平松神社
平松神社([岩剣城 寺社・史跡])
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平松神社の口コミ情報
2021年02月06日 龍馬太閤【懸り乱れ龍Z】
鹿児島県の鹿児島市にある平松神社☆心岳寺の跡地に立てられたのがこの平松神社☆この場所は昨年の2020年の1月1日に城攻め遠征の途中で、あっ!初詣しようと思って偶々寄った場所♪ここは島津4兄弟の3男・島津歳久が自刃した場所です☆若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍しました☆この島津歳久は家中は勿論、民衆からの信頼も絶大にアツイ武将様でした♪結果追い込まれていく訳ですが…秀吉の九州征伐の際に島津家中が抗戦へ傾く中で秀吉の事を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評価して4兄弟中ただ一人上方との和平を唱えました☆また別の時に島津家中が和睦に傾いた時にこの島津歳久は「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない。」と兄弟で唯一抗戦を主張し島津家の行く末を考えいつも風向きを見てました☆秀吉の朝鮮出兵時には病気を理由に出陣しなかった事やこれ迄の反抗的な態度を取り続けた結果、秀吉から朱印状を、4兄弟中、3人には(島津義久、義弘、家久)にはあげましたが島津歳久には出しませんでした☆更に島津歳久の家臣が無断で秀吉の籠に矢をいかけてしまい…秀吉の怒りを一手に買うことに。。兄・島津義久はやむを得ず島津歳久の元に追討軍を送る事を決断します。追討軍に捕縛されてしまう島津歳久は錦江湾の海路から現在の「平松神社」鳥居付近に上陸しました。その場を最後の場と決めて切腹を決意。追跡してきた町田久倍率いる上意軍と戦います…また追手も島津家の実弟という事で手が出せず島津歳久には最早、刀を握る力もなく…傍らにあった石を懐刀と見立て、「早う近づきて首を取れ」と言ったのち家臣の原田甚次が首を取りました☆島津歳久の自害の時に共に寄り添った27人が殉死☆歳久の亡骸には兄の島津義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤の前に出る事が出来なかったのであって、何らやましい所はない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰の為に切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではなく、また、付き従う兵には全く罪はないので残された家族に類が及ばぬように」という主旨の文がしたためられていたと伝わります。最後まで島津家を支えた歳久でした☆昨年守ってくれた御守りも無事に返す事が出来ました♪