高田城(たかだじょう)

高田城の基本情報

通称・別名

豊後高田城、柴崎城、(豊州陣屋)

所在地

大分県豊後高田市玉津字本丸

旧国名

豊後国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

高田重定

築城年

建久7年(1196)

主な改修者

竹中重利

主な城主

高田氏、竹中氏、松平氏

廃城年

正保2年(1645)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

真玉城(大分県豊後高田市)[5.4km]
立石陣屋(大分県杵築市)[9.3km]
沓掛城(大分県杵築市)[12.4km]
時枝城(大分県宇佐市)[12.5km]
光岡城(大分県宇佐市)[16.1km]
龍王城(大分県宇佐市)[17.9km]
岐部城(大分県国東市)[20.3km]
吉広城(大分県国東市)[21.3km]
大畑城(大分県中津市)[21.4km]
日出城(大分県速見郡)[23.3km]

高田城の解説文



高田城(たかだじょう)は、現在の大分県豊後高田市玉津字本丸(旧国豊後国)にあった城である。豊後高田城、柴崎城とも呼ばれる。

概要 

鎌倉時代に高田氏が桂川右岸の台地に築いた平山城である。代々、大友氏家臣の高田氏の居城であった。

安土桃山時代に竹中氏が改修、江戸時代には豊後府内に移封された竹中氏に代わって3万2,000石で松平氏が移封されたが、1645年に松平氏が転封された後は廃城とされ、1669年に松平氏島原領の飛び地となり島原領豊州陣屋が置かれた。

歴史 

建久7年(1196年)に、大友能直に伴って豊後に下向した高田重定によって築かれたとされる。ただし、実際に大友氏が豊後に下向したのは3代大友頼泰の時代と考えられており、高田重定による築城という説にも疑問が呈されている。

大友氏が改易された後の文禄2年(1593年)に、竹中重利が封じられ、城を拡張した。その後高田城は、細川氏の城となる。石垣が現存しないことを理由に細川時代の高田城を別の場所に比定する向きもあるが、高田城は元和の一国一城令によって破却されており、その石垣が干拓など他の目的に転用された可能性も否定できない。寛永16年(1639年)には、松平重直が豊前国龍王(宇佐市安心院町)の陣屋から移って、この城を増修築して居城とし、高田藩が成立する。

重直が正保2年(1645年)に豊後木付に転封となると、この城は廃城とされたが、寛文9年(1669年)に肥前島原に入封した松平忠房が、豊前・豊後の飛地支配のため、旧本丸に豊州陣屋を設けた。

江戸中後期のものと推定される「豊後国高田芝崎絵図」には、「古城/本丸/二丸/三丸」と記され、かつてこの地に城郭が営まれ、その本丸、二ノ丸、三ノ丸と伝承される地域があったことが分かる。本丸部分には「此坪数六千九百八十八坪/八十三間四尺四方也」、二ノ丸部分に「此坪数三万三千五百五十坪/百五十三間三尺四方」、本丸土手部分に「土居高三間高下」、二ノ丸土手部分に「土手三間少高下有」、堀部分に「よこ(横=幅)十間/深三間」、三ノ丸部分に「本丸、二丸、三丸地形平」と注記される。また、高田川に「此川幅七十四間/舩懸深五尺、塩道七八尺ニ成」とある。なお、近世の1間は藩によって6尺から6尺5寸まで様々であったが、そのうちどれが豊後高田領において使われていたか、詳らかでない。

堀・土塁は近世中後期までよく残存しており、現在でも豊後高田市立桂陽小学校付近など数か所にその遺構をみることができる。

参考文献 

  • 豊後高田市編『豊後高田市史』(豊後高田市、1998年)
  • 常盤歴史資料館蔵「豊後国高田芝崎絵図」(前掲『豊後高田市史』口絵写真)
  • 木島孝之『城郭の縄張り構造と大名権力』(九州大学出版会、2001年)
  • 福永素久「慶長期豊前における細川氏の城郭政策と端城普請 ~豊後国高田城普請を中心に~」『大分縣地方史』(大分地方史研究会、2006年)
  • 豊後高田市役所蔵「字図」
  • 豊後高田市編『1:2500地形図』豊後高田市(50)(豊後高田市、2007年)
  • 西田 博「附 高田城について」『西田家記 ~高田・富岡に祗役した島原藩士四代の記録ほか~』(2013年)
  • 米軍撮影空中写真(コース番号M271、写真番号12、1947年撮影)
  • http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=33.56485350&lon=131.44219459&ac=44209&az=18&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=大分県豊後高田市玉津

高田城の口コミ情報

2023年03月09日 RED副将軍✳️
佐野鞍懸城[高田城  周辺城郭]



圧倒的な廃城感を堪能できる九州の名城🏯

オススメ度 ★★★★★

佐野鞍懸城(さのくらかけじょう)と読みます。

築城年代は不詳。国東半島を支配していた田原氏の最後の居城。
田原氏は、大友氏の一族ですが本家の大友氏とは幾度も対立。
1580年、当主の田原親宏が没すると、大友宗麟は次男の大友親家を田原氏の家督を継がせようと画策します。しかし、養子となっていた田原親貫は毛利氏の援軍を得て家督争いとなりました。これが謂わゆる田原親貫の乱です。
田原親貫は大友氏と戦うも苦戦し、本拠地であった安岐城は落城。西国東へと落ち延びました。
その後、田原親貫は再起を図るために田原氏重臣であった如法寺親並の援助を得て改修したのが、この佐野鞍懸城と奥畑鞍懸城です。
佐野鞍懸城は石垣造りの要塞、奥畑鞍懸城は耶馬山系の険しい要害を利用した要塞でした。
田原親貫は近隣の長野氏、城井氏、野中氏らに援軍を要請していましたが大友氏に計画が露見。大友氏は大規模な包囲網を築いて援軍の侵入路を遮断し田原氏は孤立しました。
堅固な要塞であった鞍懸城も遂に落城し田原親貫も討死。田原氏は滅亡しました。

見所
主郭と主郭を取り囲む二郭から構成される小規模な縄張りですが、豊富に石が採れる岩山であり総石垣造りの城郭です。
主郭は南方に長く西側に虎口が開口。
二郭北側には土橋の架かる堀切もあります。
崩落している部分も多いですが手付かずの山中に石垣遺構がそのまま残存し国内屈指の廃城感が味わえます。

行き方は、城域北東部に墓地に続く林道が走っており、林道を入って間もなくすると主郭へ続くピンクリボンが右手に目に付きます。ピンクリボンを辿ればものの10分程度で辿り着きます。
車は奥の墓地に駐車できます。

2023年02月23日 RED副将軍✳️
佐野鞍懸城 登城口[高田城  その他]



新しい登城口が付いています。ピンクリボンが10m以下の間隔で続いており迷うことはありません。ヤブや倒木も無いので10分くらいで辿り着きます。

2022年10月16日 気分爽快信濃守
高田城



内堀は小学校の敷地内なので、道沿いの民家の庭先からチラ見となります。
外堀は広大ですが、外側をめぐるので、同じような景色が連続しています。
宅地化が進んでしまったので、撮影した写真は先達の方々と同じようなものになってしまいました。

2022年04月06日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
殿屋敷館[高田城  周辺城郭]



館跡は全体的に太陽光になっていますが、そこは高台のようになっており、廻りを土塁で囲んでいたようにも見えました。しかしどこまでが名残なのかは分かりませんでした。
ただ道を挟んだ向かい側に空堀のように見える所がありました。

2022年03月16日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
堀城遺跡[高田城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、水堀が巡ること、また詳細な場所は分かりませんがこの堀城遺跡の北側に高山田遺跡というのがあるらしく、そこで中世の堀立て柱建物跡が出土していることが記載されていましたが、歴史等については記されてませんでした。

現在は幼稚園が建ってますが、その立地を観ると確かに堀らしき跡が巡っています。
周辺の城郭との位置関係を見ると、奥畑鞍懸城や佐野鞍懸城を詰城とした城館跡というよりも居館跡なのではないかと推察します。
立地からして、立て籠っても数十分しか持ち堪えれそうにないので、主に居館として用いたのではないかと思いました。

2022年03月16日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
西村遺跡[高田城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、発掘調査によって25棟以上の建物跡が確認されていることが記載されていました。
土塁のような跡がありましたが、住宅になっている所も多くよく分かりませんでした。

2022年03月16日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
来縄割掛遺跡[高田城  周辺城郭]



「大分の中世城館」には、発掘調査によって12世紀と15~16世紀の屋敷(館)跡確認とありました。
現地の説明板には土塁や堀も発見されていることが記載されていました。少し高台になっているところに弥生時代の竪穴式住居跡や石棺跡がありますが、これは土塁の名残なのでしょうか。

少ないですが駐車場も完備されています。
中世の城館跡というより弥生時代の遺跡として整備されています。

2022年03月15日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
古城遺跡[高田城  周辺城郭]



「大分の中世城館」には、地図上に位置情報は載せられていますが、詳細については記載されていませんでした。
それでもこの地区が「古城」と呼ばれていることからすると(老人憩の家の写真参照)城があったのはほぼ間違いないのではないかと思います。

現在は神社となっていますが、ここが主郭だったのではないかと思われます。また現在の立地状況を観ると、どちらかというと城というよりも館として利用されていたのではないかと感じました。
また何を比較対象にして古城と呼んでいたのかも気になりますが、今のところよく分かりません。

2021年12月19日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
佐野鞍懸城[高田城  周辺城郭]



この佐野鞍懸城、3000城には登録されてませんので、豊後の高田城のリア攻めマップから探すという一手間、二手間が必要ですが、中々の名城です。
この城への登城方法、歴史については昌幸近江守野面積み♡さまの口コミを参照して頂ければ幸いですm(_ _)m

大友氏からの攻撃を8ヶ月ほど耐え抜いくという実戦を経験した総石垣の城です。

但し、整備されてません。本丸までの道のりは木に括りつけられたピンクリボンが目印となります。
なので攻城時も帰陣時も、この城跡がある鞍懸山と自分の位置関係を把握することは怠らないようにお気をつけください。往復だけなら40分掛からないと思います。

整備されていないので傾斜もそれなりにキツく切岸として立ちはだかっていますし、倒木や竹藪等が逆茂木としての機能を発揮していますので、リア攻めとしての貴重な経験が出来ます。

そうした経験をした中での本丸にある石垣のお出迎えは達成感や感動を与えてくれると思います。

ちなみにこの佐野鞍懸城は、近くにある奥畑鞍懸城と連携して大友氏と対峙し、後詰めを得ることが出来なかったにも関わらず8ヶ月耐え抜いていますので、そちらにも行ってみたいと思っています。

お勧めの城です。

2021年10月22日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
船繋ぎ石[高田城  寺社・史跡]



宇佐八幡宮神託事件で有名な和気清麻呂が宇佐八幡宮に赴く際に船を繋いだ石だそうです。
もっと大きいものを想像していたので、思ってた以上に小さくて驚きました。
ただ確かに近くに寄藻川が流れていますが、この繋ぎ石の周辺は現在田園だったので船繋ぎ石?という感じでした。ひょっとしたら川を埋め立てて田圃にしたのかもしれません。

専用の駐車場はありませんでしたが、周囲の交通量もほとんどないので見学する少しの間なら路上駐車しても良いかもしれません。でもやはり近くにある神社の駐車場が無難だと思います。

ちなみにこの周囲の地名が和気というのは興味深いですし、和気城もあるので、左遷されたという和気清麻呂かその子孫が移り住んだのかもしれませんし、和気清麻呂が船を繋いだ縁の地という事で地名になったのかもしれません。

2021年07月30日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
橋津城[高田城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、城名の通り橋津氏が居城としていたようです。

「日本城郭大系」では、応永年間、橋津掃部助実度が大内氏に属していたようです。
大友氏の宇佐・下毛郡制圧によって大友氏に降ったようですが、大友氏が日向耳川の合戦で島津に敗退すると、時枝氏らと大友氏に叛いたので、田原紹忍に攻められたとありました。
天正17年、黒田氏に城地を没収され、その後、代々庄屋となったそうです。


現在城跡には、宇佐中学校や宅地、また畑地等になっています。
特に宇佐中学校は高台にあり切岸によって防備が施されているように感じました。
段々畑もありましたがこれは曲輪の名残でしょうか。

城跡の近くに神社があり、そこには橋津城やこの地域の歴史について簡単に載せられていました。
弥生時代から人が住んでいる地域で、戦国期には城名になっているように橋津氏の居城であり、橋津を中心に十七ヶ村に影響を与える存在だったようです。

2021年07月28日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
奥畑鞍懸城[高田城  周辺城郭]



「大分の中世城館」によると、文書上の名称は鞍懸城と記載されているようで、南北朝期の鞍懸城はこの奥畑鞍懸城のことである可能性が高いようです。
その判断の理由の1つが、文書上では佐野鞍懸城は鞍懸塁、鞍懸塞、鞍懸要害、くらかけの城と記載されているからだと思います。
遺構の状況としては、山頂部に堀切、切岸があるようです。また上下2段の郭を3条の堀切と1条の堀切で画するとあり、郭は狭く、切岸で形成していて、上部はほぼ平坦と紹介していました。

2021年06月21日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
長洲城[高田城  周辺城郭]



学校の正門付近に長洲地区の史跡を紹介する説明板があり、その説明では現在小学校があるところと道を挟んだ向かい側にある印刷所(会社)に城があったようですので、それなりの大きさの城だったようです。それで現在の地形は城跡を削って道を敷設したことが分かります。
また小学校の正門の階段ではなく坂を登った右手に立派な城址石碑がありました。

小学校の正門から見て裏手には妙見池公園なるものがありますが、説明板の記載から推測するとこちら側が登城口、虎口だった可能性があります。
またその公園に切岸、土塁、空堀、水濠の名残と思えるものがありました。
さらに公園の名称から妙見嶽城(光岡城の周辺城郭)との関連が有るのか無いのかと妄想するのは楽しい一時でした。

大友氏に属して大内氏に抵抗したようですが、この地は海の対岸が山口県なので、大友氏にとってある程度重要な拠点だったかもしれません。

2021年06月14日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
高田城



役場で無料で配布している豊後高田市教育委員会監修の「豊後高田の城跡」には、高田城の縄張り図が記載されていますが、実際は大きな城だったようです。

現在の桂陽小学校が本丸跡で、中央公民館が陣屋跡で高田中学校が三ノ丸のようです。本丸やそこから少し離れた場所に遺構としての水濠がしっかりと残っています。

本丸近くに残っている石垣ですが、説明板には高田城の石垣とありましたが、「豊後高田の城跡」には陣屋時代の石垣として紹介されていました。

駐車場は中央公民館のものを利用出来ます。またその中央公民館の目の前には俳優の石丸謙二郎さんのお兄さんがしている蕎麦屋「響」もありますので、城跡周辺を散策して蕎麦を食べ、その後は戦国・江戸時代からタイムスリップして桂川を挟んで対岸にある昭和の町を散策してみるのも良いかもしれません。

2021年05月03日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
知恩寺西城[高田城  周辺城郭]

豊後高田市教育委員会発行の「豊後高田の城跡」によると、西城地区には櫓台状の突出部を持つほか、周辺部の埋没した掘や寺屋敷地区でも堀と土塁が確認できることから丘陵一帯が防御されるべき地域として認識されていたとありました。
大友一族の小田原氏による城と考えられていて、知恩寺の院主も鎌倉時代から小田原氏が兼ねていたそうです。

2021年04月30日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
長洲城[高田城  周辺城郭]

「豊前国戦国事典」よると、城跡は城が峰と称され、宇佐市立長洲小学校敷地一帯の高台に立地したと伝えられているそうです。
応永5(1398)年、城主長洲吉綱は大友氏鑑に属し、英彦山南麓で大内盛見と戦い、敗れて滅亡したとありました。

2021年04月30日 昌幸近江守佐竹深掘りツアー
佐野鞍懸城[高田城  周辺城郭]



標識や案内板がない佐野鞍懸城。登城の参考になればと、案内させて頂きます。

県道34号(豊後高田安岐線)「地域総合支援センターどんぐり河内」の交差点を曲がる → 左手に防火水槽が見えたら、右手の白いアスファルトの舗装道を登る → 登り切ると地域の墓地に着く。そこに駐車可能 → 道を下り最初のカーブにある左側の堀底道へ入っていく【写真①】 → 100㍍進み、右の山が城跡、入口にピンクリボンがついている【写真②】 → 斜面を登る。最初は倒竹だがすぐ開けてくる。ピンクリボンを頼りに真っ直ぐ登る。【写真③】 → 5分程登ると平地にでる。次は右へ【写真④】 → 5分程歩くとピンクリボンが密集してくる【写真⑤】これで城跡到着。

2021年04月23日 【❃】源九郎豊前守牛若丸
和気城[高田城  周辺城郭]



「豊前国戦国事典」によると、全長50mと小規模で、農村集落と密接な位置関係にある土塁を巡らせた城郭だったようです。

城跡の一部は墓地として整備されていましたが、その場所と竹藪に覆われた主郭があると思われる場所の間に深い堀切と思えるものが見えました。

またこの城跡の南側に橋津城があり、橋津氏は和気の地域にも影響力があったようなので、ひょっとしたらここは橋津城の出丸的な存在の砦として用いられていたのかもしれません。

興味深い事にこの近くには宇佐八幡宮神託事件と関係の深い和気清麻呂の船つなぎ石というものがあり、清麻呂が宇佐神宮に赴く際に利用した船を繋いだ地とされていますので、交通の要衝として防備を固める目的で橋津城の附城として築城されていたのかもしれません。

2021年04月21日 昌幸近江守佐竹深掘りツアー
佐野鞍懸城[高田城  周辺城郭]



佐野鞍懸(さのくらかけ)城は地元で鞍懸山と呼ばれる標高100mほどの小山に築かれた城です。この城は国東半島に勢力を誇っていた田原氏の城でした。1580年(天正8年)に田原氏は主君大友宗麟に反旗を翻し(田原親貫の乱)佐野鞍懸城はその主戦場となり、実に8ヶ月にもわたって籠城し激しい戦いが繰り広げられたとのことです。

遺構は南北に長い尾根の頂上部に築かれ、北側の大きな堀切と中央部に設けられた土橋を渡ると、この城の特徴である石垣にぶつかります。最大3mの高さを持つ高石垣もあります。

佐野地域で採れる自然石は薄く割れる性質で、レンガのように上手に積み重ねて高い石垣を築いています。これは在地石工の石積み技術を導入したものと思われます。それに1587年(天正15年)の豊臣秀吉による九州攻め以降、総石垣の城郭技術が広まり、融合された城なのではないでしょうか。

山中を歩いていると、突然現れる石垣に出会った時の感動は何とも言えません。城域もコンパクトで見学しやすいです。『濃密な石造りの廃城』を味わってみませんか?

【写真の説明】
①石の衝立で囲まれた土橋。奥に石垣が見える。
②巨石の上に積まれた石。
③主郭虎口。
④主郭の石垣。
⑤ニ郭の石垣。
⑥石垣隅部。ここは豊臣の九州攻め以降の技術と思われる。
⑦石垣隅部と合わせて横矢懸があったようだが破却されている。
⑧城へと続く謎の列石。

2017年03月22日 カーネル
高田城

日豊線宇佐駅から

アプリを起動すると本丸まで、4.5kmでまぁまぁ遠い
城は駅の北東だけど改札は西口なので、400mほど北上してから右折して国道213号に入り北西へ、見晴らしがよく広い歩道を快適に歩く
道は緩やかに下ってから登ったり、市街地では一部歩道がない不条理もありましたが、50分ほどで国道は緩やかに左に、直進は生活道路の分岐で直進すると、昭和の町展示館を通ります

ここの街並みは古い建物があったりして、見てるだけでも楽しいです
街並みを抜けて、桂川にかかる桂橋を渡り桂陽小学校の南東に着き、ここには階段があり、城跡の石垣という説明があります

時計回りに小学校の回りを歩きます
水堀があるということで、スマホの地図を拡大すると小学校の敷地内に水マーク。敷地内に水堀か?と思い、外から見たらプールでした
本物の水堀は小学校の北側にあります。小学校の塀も城っぽい飾りになってて、いい雰囲気でした
帰りは中央公園西側にあるバスターミナルから宇佐駅行のバスに乗る。1時間歩いたのがバスは7分だった
宇佐駅に戻り、宇佐神宮へのバスに乗り換えて参拝しました


2016年05月14日 くーちゃん加賀守
高田城

城の道向かいには、あの世界の車窓からのナレーションで有名な石丸謙二郎さんのお兄さんがやっているお蕎麦屋さんがあります。

2016年05月01日 にゃにゃーにょ豊後守
高田城

大分県北部の豊前国/豊後国の境界に位置する豊後高田市。
そこの市内を流れる桂川河口北側の丘陵に、大友氏に仕えた高田氏が城を築いたと云われておるのじゃ。

竹中氏が城主の頃に石垣など築き城も大きくし、その後あれやこれやあり島原藩の飛び地となった時(豊州陣屋、二万七千石)に石段は整備されたらしいのう。

本丸跡は桂陽小学校と中央公民館になり、小学校の北東側に¬の形で内堀が水を湛え、さらに北東方面に外堀と土塁が¬字状で残っておるのじゃ。
南西の桂川&周防灘側は断崖となっておるぞい。

公民館に駐車場があり、その東方に高田城標柱や石垣・石段・説明板などがあるのじゃ。
なお島原領と延岡領の境石が小学校正門内に移設されておるぞい。


☆『昭和の町』
昭和30年代のレトロな街並みを再現した商店街なのじゃ。高田城に来たのなら此所の散策もおすすめじゃぞ!
週末を中心に、ボンネットバスが町を周遊しておるぞい(無料)

☆宇佐駅からのバスが発着する「豊後高田バスターミナル」は昔、宇佐参宮鉄道の終着駅で現在もバス乗場(旧頭端式ホーム)などに駅の名残があり興味深いのじゃ♪


高田城の周辺スポット情報

 高田陣屋の石段(遺構・復元物)

 石垣跡(遺構・復元物)

 三ノ丸跡(遺構・復元物)

 二ノ丸北外水濠(遺構・復元物)

 二ノ丸北外水濠(遺構・復元物)

 二ノ丸東外水濠(遺構・復元物)

 本丸北内水濠(遺構・復元物)

 従是東南島原領碑(碑・説明板)

 佐野鞍懸城(周辺城郭)

 奥畑鞍懸城(周辺城郭)

 和気城(周辺城郭)

 長洲城(周辺城郭)

 知恩寺西城(周辺城郭)

 橋津城(周辺城郭)

 古城遺跡(周辺城郭)

 堀城遺跡(周辺城郭)

 来縄割掛遺跡(周辺城郭)

 西村遺跡(周辺城郭)

 殿屋敷館(周辺城郭)

 涵養舎跡(私塾)(寺社・史跡)

 船繋ぎ石(寺社・史跡)

 佐野鞍懸城 登城口(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore