吉広城(よしひろじょう)
吉広城の基本情報
通称・別名
- 吉弘城
所在地
- 大分県国東市武蔵町吉広
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 吉弘正堅
築城年
- 建武年間(1334〜1338)
主な改修者
- -
主な城主
- 吉弘氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)、切岸
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
安岐城(大分県国東市)[8.0km]
沓掛城(大分県杵築市)[9.9km]
富来城(大分県国東市)[10.3km]
杵築城(大分県杵築市)[11.9km]
岐部城(大分県国東市)[16.6km]
佐野鞍懸城(大分県豊後高田市)[18.0km]
真玉城(大分県豊後高田市)[20.0km]
日出城(大分県速見郡)[20.8km]
高田城(大分県豊後高田市)[21.3km]
佐田城(大分県宇佐市)[25.4km]
吉広城の解説文
吉広城の口コミ情報
2024年07月14日 mootze
吉広城
大分空港から車で20分県道には、案内板があります県道脇には、吉弘氏館跡、でも遺構ははっきりわかりません、看板どおりに、林道を進むと本丸近くの駐車場まで行けます、小高い所が、主郭で、堀切、曲輪、堀切が何となくわかると思います チョット物足りなさを感じるのは、舗装道路ができて、昔の面影がわからないから?なんて、思ってます
2022年04月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
吉弘氏館[吉広城 周辺城郭]
吉広城に向かう途中で偶然見つけました。館跡は一部畑地となっていました。この館跡の北側には民家がありました。小さな看板が館跡であることを示していましたが、正確な館域はよく分かりませんでした。駐車場はありません。
2022年04月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
駐車場[吉広城 駐車場]
軽自動車なら20台近くは停めれそうでした。
2022年04月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
吉広城
高橋紹運や立花宗茂、そして吉弘統幸を輩出した忠臣で有名な吉弘氏が屋山城や筧城に移るまでここを本城としていました。吉弘氏は大友田原氏の庶流で初代吉弘正堅が築城したとありました。
主郭部と思われる城山の頂上まで車で登れますが、比較的道が狭いのでお気をつけください。駐車場は軽自動車だと20台近く停めれそうな感じでした。
説明板の地図にもありましたが麓に吉弘氏館があるので居城ではなく詰城として用いていたと思われます。今回は城域全体を観て廻れた訳ではないのですが、それほど多くの軍勢を駐屯させれそうにない感じでした。
2022年03月10日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
中ノ川城[吉広城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、山浦川の支流が狭い渓谷となる所、周囲に堀が築かれ、山頂平坦な山が城跡で、弘安の頃、朝来浦十町の地頭職朝来野公平・公継の城跡として紹介されていました。
付近に一族の墓らしき十四基もの国東塔・五輪塔があるようです。
2016年02月01日 にゃにゃーにょ豊後守
吉広城
武門の誉れ高い『吉弘氏』発祥の城
吉広城は、県道55号両子山武蔵線沿いにある案内板から対向車とすれ違えない曲がりくねる山道を進めば、主郭の駐車場へ無事到着するはずじゃ。
駐車場に解説板あり、目前の主郭の上では「吉弘城址」の石碑がお主らを待っておるぞ!
景色は見渡す限り山じゃのう。
城址は小規模な単郭の山城で、主郭の周囲を切岸と横堀が廻っておるようじゃ。
他に城と麓の館跡とを結ぶ通路跡もあるそうじゃから、藪を物ともしない猛者共は突入してみてはどうかのう?
☆楽庭八幡社(吉弘楽)
県道を走れば吉広城への案内板より先に目に留まるであろう、吉弘氏初代の正堅が創建した神社なのじゃ。
境内には「吉弘氏発祥之地」の石碑や二代目吉弘杉などがあり、拝殿では正堅公・統幸公の肖像画が見守っておるぞい。
またここでは、戦国時代風の出で立ちで勇壮な太鼓踊りをする『吉弘楽』(国指定重要無形民俗文化財)が南北朝時代から行われておるそうじゃ。
毎年七月第四日曜日に開催、見に行きたいのう♪
☆神社のほど近くに吉弘氏の菩提寺であった永泰寺や、吉弘氏七代の墓などもあるぞい。
立地
国東半島東岸に注ぐ武蔵川の支流、吉広川の沖積地から比高差110mほどの丘陵上に立地する。標高は185.5mで、南側から伸びてきた丘陵の先端部に位置するが、丘陵が比較的なだらかなため、北側にある沖積地を見下ろすことはできない。沖積地には、国選択無形民俗文化財に指定されている「吉広楽」で有名な楽庭八幡社がある。
現状
雑木林であったが、平成12年度に町が史跡整備として、樹木の伐採と植樹、駐車場の整備を行った。そのため、南側から伸びてきた丘陵と、城郭との接点の部分が若干破壊されたが、全体的な残存状況は良好である。ただし、調査時点で伐採した樹木が城域に放置されていたため、地表面観察が不十分な場所がある。
構造
標高185.5mの最高所に、削平が不十分な8×10mほどの平坦地を作り、そこからひな壇状に帯曲輪を巡らせる。南側は丘陵の鞍部を掘切り、そこから東西に横堀状の帯曲輪(一部横堀)が伸びる。北側は幅広の舌状丘陵基部を横堀で遮断し、外側には幅3~4mの土塁を盛る。横堀は南東部で屈曲し、そこに小さな曲輪を形成し、その上部(西側)には土塁を半周させる武者溜まり状の曲輪を持つ。ここは北側から丘陵を登ってきた道(城道か?)と接続するところでもあり、虎口であることを想定させる。
全体的に見ると、外周部と虎口の丁寧さに比べ、曲輪は削平が十分でなく、臨戦的な立て籠もるべき城として作られたことがわかる。
なお、城道と想定される道を下ると、伝吉広氏館跡に至る(未確認)。
歴史
同時代文書に記載は無いが、武蔵田原吉広氏の城郭といわれる。吉広氏は田原別符を名字の地とする田原氏(大友一族)が国東郷を手に入れ、後、南北朝期に一族が武蔵郷吉広を所有し吉広氏を名乗ったものである。城郭の構造からすると、最終的には戦国末期にまで下るものであろう。
参考文献
・『大分の中世城館』第四集総論編(大分県教育委員会)2004年