鹿児島城(かごしまじょう)
鹿児島城の基本情報
通称・別名
- 鶴丸城、(上山城、城山)
所在地
- 鹿児島県鹿児島市城山町
旧国名
- 薩摩国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- なし
築城主
- 島津家久
築城年
- 慶長7年(1602)
主な改修者
- 島津吉貴
主な城主
- 島津氏
廃城年
- 明治5年(1872)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(水堀)、石橋
指定文化財
- 県史跡(鶴丸城跡)、国史跡(城山)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
内城(鹿児島県鹿児島市)[1.1km]
清水城(鹿児島県鹿児島市)[2.0km]
東福寺城(鹿児島県鹿児島市)[2.0km]
横山城(鹿児島県鹿児島市)[4.6km]
川上城(鹿児島県鹿児島市)[5.7km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- 97 鹿児島城
設置場所
- 鹿児島県歴史資料センター黎明館総合案内[地図]
鹿児島城の解説文
[引用元:Wikipedia「鹿児島城」の項目]鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山麓にあった日本の城である。鹿児島では、一般的に古くから別名の「鶴丸城」(つるまるじょう)の名で呼ばれ、現地の案内図や看板などは「鶴丸城」表記でほぼ統一されており、「鹿児島城」での表記はほとんどない。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
【概要】
江戸時代初期に島津忠恒によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。平城や山城とする説もある。
城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡された。その後島津忠恒は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。
本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。
明治6年頃には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が現存する。
【歴史・沿革】
1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。四神相応の地(東に棈木川、西に出水筋、南に錦江湾、北に城山)として選定された。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は西軍側に属して敗北し、責を負って引退した島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成する。
忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになる。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃している。
鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でもあったためシロアリ被害が多く、また幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(97番)に選定された。
【現状】...[続きを見る]
鹿児島城の口コミ情報
雅周防守昌 ⭐︎様[2017年05月29日]
『鶴丸城御楼門・御角櫓建設について』の掲示板が有りました。
明治六年に火災で消失し、2年前から再建計画が持ち上がり、平成32年3月の完成を目指しているそうです。なお、御角櫓と城壁も建設だそうです。
五瓜ニ唐花紋左大臣や〜きみ様[2017年05月08日]
石垣があります。
城跡だけでなく周囲にも観光名所沢山です。
資料館、山、西郷隆盛像など。
篤姫イベの通り。
日本百名城でもあります。
W平八郎掃部頭鼎衛門様[2017年05月08日]
黎明館を右裏手に回るとかつて島津家の庭園があった場所があり、現在は池(御池)が残され池の周りには紅葉の木があるので紅葉の頃来ると良いも?。そして御池からすぐ側に藁葺き家屋もあり土間迄なら入れます(土間に明かりが無いため真っ暗で怖いです!)。こちらは地元民でも知らない人が多い知る人ぞ知る隠れスポットなのでオススメです。
征夷大将軍クララ姫様[2017年02月13日]
H29.2.12現在、大手門は工事中で封鎖されていました。
源摂津守@宿泊遠征憧れ♪様[2016年08月16日]
駅の案内所で鹿児島城は通じず、鶴丸城が一般的です。
鹿児島中央駅からカゴシマシティビュー(バス)「城山・磯コース」に乗り、12~3分ほどで薩摩義士碑前(190円)に到着。
城の本丸は黎明館と呼ばれる歴史資料館、二ノ丸が駐車場や図書館になっています。
本丸の石垣は高さは5~6m程度で、至るところに西南戦争の弾痕が残っています。
御楼門跡が立派な枡形虎口で一番見どころでした。
本丸周囲の堀は幅も10~15m程度で蓮が一面に広がっています。
周囲や内部をぐるぐる歩き回っても30分あれば十分な広さでした。
西南戦争の舞台の城山は、上山城という中世城郭があったようです。
城山山頂への遊歩道は、黎明館を北側に出て左側の辺りからついてます。
標高はそれほど高くないですが、この遊歩道は傾斜が緩やかなため、普通の山登りより長く歩かなければならない道で、距離がとても長く感じさせられ、山頂まで40分くらいかかりました。
歩いてても、どこか城郭なのか遺構らしきものは見つけられなかったです。
真夏の炎天下に行きましたが、歩き回られるならお茶や水を持参されることをお勧めします。
中務大輔あさよし様[2016年03月25日]
裏口の防災センターに声をかけるとスタンプもらえました。情報ありがとうございます。
弾丸旅人REO様[2016年03月25日]
あさよしさん
インターホンで警備の方を呼べばスタンプ持って出てきてくれますよ。
先月、自分も同じパターンでダメ元で頼んだら大丈夫でした。
中務大輔あさよし様[2016年03月25日]
100名城のスタンプ置き場の資料館がなんと休館日???しかも今月3月は5日間も定休日設定?どうなってるの?
上杉鷹山公様[2013年06月30日]
近くに福昌寺跡があり島津家3~28代当主のお墓があります。
加藤豊後守清正様[2010年10月28日]
石垣に残る西南戦争による弾痕跡は生々しいです。城門跡には無数に残っています。
tomm加賀守様[2010年07月08日]
時間があれば「仙巌園」や「尚古集成館」も見たいところですね。
また市内にある「天文館むじゃき」の「白熊」は絶品ですので外せません!(サイズに注意!(笑))