岩剣城(いわつるぎじょう)

岩剣城の基本情報

通称・別名

所在地

鹿児島県姶良市平松字下山口

旧国名

大隅国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

祁答院良重

築城年

享禄2年(1529)頃

主な改修者

主な城主

祁答院氏、島津氏

廃城年

慶長12年(1607)

遺構

曲輪、石垣、堀切、横堀(空堀)、切岸

指定文化財

市史跡(岩剣城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

建昌城(鹿児島県姶良市)[3.0km]
帖佐館(鹿児島県姶良市)[5.2km]
蒲生城(鹿児島県姶良市)[5.7km]
平山城(鹿児島県姶良市)[6.1km]
川上城(鹿児島県鹿児島市)[7.7km]
比志島城(鹿児島県鹿児島市)[7.7km]
加治木城(鹿児島県姶良市)[8.3km]
清水城(鹿児島県鹿児島市)[10.6km]
東福寺城(鹿児島県鹿児島市)[11.0km]
小山田城(鹿児島県鹿児島市)[11.4km]

岩剣城の解説文

岩剣城(いわつるぎじょう)は鹿児島県姶良市平松にある中世城郭。標高210mの岩剣山頂にあり、山は剣の平(けんのひら)とも呼ばれている。

島津義久、義弘、歳久の初陣の合戦が行われた城として、また、鉄砲が日本史上初めて実戦で使われた城として有名である。ただし、鉄砲についてはこれ以前に使用されていたとする異説もある。

沿革

薩摩国の国人の一人・祁答院良重が建設したと伝えられるが、築城時期の詳細は不明である。1529年(享禄2年)頃との説がある。

天文年間、祁答院良重は菱刈隆秋、蒲生範清と組んで島津貴久に反旗を翻した。天文23年、菱刈、蒲生連合軍が島津側の武将・肝付兼演の居城である加治木城を攻め、貴久は加治木城を救援するため祁答院良重の住む岩剣城を息子の島津義久、義弘(当時「忠平」)、歳久に攻めさせる。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞であり、良重もよく籠城して耐えたが、救援に来た蒲生範清が島津側に撃退されると孤立無援となり、最後は籠城した女性が化粧道具を投げてまで応戦したが多勢に無勢は明らかで、ついに良重主従は岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院(現薩摩川内市祁答院町)に逃亡し、岩剣城は落城した。残された女性は城の断崖から身投げして自害したという。

この城がなかなか落城しなかったのは、麓の岩剣神社の加護があるからだとして、御神体を白銀坂にある島津氏の本陣に勧請して「戦いに勝利を収めたら、毎年例祭日に神舞を奉納しよう」と願を立てたところ、その夜のうちに城から敵勢が逃亡し落城したとの伝がある。

その後、この城の城代に島津義弘が任命されて入城したが、城の立地はあまりにも不便であり、麓に「平松館」を築いて、その後永禄7年に飯野城に転出するまでここを本拠とした。義弘が転出した後の岩剣城と平松館の状況は不明である。

文禄頃には義弘の娘で島津朝久未亡人となった御屋地とその子供がこの平松館に居住していた。

慶長11年、義弘は再びこの平松館を居所とするが、わずか1年後の慶長12年には加治木館に転居し、岩剣城は実質的に廃城となった。

平松館は元文2年に島津継豊の弟・忠紀が越前島津家を再興したときにその居館となり再建される。その後明治まで使われていた。ちなみに最後の住人は島津久光の子息・珍彦である。

現状...

岩剣城の口コミ情報

2021年02月09日 龍馬太閤【西国の覇者】
平松城[岩剣城  周辺城郭]



鹿児島県の姶良市にある平松城☆島津4兄弟の内の3人、義久、義弘、歳久が初陣で岩剣城を攻略した後に岩剣城の在番に次男の島津義弘がなりました☆
ただ、岩剣城迄の道は険しい為に島津義弘は城の麓にこの平松城を築城しました♪
その後、また江戸時代に再興され幕末まで生き残ります♪明治に入ると小学校が建築され現在に続きます♪

2021年02月06日 龍馬太閤【西国の覇者】
平松神社[岩剣城  寺社・史跡]



鹿児島県の鹿児島市にある平松神社☆心岳寺の跡地に立てられたのがこの平松神社☆この場所は昨年の2020年の1月1日に城攻め遠征の途中で、あっ!初詣しようと思って偶々寄った場所♪ここは島津4兄弟の3男・島津歳久が自刃した場所です☆若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍しました☆この島津歳久は家中は勿論、民衆からの信頼も絶大にアツイ武将様でした♪結果追い込まれていく訳ですが…秀吉の九州征伐の際に島津家中が抗戦へ傾く中で秀吉の事を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評価して4兄弟中ただ一人上方との和平を唱えました☆また別の時に島津家中が和睦に傾いた時にこの島津歳久は「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない。」と兄弟で唯一抗戦を主張し島津家の行く末を考えいつも風向きを見てました☆秀吉の朝鮮出兵時には病気を理由に出陣しなかった事やこれ迄の反抗的な態度を取り続けた結果、秀吉から朱印状を、4兄弟中、3人には(島津義久、義弘、家久)にはあげましたが島津歳久には出しませんでした☆更に島津歳久の家臣が無断で秀吉の籠に矢をいかけてしまい…秀吉の怒りを一手に買うことに。。兄・島津義久はやむを得ず島津歳久の元に追討軍を送る事を決断します。追討軍に捕縛されてしまう島津歳久は錦江湾の海路から現在の「平松神社」鳥居付近に上陸しました。その場を最後の場と決めて切腹を決意。追跡してきた町田久倍率いる上意軍と戦います…また追手も島津家の実弟という事で手が出せず島津歳久には最早、刀を握る力もなく…傍らにあった石を懐刀と見立て、「早う近づきて首を取れ」と言ったのち家臣の原田甚次が首を取りました☆島津歳久の自害の時に共に寄り添った27人が殉死☆歳久の亡骸には兄の島津義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤の前に出る事が出来なかったのであって、何らやましい所はない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰の為に切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではなく、また、付き従う兵には全く罪はないので残された家族に類が及ばぬように」という主旨の文がしたためられていたと伝わります。最後まで島津家を支えた歳久でした☆昨年守ってくれた御守りも無事に返す事が出来ました♪

2017年08月22日 カーネル
岩剣城

日豊線 重富駅から

駅から直線で1.1kmですが、登山口は城の反対側なので、遠回りさせられます

駅から西に向かい、すぐ右折して北上すると道脇の観光案内看板に、重富小学校が平松城とあります。岩剣城の支城らしいのでちょっと寄り道

学校の周囲を、野面積の石垣が囲んでいてかっこよかった。小学校から北西に進むと『岩剣城登山口800m』の看板に従い、進むと岩剣神社
ここに岩剣城の説明の看板があります

さらに西へ進み、あってるのか?と不安になるころに『頂上まで20分』の看板が出ます
10分ほど登ると右側に石垣があります。さらに登ると、登山道の上に石積みっぽいのがある小山がある曲輪を通過

ここから道は緩やかになり、連続する曲輪を超えると主郭へ。ここまで駅から1時間

下山して、岩剣城から3km先の建昌城へ向かいます

2017年03月17日 釧路守きこりん
岩剣城

3月12日登城。ほんの数日前に登山道の草刈りや枯木倒木除去が行われたようで、前よりだいぶ歩きやすくなってると思います。
島津義弘縁の岩剣神社から林道に上がり、しばらく行くと左に登山道があります。登山道を行き、尾根に取り付き左に向かうと山頂主郭ですが、右手方向も堀切と郭が連続し、部分的に石垣も残っているので見逃せません。
麓から厳つい山容を見上げるだけでも楽しめますが、意外なほどしっかり遺構が残ってるので登ってみることをおすすめします。全体的に常緑樹が茂っていて眺望はありませんが、山頂先端の最高所からは鹿児島湾を見下ろせます。
麓の重富小学校は島津義弘が築いた居館・平松城の跡地で、校門の両側に石垣が残っています。この辺りから見上げる岩剣山は最高にカッコイイです。
岩剣神社に大きな駐車場あり。平松城は石垣の前に駐車できます。

2013年03月14日 かわら刑部少輔そば
岩剣城

素人ですが失礼します。
重富駅から歩いて20分程(57号線を北西)で岩剣神社があるので、神社の手前を通って道なりに坂道を登ると左手に登山口があります。登山口までは道路なので大きな車でなければ一台くらいは止められそうでした。バスもあるようですが本数が大変少ないので歩いた方が早いかも?(最寄りは重富麓)

登山道は所々整備されているものの、急な坂道で大部分は石がごろごろ落ちていたり、途中岩場をロープで登ったりと状態が良くないので注意が必要です。

上に着くと、曲輪の形がはっきりと残っており、西側の曲輪には石垣の跡や土累もありました。周りは切り立った崖になっているのであまり身を乗り出さないよう…。東側の曲輪にあった四角い人工的な石が気になりまししたが遺構でしょうか。

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