東福寺城(とうふくじじょう)
東福寺城の基本情報
通称・別名
- 長谷場城
所在地
- 鹿児島県鹿児島市清水町田之浦(多賀山公園)
旧国名
- 薩摩国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 長谷場永純
築城年
- 天喜元年(1053)
主な改修者
- -
主な城主
- 長谷場氏、島津氏
廃城年
- 慶長7年(1602)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
清水城(鹿児島県鹿児島市)[0.8km]
内城(鹿児島県鹿児島市)[0.9km]
鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)[2.0km]
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千々輪城(鹿児島県鹿児島市)[11.9km]
東福寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「東福寺城」の項目]
東福寺城(とうふくじじょう)は、鹿児島県鹿児島市清水町(薩摩国鹿児島郡清水馬場町)にあった日本の城(山城)。平安時代に築城され江戸時代の初期に廃城となった。
現在は多賀山公園として整備されている。
沿革
築城
天喜元年(1053年)、藤原純友の4代後の末裔を自称する長谷場永純が薩摩国に落ち延び築城したとされる。薩摩国、大隅国、日向国では初めての城とされている。
その後の推移の詳細は不明であるが、鎌倉時代には国人の一人である矢上氏の居城となっていた。
南北朝の動乱
南北朝時代の動乱は、辺境である薩摩国も巻き込み、薩摩国守護であった島津氏は北朝側、矢上氏は南朝側に立っていた。島津氏は当初薩摩国国府に近い出水を拠点としていたが、やがて薩摩国、大隅国双方ににらみの利く鹿児島に拠点を移そうとした。そこで問題となったのが、南朝側の矢上氏が鹿児島の重要地点・東福寺城に陣取っていたことであった。当時矢上氏は一族の中村高純に東福寺城を守らせていた。
暦応3年(1340年)島津貞久は弟の佐多忠光に東福寺城を攻めさせる。南朝側に立っていた肝付兼重は救援のため高山城から駆けつけ、島津勢を撃退した。
暦応4年(1341年)、島津貞久は再び東福寺城を攻略する。双方に多数の死者が出たと言われるこの合戦で遂に東福寺城は落城し、これ以後島津氏の拠点となった。
室町時代
東福寺城自体は山城のため、島津氏は平地に清水城を築いて居館とし、東福寺城はいざというときのための「後詰めの城」となった。その後、島津貴久は居館を内城に移したが、東福寺城の役割に代わりはなかった。
天正7年(1579年)に当時の島津氏当主であった島津義久は近江国から多賀大社を城内に勧請して多賀神社を作った。この時からこの地は「多賀山」と言われるようになる。
東福寺城の終焉
島津忠恒は慶長7年(1602年)に居城を現在の鹿児島城に移す。この時、後詰めの城も鹿児島城の背後にある城山に移り、東福寺城は廃城となった。
現状
現在跡地は多賀山公園となり、「東福寺城跡地」を示す石碑と東郷平八郎の銅像が建っている。
曲輪の形状がよく残っているとされるが、公園としての整備も進んでいるため素人目には中世山城の面影を偲ぶのは難しい。
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東福寺城の口コミ情報
2023年10月16日 RED副将軍
東福寺城
島津氏の初期の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1053年に長谷場永純により築かれたとされます。長谷場永純は藤原純友の末裔であり4代目にあたると称しました。そして日向・薩摩・大隅の三州で初めての城であったとされています。その後、土着し長谷場氏の居城となっていた様です。
鎌倉時代には長谷場氏な一族で鹿児島郡司であった矢上氏の居城となっていました。
南北朝時代には矢上氏など、長谷場、中村、上山、谷山の鹿児島の国人衆は南朝方に付き、北朝方に付いた島津氏と対立。
1341年には島津貞久が東福寺城に侵攻し落城。矢上氏は滅亡し、島津貞久、島津氏久の父子は薩摩、大隈を治める本拠として大規模な改修をしました。
1387年に7代当主の島津元久は清水城を築いて居城を移し、その後の東福寺城は詰め城として機能した様です。
1602年、18代当主の島津忠恒は鹿児島城に移った際に詰め城も鹿児島城の背後にある城山としたため東福寺城は廃城となりました。
見所
錦江湾に面する丘陵上の要害に築かれており、現在は多賀山公園として整備されています。公園化にて切り通しや郭の形状は残るもののモルタルで固められており、かなりの改変を受け遺構の残存度は低いです。
但し主郭背後には大堀切があり、その先にめ城域が続きましが未整備でヤブ化しており入れませんでした。
2023年07月19日 薩摩安房守義弘維新斎
東福寺城
東福寺城址は、1053年に長谷場永純が築城し、その後1343年に島津貞久が攻略し、島津氏が約40年間居城としたようです。今は、多賀谷山公園として整備され、公園から見える桜島が圧巻です。
近郊には、石橋記念公園、仙巌園の史跡があります。城跡は、橋が架かった切通等が現存し、散策しやすいです。
2021年02月03日 龍馬太閤【備中の麒麟】
祇園之洲砲台跡[東福寺城 寺社・史跡]
鹿児島県の鹿児島市にある祇園之洲砲台跡☆大藩・薩摩国を象徴する砲台跡になります☆幕末の動乱期に起こった薩英戦争☆薩摩一藩が大国イギリス軍(グレートブリテンとアイルランド連合王国)との間に激しいバトルを展開☆発端としては教科書で習った覚えのある『生麦事件』薩摩藩主・島津久光の行列を乱したとするイギリス人を殺傷する事から始まります☆鹿児島湾に陣を張るイギリス艦隊!【島津家とイギリス艦隊は交渉戦へ】イギリス側は生麦事件犯人の逮捕と処罰とおよび遺族への妻子養育料を要求☆対する薩摩藩は回答を保留して鹿児島城内で会談を提案するもイギリス艦隊は拒否☆更に島津家は「生麦事件に関して責任はな〜い」とする返答をイギリス艦隊へイギリス側の要求を拒否しちゃいます☆イギリス艦隊も「要求を受け入れられない場合は武力を行使するぞ〜」って通告☆一触即発の事態☆この時イギリス艦隊は薩摩藩の蒸気船を3隻奪っちゃいます☆これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩方は7箇所の砲台に追討の令を出します☆奪われた事に激発した薩摩方の砲台とイギリス艦隊の戦闘開始☆この祇園之洲砲台跡は1番被害を受けます☆ただし…結果は何と引き分け!薩摩一藩が往時、世界最強を謳われたイギリス海軍を相手に勇猛果敢に戦い引き分けた♪イギリス艦隊は勝利をあきらめ横浜に退却してしまいます☆往時のニューヨーク・タイムズ紙にも出た様で「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」と評しています☆この戦闘を通して薩摩とイギリスの双方に相手方の事をもっと詳しく知ろうとする機運が生まれました☆これ以後両者が一転して接近していく契機になっていきます☆薩摩一藩が世界を相手に…往時の日本の侍達は震えたでしょうね☆これを機に【薩摩、長州、土佐、肥前】と維新回天の足掛かりを作っていきます☆
2017年05月20日 惟新斎北見守かなえ
東福寺城
目の前に石橋公園、左にいけば仙巌園等がある磯があるので渋滞が凄いのに加えて道が狭いので初めて来られる方は少し大変かもしれません。駐車場もありトイレもあります。東郷平八郎の銅像があったり壕が綺麗に残されているのは良いと思います。
ただ私が行った時は石碑がなぎ倒されてたり石像が首から上だけもげた状態のものがいくつかあった為とても不気味で怖かったです。そして悲しい事にここは市内有数の捨て猫が多い場所でもあるのであちこちに猫ちゃんがいます。
あとここまで来たなら磯まで足を伸ばして両棒餅を是非ご賞味下さい。