立石陣屋(たていしじんや)
立石陣屋の基本情報
通称・別名
- 立石城
所在地
- 大分県杵築市山香町大字立石
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 木下延由(延次)
築城年
- 正保3年(1646)
主な改修者
- -
主な城主
- 木下氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
沓掛城(大分県杵築市)[8.4km]
高田城(大分県豊後高田市)[9.3km]
龍王城(大分県宇佐市)[13.2km]
真玉城(大分県豊後高田市)[13.2km]
日出城(大分県速見郡)[14.1km]
杵築城(大分県杵築市)[16.3km]
時枝城(大分県宇佐市)[17.3km]
吉広城(大分県国東市)[18.3km]
光岡城(大分県宇佐市)[18.8km]
立石城(大分県別府市)[22.0km]
立石陣屋の口コミ情報
2022年05月20日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
国界標(豊後国、豊前国)[立石陣屋 碑・説明板]
豊前国と豊後国の境を示す国界標です。10号線沿いにあります。現在は宇佐市と杵築市の境近くになります。
2022年03月11日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
古城[立石陣屋 周辺城郭]
「大分の中世城館」では、田北氏の古城として紹介されていました。
2022年03月11日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
田北城樫山砦[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」では、甲ノ尾城と本陣の中間にある砦で、田北氏の家臣が守っていたようです。
尾花の樫山八幡の地が砦の跡のようです。
2022年03月11日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
志手館[立石陣屋 周辺城郭]
「大分の中世城館」では、地頭志手氏の館とありました。
「日本城郭大系」には、永世の頃に志手杢助照久が居住し、公文所屋敷と呼ばれていたそうです。
2022年03月11日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
田原山城[立石陣屋 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、田原山に向かって伸びる尾根の先端にあり、一条の堀切で切られた一辺40m程の方形の主郭があり、そこから下る尾根筋2箇所を掘りきるとありました。
「日本城郭大系」によると、城跡は10aばかりの断崖絶壁に囲まれた要害の地で、わずかに東方から登る道があるようです。
大友氏の初代能直の十二男大友泰広が健保元年に田原荘に入り、田原氏を名乗ったことからすると、田原氏が国東半島に足を踏み入れた最初の城のようです。
田原泰広は、大友氏に従い蒙古襲来の文永の役に従軍したようですが、戦功について不都合があるとして幕府に出向して訴えようとしたそうですが、幕府は泰広に対して「事情はわかるが、ここ当分は異国警備を怠ってはならない」と戒められたみたいです。
第二代田原基直も弘安の役に出陣し、功により筑後国田口村西方地頭職を賜ったとありました。
2022年03月11日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
台城[立石陣屋 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、切岸で曲輪を造り、尾根先端に立地しているようです。
2022年02月27日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
牧城[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、井戸や掘の跡があるようです。城は別名馬城城で、城主は田染氏と思われるそうです。
しかし、「大分の中世城館」には、古庄氏の居城として紹介されていましたので、何らかの理由で城主が代わっていることが分かります。また、2つの曲輪からなる城郭で、主郭には帯曲輪が半周する構造のようであり、漢字違いの真木城という別称もあるそうです。
2022年02月17日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
大久保城[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」には大久保弾正親秀の居城とありました。その後、子の四郎左衛門親時が僧となりこの寺を営んだとありました。
遺構については分かりませんが、現在の感じだと丘城と言えるのかもしれません。またどちらかというと城というより館、政所として用いられたようにも思えます。
2021年07月31日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
立石城[立石陣屋 周辺城郭]
「大分の中世城館」によると、文書上の名称には古城山としても記載されることがあるようです。
遺構の状況としては、独立した「城山」の頂部を取り巻くように小さな曲輪が作られていて、2つの頂部に腰曲輪を巡らせ、間を道でつないでいるようです。南郭の南西斜面に18本ほどの畝状空堀が配されているとありました。
2021年07月29日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
小崎城[立石陣屋 周辺城郭]
「大分の中世城館」によると、集落全体が城郭化しているようですので、ちょっとした惣構の城だったのかもしれません。
「日本城郭大系」では延壽寺辺りが城跡として挙げられていましたが、その辺りは確かに小高くなっておりちょっとした切岸のようにも見えました。
またその周囲には屋敷群が形成されていたようですので、どちらかというと方形の居館跡のようにも見えました。
2021年06月21日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
甲ノ尾城[立石陣屋 周辺城郭]
城跡のある頂上まで車で行けますが、それまでの道は比較的狭く、私が訪れた時は余り整備されていない感じでしたので安全第一の運転を心掛けてください。
頂上に着くと直ぐに説明板がありますが、その説明でも遺構として堀跡について記されていますが、ある程度残っているように感じました。説明板正面にして右側が空堀に見えました。
切岸のように見える箇所もありました。
また頂上には風車櫓(笑)がありますが、そこからの眺めはとても良いです。
この山に城を築いた理由がよく分かります。
桜の木がありますのでその時期に訪れると綺麗だと思います。
2021年06月21日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
立石陣屋
本当に何もありません(^^;
空き地なので駐車には困りませんが、陣屋跡だったことを示す石碑等はありません。
訪れた方々が写真を投稿してくださっていますが、中学校の跡地であることを示す石碑とその隣に個人的には良く読めなかった石碑がありました。陣屋跡とも読めなくはなかったですが、多分違います(^^;
縄張りは多分それなりに広かったんだろうなぁという感じでした。
2021年05月11日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
田北城槍原砦[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、大友家が大内氏と争うようになると、田北氏はこれまでの本拠地の日差城から主力をここに移したとありました。
2021年05月09日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
日差城[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、この地は豊前·豊後に通じる交通の要衝で、いざというときにはこの城をとりまく砦や物見台から烽火をあげていたようです。以前は頂上に三層楼の天守や月見櫓などがあったらしいです。
大友氏が大内氏と争うようになると、主力をこの城から田北城槍原砦に移したそうです。
2021年05月09日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
樋掛城[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、本庄新左衛門統綱の居城となってました。
「小原堡」とも言うようです。
2021年05月09日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
龍ヶ鼻城[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、この台地を取り囲むように八坂川が曲折して流れ、天然の堀となっているようです。
この城は大友氏一族の田北氏の支城と思われ、都甲山城入道が城番を務めていたそうです。
2021年05月09日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
甲ノ尾城[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、天正(1573-1592)の頃、田北相模守鎮周が居城としていたようです。
天正6年、田北鎮周が耳川の合戦で討死した後は、日差城主田北刑部大輔鎮生が城主となったそうです。
2021年05月08日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
小松城[立石陣屋 周辺城郭]
「日本城郭大系」によれば、文治元年(1185)、檀ノ浦で敗れた平氏一門のほとんどは入水したが、平経俊は泳いで戦場を逃れ、山香郷の上市にある長福寺を隠れ屋形としたそうです。
源氏が攻めてきたので、玖珠郡に逃れ、その9年後に再びこの地に戻り大友氏に仕えたようです。
経俊の三男、小松左衛門尉通盛が建暦元年(1211)、野原小野尾に移り、当地小屋氏の祖となったとありました。
2021年04月20日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
烏帽子岳城[立石陣屋 周辺城郭]
(中津市教育委員会発行の城館ガイドブックによると)城郭は急な崖がある南側以外は畝状竪堀で囲まれているそうです。その数も54本あって、大分県内では妙見嶽城(宇佐市光岡城、周辺城郭)と並んで、畝状竪堀の最も発達した城郭だそうです。
「日本城郭体系」には、古荘氏の城跡で、城主の古荘右馬介は天正6年に大友宗麟に従い、日向耳川の合戦で戦死したため、その後は後藤氏の居城になったそうです。
2021年04月07日 堀切凡夫
烏帽子岳城[立石陣屋 周辺城郭]
林道付近に登城路あります。途中で林業関連で昔使われたと思われる小道(途中倒木をくぐります)を通っていくと尾根に出て、南西に行くとすぐに広い主郭です
2014年12月15日 にゃにゃーにょ豊後守
立石陣屋
立石領は、木下家5千石の知行地なのじゃ。
《日出藩3万石から5千石を分知され、旗本交代寄合となる》
日豊本線立石駅の西側、立石郵便局斜め向かいの空地となっておる中学校跡が陣屋跡なのじゃ。
しかし廃校となった「北部中学校跡地」と彫られた立派な石碑はあるのじゃが、立石陣屋の遺構は…なにも無いのう。
☆立石駅から国道を越えた北方に、木下家菩提寺の長流寺があるぞい。
そこには『立石領主墓石群』があり、六代俊昌・七代俊直・九代俊芳・十代俊国らの巨大な墓石が建ち並んでおるのじゃ。
★実は…初代領主・木下延由が、豊臣秀頼の遺児『国松』だったのかもしれぬのじゃッ!
領地を分知する際、日出初代藩主・木下延俊(秀吉の正室北政所の甥)が遺言で四男の延由に1万石を分知するようにと言い残したのじゃ。
が!わずか3万石の小藩が四男へ1万石をも分知するなど当時の常識では考えられぬのじゃ。
しかし日出藩の将来を心配した家老が遺命を破り5千石に変え、のちに切腹…と云う逸話があったのじゃが『豊臣国松』だったのならば、なるほどと云う話じゃ。
さて、どうかのう?