内城(うちじょう)
内城の基本情報
通称・別名
- 御内、水上城、大龍寺城
所在地
- 鹿児島県鹿児島市大龍町(大龍小学校)
旧国名
- 薩摩国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 島津貴久
築城年
- 天文19年(1550)
主な改修者
- -
主な城主
- 島津氏
廃城年
- 慶長7年(1602)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
東福寺城(鹿児島県鹿児島市)[0.9km]
清水城(鹿児島県鹿児島市)[1.1km]
鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)[1.1km]
横山城(鹿児島県鹿児島市)[4.0km]
川上城(鹿児島県鹿児島市)[4.9km]
比志島城(鹿児島県鹿児島市)[7.8km]
小山田城(鹿児島県鹿児島市)[8.9km]
川口城(鹿児島県鹿児島市)[8.9km]
千々輪城(鹿児島県鹿児島市)[11.2km]
岩剣城(鹿児島県姶良市)[11.6km]
内城の解説文
[引用元:Wikipedia「内城」の項目]
内城(うちじょう)は、鹿児島県鹿児島市大竜町にあった島津氏の日本の城。
概要
天文19年(1550年)、島津貴久はそれまで島津本宗家が使用していた清水城が手狭になったため、海岸に近い場所に居城を移した。これが内城である。後詰めの城として平安時代末期から続いていた東福寺城があり、内城自体は簡単な屋形作りの平城であったと思われる。その後、島津義久が在城し文禄4年(1595年)まで住んでいたが、豊臣秀吉の圧力のため、富隈城に移転した。その後この城は島津忠恒の居城となったが、忠恒は朝鮮出兵で国元にはおらず、ほとんどこの城を使うことはなかったと思われる。
慶長7年(1602年)、忠恒の命により島津氏の本城は鹿児島城に移り、内城跡には島津貴久と義久の菩提寺である大龍寺が建てられ、南浦文之が開山となった。ちなみに「大龍」の名前は貴久と義久の戒名から取られた物である。そして、明治2年の廃仏毀釈により大龍寺は廃寺となり、跡地は大龍小学校となった。もちろん城郭としての遺構は完全に破壊されて残っていないが、校庭に内城時代からのものとされる手水鉢及び庭石が僅かに残存している[1][2][3]。
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内城の口コミ情報
2023年05月06日 かずにい
内城
戦後の城址らしく小学校になっていた。近くに篤姫誕生地である今和泉島津家本邸跡があるが、一般の民家になっているので、そこの中に入るには勇気がいる。
2023年03月28日 龍造寺日向守シュン
内城
現在、小学校になっていますが史跡も残っていました。
2022年09月21日 RED副将軍
内城
鶴丸城(鹿児島城)の前身の島津氏本拠地跡🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1550年に島津貴久により築城。
島津氏14代当主の島津勝久は、一族の内紛や当主の急逝により島津宗家が弱体化していたことから、一族で勢力を拡大していた伊作島津氏の島津忠良の嫡男である島津貴久を島津宗家の養子に迎え入れ家督を相続しました。
薩摩を統一した15代島津貴久は、それまでの島津宗家の本拠地であった清水城は手狭であったため新たに内城を築き一宇治城から移りました。
内城は居城で、詰め城として東福寺城も築きました。
島津氏は九州北部まで勢力を伸ばすも、1587年に豊臣秀吉による九州征伐に屈して降伏。
1602年、島津家久が鶴丸城(鹿児島城)を築いて移ると、跡地には島津貴久と義久の菩提寺である大龍寺が建立されました。
しかし1869年、廃仏毀釈により大龍寺は廃寺となりました。
見所
現在は、大龍小学校の敷地となり、島津氏菩提寺であった大龍寺跡の碑が残ります。
大龍は島津義久、島津貴久の戒名によるものです。
城郭遺構は微塵もありませんが、島津氏を知る上で訪れてみました。
2022年05月20日 薩摩安房守義弘維新斎
内城
島津氏の居城であった内城址,JR鹿児島駅から平坦地を徒歩約15分で攻略できます。島津氏が鶴丸城を築城する前の居城であった内城は、今は大龍小学校となっており、特に遺構が現存していません。僅かに手水鉢及び庭石が残存しているようですが、校内にあるため確認取れず。この近くには、今和泉島津氏の屋敷跡があります。
2021年05月16日 萌魏太閤叡声
内城
大龍小学校が跡地だが、特に内城跡を示す標が外からは見当たらなかった。あったのは、江戸初期の儒僧文之和尚の記念碑と卒業生のノーベル物理学賞の赤﨑勇先生の幟。
2017年04月28日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
内城
鹿児島中央駅の東4バス停から
鹿児島交通のまち巡りバスに乗り、
南洲公園入口で下車。
たまたまバス停に内城・今和泉島津・重富島津等
屋敷などの地図入り説明板があり、
内城を訪ねてきました。
内城跡はバス停からすぐ東の大龍小学校となっており、
校庭内に内城跡の石碑や灯籠があるそうですが、
授業中に呼び立て入るのもと思い止まり、
周囲を散策してきました。
小学校南側には、大龍寺跡の石碑があり、
由来など書かれていて、敷地内に当時の石製水道管が無造作に置かれてました。
そこを基点に、
東隣に鹿児島県民教育文化研究所があり、
そこは一門四家の重富島津家屋敷跡で、
周囲の石垣は市の文化財になってるそうです。
西隣は同じく四家で篤姫実家・今和泉島津家屋敷跡で、
バス停があります。
こちら石塀も当時のものらしいですが、
今は監視カメラ付き民家のため立ち入れません。
南向には砲術所跡の石碑があります。
城跡の痕跡はありませんが、
廃城後も大龍寺や四家の屋敷など地位の高い地域が
継続されたんを感じ取れました。
2010年06月08日 ️
内城
鹿児島市立大龍小学校が城跡です。
完全破壊と断言できるほど遺構は遺っていませんが、校庭に建てられた画像の標柱を目の当たりにすると、戦国九州を席巻した島津氏本拠の在りし日の姿がおぼろ気ながら脳裏に浮かんでくるようです(^^ゞ