佐野鞍懸城(さのくらかけじょう)

佐野鞍懸城の基本情報

通称・別名

鞍懸城、鞍掛城

所在地

大分県豊後高田市佐野字野添

旧国名

豊後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

田原氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、堀切、竪堀

指定文化財

再建造物

周辺の城

高田城(大分県豊後高田市)[4.1km]
真玉城(大分県豊後高田市)[7.3km]
沓掛城(大分県杵築市)[8.6km]
佐田城(大分県宇佐市)[11.6km]
時枝城(大分県宇佐市)[15.5km]
吉広城(大分県国東市)[18.0km]
光岡城(大分県宇佐市)[18.4km]
日出城(大分県速見郡)[19.7km]
杵築城(大分県杵築市)[19.8km]
岐部城(大分県国東市)[19.9km]

佐野鞍懸城の口コミ情報

2023年11月07日 せいちゃん淡路守
佐野鞍懸城

舗装された林道を少し行くと右手にピンクリボンと墓地が見えてきます。後はピンクリボンに従って進んでいくと城域に到達します。

公共交通機関組の方は宇佐駅でレンタサイクルを利用すれば効率的にアクセスすることができます。

2023年09月19日 織田上総介晃司
佐野鞍懸城

先人様の口コミを参考にして地域の墓地の駐車場に停める。(リア攻めマップ参照)
墓地からは車で通った道を下ってゆくと左手にピンクリボンがあります。それが登城口です。
少し登ると古いお墓が見えれば正しい登城口です。
そこからはピンクリボンを頼りに進んで行くと佐野鞍懸城にたどり着きます。

主郭をⅡ郭が取り囲むシンプルな縄張りですが全て総石垣となってます。

ピンクリボン以外は整備されておらず、ピンクリボンばかりに気をとられるとクモの巣攻撃にあってしまいます。
手袋を用意してクモの巣を破壊しながら進んでください。

2023年03月09日 RED副将軍
佐野鞍懸城



圧倒的な廃城感を堪能できる九州の名城🏯

オススメ度 ★★★★★

佐野鞍懸城(さのくらかけじょう)と読みます。

築城年代は不詳。国東半島を支配していた田原氏の最後の居城。田原氏は、大友氏の一族ですが本家の大友氏とは幾度も対立。1580年、当主の田原親宏が没すると、大友宗麟は次男の大友親家を田原氏の家督を継がせようと画策します。しかし、養子となっていた田原親貫は毛利氏の援軍を得て家督争いとなりました。これが謂わゆる田原親貫の乱です。田原親貫は大友氏と戦うも苦戦し、本拠地であった安岐城は落城。西国東へと落ち延びました。

その後、田原親貫は再起を図るために田原氏重臣であった如法寺親並の援助を得て改修したのが、この佐野鞍懸城と奥畑鞍懸城です。佐野鞍懸城は石垣造りの要塞、奥畑鞍懸城は耶馬山系の険しい要害を利用した要塞でした。田原親貫は近隣の長野氏、城井氏、野中氏らに援軍を要請していましたが大友氏に計画が露見。大友氏は大規模な包囲網を築いて援軍の侵入路を遮断し田原氏は孤立しました。堅固な要塞であった鞍懸城も遂に落城し田原親貫も討死。田原氏は滅亡しました。

見所
主郭と主郭を取り囲む二郭から構成される小規模な縄張りですが、豊富に石が採れる岩山であり総石垣造りの城郭です。主郭は南方に長く西側に虎口が開口。二郭北側には土橋の架かる堀切もあります。崩落している部分も多いですが手付かずの山中に石垣遺構がそのまま残存し国内屈指の廃城感が味わえます。

行き方は、城域北東部に墓地に続く林道が走っており、林道を入って間もなくすると主郭へ続くピンクリボンが右手に目に付きます。ピンクリボンを辿ればものの10分程度で辿り着きます。車は奥の墓地に駐車できます。

2023年02月23日 RED副将軍
登城口[佐野鞍懸城  その他]



新しい登城口が付いています。ピンクリボンが10m以下の間隔で続いており迷うことはありません。ヤブや倒木も無いので10分くらいで辿り着きます。

2022年07月21日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
大村山城[佐野鞍懸城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、文書上の名称は大牟礼山で、天文3年の勢場ヶ原の戦いの合戦場とありました。頂上はなだらかな傾斜を持ち、加工した形跡はないそうです。

大内義隆と戦った大友義鑑の本陣でその陣城となります。ちなみにこの戦いで吉弘氏直が討死しています。吉弘鑑理の父親です。鑑理の子に吉弘鎮信や高橋紹運がいますので、代々大友家のために命を懸けて忠義を尽くしたことが分かります。
その吉弘氏直の石碑もあるようです。

2022年05月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
国界標(豊後国、豊前国)[佐野鞍懸城  碑・説明板]



豊前国と豊後国の境を示す国界標です。10号線沿いにあります。現在は宇佐市と杵築市の境近くになります。

2022年03月16日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
堀城遺跡[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、水堀が巡ること、また詳細な場所は分かりませんがこの堀城遺跡の北側に高山田遺跡というのがあるらしく、そこで中世の堀立て柱建物跡が出土していることが記載されていましたが、歴史等については記されてませんでした。

現在は幼稚園が建ってますが、その立地を観ると確かに堀らしき跡が巡っています。
周辺の城郭との位置関係を見ると、奥畑鞍懸城や佐野鞍懸城を詰城とした城館跡というよりも居館跡なのではないかと推察します。
立地からして、立て籠っても数十分しか持ち堪えれそうにないので、主に居館として用いたのではないかと思いました。

2022年03月16日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
西村遺跡[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、発掘調査によって25棟以上の建物跡が確認されていることが記載されていました。
土塁のような跡がありましたが、住宅になっている所も多くよく分かりませんでした。

2022年03月11日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
田北城樫山砦[佐野鞍懸城  周辺城郭]

「日本城郭大系」では、甲ノ尾城と本陣の中間にある砦で、田北氏の家臣が守っていたようです。
尾花の樫山八幡の地が砦の跡のようです。

2022年03月11日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
志手館[佐野鞍懸城  周辺城郭]

「大分の中世城館」では、地頭志手氏の館とありました。
「日本城郭大系」には、永世の頃に志手杢助照久が居住し、公文所屋敷と呼ばれていたそうです。

2022年03月11日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
田原山城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「大分の中世城館」には、田原山に向かって伸びる尾根の先端にあり、一条の堀切で切られた一辺40m程の方形の主郭があり、そこから下る尾根筋2箇所を掘りきるとありました。
「日本城郭大系」によると、城跡は10aばかりの断崖絶壁に囲まれた要害の地で、わずかに東方から登る道があるようです。
大友氏の初代能直の十二男大友泰広が健保元年に田原荘に入り、田原氏を名乗ったことからすると、田原氏が国東半島に足を踏み入れた最初の城のようです。
田原泰広は、大友氏に従い蒙古襲来の文永の役に従軍したようですが、戦功について不都合があるとして幕府に出向して訴えようとしたそうですが、幕府は泰広に対して「事情はわかるが、ここ当分は異国警備を怠ってはならない」と戒められたみたいです。
第二代田原基直も弘安の役に出陣し、功により筑後国田口村西方地頭職を賜ったとありました。

2022年02月27日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
牧城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「日本城郭大系」によると、井戸や掘の跡があるようです。城は別名馬城城で、城主は田染氏と思われるそうです。

しかし、「大分の中世城館」には、古庄氏の居城として紹介されていましたので、何らかの理由で城主が代わっていることが分かります。また、2つの曲輪からなる城郭で、主郭には帯曲輪が半周する構造のようであり、漢字違いの真木城という別称もあるそうです。

2022年02月17日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
大久保城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「日本城郭大系」には大久保弾正親秀の居城とありました。その後、子の四郎左衛門親時が僧となりこの寺を営んだとありました。

遺構については分かりませんが、現在の感じだと丘城と言えるのかもしれません。またどちらかというと城というより館、政所として用いられたようにも思えます。

2021年12月19日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
佐野鞍懸城



この佐野鞍懸城、中々の名城です。この城への登城方法、歴史については昌幸近江守野面積み♡さまの口コミを参照して頂ければ幸いですm(_ _)m

大友氏からの攻撃を8ヶ月ほど耐え抜いくという実戦を経験した総石垣の城です。

但し、整備されてません。本丸までの道のりは木に括りつけられたピンクリボンが目印となります。なので攻城時も帰陣時も、この城跡がある鞍懸山と自分の位置関係を把握することは怠らないようにお気をつけください。往復だけなら40分掛からないと思います。

整備されていないので傾斜もそれなりにキツく切岸として立ちはだかっていますし、倒木や竹藪等が逆茂木としての機能を発揮していますので、リア攻めとしての貴重な経験が出来ます。

そうした経験をした中での本丸にある石垣のお出迎えは達成感や感動を与えてくれると思います。

ちなみにこの佐野鞍懸城は、近くにある奥畑鞍懸城と連携して大友氏と対峙し、後詰めを得ることが出来なかったにも関わらず8ヶ月耐え抜いていますので、そちらにも行ってみたいと思っています。

お勧めの城です。

2021年07月31日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
立石城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、文書上の名称には古城山としても記載されることがあるようです。
遺構の状況としては、独立した「城山」の頂部を取り巻くように小さな曲輪が作られていて、2つの頂部に腰曲輪を巡らせ、間を道でつないでいるようです。南郭の南西斜面に18本ほどの畝状空堀が配されているとありました。

2021年07月29日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
小崎城[佐野鞍懸城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、集落全体が城郭化しているようですので、ちょっとした惣構の城だったのかもしれません。

「日本城郭大系」では延壽寺辺りが城跡として挙げられていましたが、その辺りは確かに小高くなっておりちょっとした切岸のようにも見えました。
またその周囲には屋敷群が形成されていたようですので、どちらかというと方形の居館跡のようにも見えました。

2021年07月28日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
奥畑鞍懸城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、文書上の名称は鞍懸城と記載されているようで、南北朝期の鞍懸城はこの奥畑鞍懸城のことである可能性が高いようです。
その判断の理由の1つが、文書上では佐野鞍懸城は鞍懸塁、鞍懸塞、鞍懸要害、くらかけの城と記載されているからだと思います。
遺構の状況としては、山頂部に堀切、切岸があるようです。また上下2段の郭を3条の堀切と1条の堀切で画するとあり、郭は狭く、切岸で形成していて、上部はほぼ平坦と紹介していました。

2021年06月21日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
甲ノ尾城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



城跡のある頂上まで車で行けますが、それまでの道は比較的狭く、私が訪れた時は余り整備されていない感じでしたので安全第一の運転を心掛けてください。

頂上に着くと直ぐに説明板がありますが、その説明でも遺構として堀跡について記されていますが、ある程度残っているように感じました。説明板正面にして右側が空堀に見えました。
切岸のように見える箇所もありました。

また頂上には風車櫓(笑)がありますが、そこからの眺めはとても良いです。
この山に城を築いた理由がよく分かります。

桜の木がありますのでその時期に訪れると綺麗だと思います。

2021年06月21日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
立石陣屋[佐野鞍懸城  周辺城郭]

本当に何もありません(^^; 空き地なので駐車には困りませんが、陣屋跡だったことを示す石碑等はありません。訪れた方々が写真を投稿してくださっていますが、中学校の跡地であることを示す石碑とその隣に個人的には良く読めなかった石碑がありました。陣屋跡とも読めなくはなかったですが、多分違います(^^; 縄張りは多分それなりに広かったんだろうなぁという感じでした。

2021年05月09日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
樋掛城[佐野鞍懸城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、本庄新左衛門統綱の居城となってました。
「小原堡」とも言うようです。

2021年05月09日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
龍ヶ鼻城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「日本城郭大系」には、この台地を取り囲むように八坂川が曲折して流れ、天然の堀となっているようです。
この城は大友氏一族の田北氏の支城と思われ、都甲山城入道が城番を務めていたそうです。

2021年05月09日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
甲ノ尾城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「日本城郭大系」によると、天正(1573-1592)の頃、田北相模守鎮周が居城としていたようです。
天正6年、田北鎮周が耳川の合戦で討死した後は、日差城主田北刑部大輔鎮生が城主となったそうです。

2021年05月08日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
小松城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



「日本城郭大系」によれば、文治元年(1185)、檀ノ浦で敗れた平氏一門のほとんどは入水したが、平経俊は泳いで戦場を逃れ、山香郷の上市にある長福寺を隠れ屋形としたそうです。
源氏が攻めてきたので、玖珠郡に逃れ、その9年後に再びこの地に戻り大友氏に仕えたようです。
経俊の三男、小松左衛門尉通盛が建暦元年(1211)、野原小野尾に移り、当地小屋氏の祖となったとありました。

2021年04月30日 昌幸近江守晩秋リア旅
佐野鞍懸城



標識や案内板がない佐野鞍懸城。登城の参考になればと、案内させて頂きます。

県道34号(豊後高田安岐線)「地域総合支援センターどんぐり河内」の交差点を曲がる → 左手に防火水槽が見えたら、右手の白いアスファルトの舗装道を登る → 登り切ると地域の墓地に着く。そこに駐車可能 → 道を下り最初のカーブにある左側の堀底道へ入っていく【写真①】 → 100㍍進み、右の山が城跡、入口にピンクリボンがついている【写真②】 → 斜面を登る。最初は倒竹だがすぐ開けてくる。ピンクリボンを頼りに真っ直ぐ登る。【写真③】 → 5分程登ると平地にでる。次は右へ【写真④】 → 5分程歩くとピンクリボンが密集してくる【写真⑤】これで城跡到着。

2021年04月21日 昌幸近江守晩秋リア旅
佐野鞍懸城



佐野鞍懸(さのくらかけ)城は地元で鞍懸山と呼ばれる標高100mほどの小山に築かれた城です。この城は国東半島に勢力を誇っていた田原氏の城でした。1580年(天正8年)に田原氏は主君大友宗麟に反旗を翻し(田原親貫の乱)佐野鞍懸城はその主戦場となり、実に8ヶ月にもわたって籠城し激しい戦いが繰り広げられたとのことです。

遺構は南北に長い尾根の頂上部に築かれ、北側の大きな堀切と中央部に設けられた土橋を渡ると、この城の特徴である石垣にぶつかります。最大3mの高さを持つ高石垣もあります。

佐野地域で採れる自然石は薄く割れる性質で、レンガのように上手に積み重ねて高い石垣を築いています。これは在地石工の石積み技術を導入したものと思われます。それに1587年(天正15年)の豊臣秀吉による九州攻め以降、総石垣の城郭技術が広まり、融合された城なのではないでしょうか。

山中を歩いていると、突然現れる石垣に出会った時の感動は何とも言えません。城域もコンパクトで見学しやすいです。『濃密な石造りの廃城』を味わってみませんか?

【写真の説明】
①石の衝立で囲まれた土橋。奥に石垣が見える。
②巨石の上に積まれた石。
③主郭虎口。
④主郭の石垣。
⑤ニ郭の石垣。
⑥石垣隅部。ここは豊臣の九州攻め以降の技術と思われる。
⑦石垣隅部と合わせて横矢懸があったようだが破却されている。
⑧城へと続く謎の列石。

2021年04月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
烏帽子岳城[佐野鞍懸城  周辺城郭]

(中津市教育委員会発行の城館ガイドブックによると)城郭は急な崖がある南側以外は畝状竪堀で囲まれているそうです。その数も54本あって、大分県内では妙見嶽城(宇佐市光岡城、周辺城郭)と並んで、畝状竪堀の最も発達した城郭だそうです。
「日本城郭体系」には、古荘氏の城跡で、城主の古荘右馬介は天正6年に大友宗麟に従い、日向耳川の合戦で戦死したため、その後は後藤氏の居城になったそうです。

2021年04月07日 堀切凡夫
烏帽子岳城[佐野鞍懸城  周辺城郭]



林道付近に登城路あります。途中で林業関連で昔使われたと思われる小道(途中倒木をくぐります)を通っていくと尾根に出て、南西に行くとすぐに広い主郭です

2014年12月15日 にゃにゃーにょ豊後守
立石陣屋[佐野鞍懸城  周辺城郭]

立石領は、木下家5千石の知行地なのじゃ。
《日出藩3万石から5千石を分知され、旗本交代寄合となる》

日豊本線立石駅の西側、立石郵便局斜め向かいの空地となっておる中学校跡が陣屋跡なのじゃ。しかし廃校となった「北部中学校跡地」と彫られた立派な石碑はあるのじゃが、立石陣屋の遺構は…なにも無いのう。

☆立石駅から国道を越えた北方に、木下家菩提寺の長流寺があるぞい。そこには『立石領主墓石群』があり、六代俊昌・七代俊直・九代俊芳・十代俊国らの巨大な墓石が建ち並んでおるのじゃ。

★実は…初代領主・木下延由が、豊臣秀頼の遺児『国松』だったのかもしれぬのじゃッ!

領地を分知する際、日出初代藩主・木下延俊(秀吉の正室北政所の甥)が遺言で四男の延由に1万石を分知するようにと言い残したのじゃ。が!わずか3万石の小藩が四男へ1万石をも分知するなど当時の常識では考えられぬのじゃ。

しかし日出藩の将来を心配した家老が遺命を破り5千石に変え、のちに切腹…と云う逸話があったのじゃが『豊臣国松』だったのならば、なるほどと云う話じゃ。さて、どうかのう?

佐野鞍懸城の周辺スポット情報

 国界標(豊後国、豊前国)(碑・説明板)

 奥畑鞍懸城(周辺城郭)

 烏帽子岳城(周辺城郭)

 立石城(周辺城郭)

 小松城(周辺城郭)

 甲ノ尾城(周辺城郭)

 龍ヶ鼻城(周辺城郭)

 樋掛城(周辺城郭)

 小崎城(周辺城郭)

 大久保城(周辺城郭)

 田北城樫山砦(周辺城郭)

 牧城(周辺城郭)

 田原山城(周辺城郭)

 志手館(周辺城郭)

 堀城遺跡(周辺城郭)

 西村遺跡(周辺城郭)

 大村山城(周辺城郭)

 立石陣屋(周辺城郭)

 長流寺(菩提寺)(寺社・史跡)

 墓地駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

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