い堀を埋めた、と古老は語る。城東は加藤の屋敷から中学校地に上り、現校舎の外郭を囲繞した凹地があった。雑木竹籔が茂りあっていた記憶があるという。鉄砲町南側の堀跡は、今では湿田・泥池・七島田が、狭少な形で続いている。
【鉄砲町】
鉄砲方の住んでいたところで、いま20数戸ある。東端の竜神社から西面すると、213号国道ができるまで、石垣の一部が残っており、工事のとき持てあました巨石があり、この上の桑畑から、かつて多くの人骨を出したことがある。隅櫓の跡という。
【構口】
隅櫓の東方、海岸沿いに、かなりの石を築いた3メートルほどの石塁が、300メートル以上も断続して連なっている。構ロと呼ばれるところである。巨石には寛政5年(1793)と刻まれている。築塁は以前からあったもようだが、有名な孝子伊勢松が在世のころで、もちろん富来城は、廃城となって久しい。構口は搦手の名称であるが古老の言にしたがえば船が発着したところであったという。
川口の港は、のちに築港されたもの、この石垣の中は、いまは畑で酒屋の久保屋などがあった跡、古井戸も残っている。江戸時代に商家の繁盛した町で、横町・下町などは当時の名残りである。
【お船入】
富来橋から約200メートル西方の、川辺に近いところに、今は老木か茂っているが、ここが船を入れた跡、基部には巨石が積まれ、西方30メートルばかり、石垣が造られている。現在は人家が立ち並んでいるが、西方一帯の低湿地は、大船の繋留地であった。
【空堀】
城屋敷の西方100メートルのところの字名が空堀で、事実幅10メートルの、堀割風の段々畑や杉林、県道などで、様子は変わっているが、その跡とおぼしきものは確認される。
【門畑】
富来中学校の東南隅に、門畑という字名がある。この辺に本丸の城門があったのではあるまいか。
【土塁の防壁】
鉄砲町の裏側一帯に町を、屏風でかこったように長くつくられている。砂地であるべき地帯に、赤土(粘土質)が、多量に堆積されている。
【参考文献】
・『国東町史』より
情報提供:国東市教育委員会文化財課