平山城(ひらやまじょう)

平山城の基本情報

通称・別名

平安城、帖佐本城、内城

所在地

鹿児島県姶良市鍋倉字本丸、松尾ノ下他

旧国名

薩摩国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

善法寺了清

築城年

弘安5年(1282)頃

主な改修者

主な城主

平山氏、島津氏、川上忠直、島津昌久、伊地知重辰、祁答院氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

周辺の城

帖佐館(鹿児島県姶良市)[0.9km]
建昌城(鹿児島県姶良市)[3.1km]
加治木城(鹿児島県姶良市)[3.6km]
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国分城(鹿児島県霧島市)[13.4km]
比志島城(鹿児島県鹿児島市)[13.4km]

平山城の解説文



平山城(ひらやまじょう)は、鹿児島県姶良市にあった日本の城。平安城(へいあんじょう)、帖佐本城、内城とも呼ばれる。

築城 

1282年(弘安5年)頃、京都の石清水八幡宮から下向した善法寺法印了清が築城したといわれている。

善法寺了清は、石清水八幡宮の祠官の一族であったが、当時、石清水八幡宮と関係が深かった大隅正八幡宮(鹿児島神宮)領の帖佐郷平山村の領家職として、石清水八幡宮の神璽を奉じ、一家眷族、僧侶、医者、大工、染師、土器師等873人を率い、船で帖佐松原八幡江湖に到着した。更に別府川 を遡り、清泉が湧き出している折橋山山上を社地に定め、鍋倉八幡神社(帖佐八幡神社)を創建した。大隅正八幡宮に対して、新たに勧請した八幡ということで、「新正八幡宮」と称した。了清は、八幡の脇に、平安山八流寺増長院を別当寺として建立した。更に神社の西に平山城を築き、地名から平山氏を名乗った。

城内の概要 

城内は、十四の郭(本丸、中丸、平安城、荒神城、鶴丸城松尾城、小城、櫓城、賀茂城、東城、玄蕃城、南城、高尾城、引陣)からなっており、堅固な山城であった。城中鎮護を祈念するため、八幡、伊勢、折橋、賀茂、春日、日吉、諏訪、天神、祇園、稲荷の諸神を城内に祭り、仏寺として、阿弥陀寺、観音寺、西福寺を建立した。他に熊野三所権現を勧請して平山権現と呼んだ。

平山氏は帖佐郷各地に出城(甑城、茶臼城、古城、高城、平松城等)を築き一族(平松氏、平瀬氏、高城氏、中津野氏、餅田氏、甑氏、松元氏、市成氏、小城氏、小川氏、木幡氏、若松氏、有村氏等)を配し帖佐郷を支配した。

城主の変遷 

大隅国の守護であった島津氏と平山氏は養子縁組を行っており、当初は行動を共にしていたが、次第に対立するようになり、享徳年間(1452年 - 1454年)に島津氏第9代島津忠国の弟、島津季久が、平山氏第9代平山武豊を討って帖佐郷を領有した。敗れた平山氏は指宿へ、一族は鹿児島の武村へ移された。季久は、別府川の対岸に瓜生野城建昌城)を築いて居城とし、平山城には次男の忠康を配し、平山氏の名跡を継承させた。また、季久の三男の満久は隣郷の加治木氏の養子とし、季久の威勢は近隣に及んだ。

1495年(明応4年)、島津氏は、川上忠直に帖佐郷邊川村を与え、忠直は邊川氏を称した。同年、加治木領主、加治木久平が島津氏に叛き、平山城の南城を攻め取った。その時、邊川忠直は高尾城を固守した。島津忠昌は加治木久平を攻め立て、久平は敗退した。忠昌は忠直の功績を賞し、帖佐地頭に任じた。

1526年(大永6年)、出水領主、島津実久が島津氏に叛し、忠直はこれに組し、帖佐郷に新城を築くとともに、平山城にこもった。島津忠良は、島津勝久の命により、新城及び平山城を攻め、島津実久の配下である島津安久及び忠直を討ち取った。そして、島津昌久を地頭とし鹿児島へ戻った。しかし、昌久は、加治木領主、伊地知重貞と謀って島津氏に叛いたので、忠良は、加治木を攻め重貞を討ち、平山城の昌久も討った。そして、伊地知重辰を地頭とし、重辰は新城へ入った。

1529年(享禄2年)、島津氏と対立する有力国人であった祁答院重武が、重辰を討ち、重武 – 祁答院良重と親子2代に渡り帖佐を領したが、1555年(弘治元年)、島津貴久は良重を攻めこれを祁答院へ敗走させ、鎌田政年を地頭とした。

現状 

城址には、新正八幡宮が鎮座しており、その社頭には初代城主平山了清が植えたという樹齢700年を超える大銀杏が現存し、姶良市の天然記念物に指定されている[1]。神社の前方の南城址付近は桜公園として、整備されている。

城の遺構としては、曲輪、空堀、土塁等が現存している。

参考文献 

  • 『薩隅日地理纂考』(1898年 鹿児島県私立教育会)
  • 『三国名勝図会』(1905年 山本盛秀)
  • 『姶良町中世城館跡』(1994年 鹿児島県姶良町教育委員会)
  • 『姶良町郷土史』(1995年 鹿児島県姶良町教育委員会)

平山城の口コミ情報

2025年09月20日 龍馬備中守【】
新城[平山城  周辺城郭]



鹿児島県姶良市の三拾町にある【帖佐新城】♪シラス台地が造り出した絶壁は、圧倒的な防御線となります♪ソコに空堀と来たら、鬼に金棒状態です♪こんなクレイジーな城が、そこかしこにある♪南九州型城郭は凄まじい、の一言です♪
帖佐新城は新城という小字名を残します。その他、残る字名として…屋敷ヶ迫や、陣ノ尾などが残ります。特に陣ノ尾は、この帖佐新城の一帯が戦場となった際の名残りでしょう。また、馬洗い場といわれる箇所もあり、その城域は中々広大だった事が考えられます。

帖佐新城は、三拾町の北西に延びた山中に存在します。眼下には姶良平野が広がり、蒲生川が錦江湾に流れます。山裾には、蒲生・加治木を結ぶ県道、川内・加治木線と、山田・北山へ通じる県道、下手・山田・帖佐線が走り、現在でこそ県道となり、アスファルトが引かれていますが、当時もまた、交通の要衝として、薩摩街道大口筋(人吉街道)と薩摩街道高岡筋(日向筋)、更に間道脇道があったのでしょう。でなきゃこれだけ異常な城郭にはなりません。

和銅6年(713年)日向国の一部を割いて、大隅国が設置されました。朝廷による支配に対して、薩摩の先住民である隼人族が抵抗した為、豊前国から住民を移住させ、桑原郡を建てました。これが現在の姶良市にほぼ相当します。和名抄によれば、移住させた先として大分(おほきた)・豊国(とよくに)・答西(てふさ)という地名があったとされ、このうち大分は北山、豊国は豊留、答西は帖佐に比定する説があります。日本後紀には、古代の駅伝制において、大隅国蒲生駅と薩摩国田尻駅の間が長すぎる為、延暦23年(804年)薩摩国櫟野村に新たな駅を設けたという記述があります。これが『蒲生』という言葉が文献に現れる初見で、帖佐新城と隣接し、後に争う蒲生氏は、この地名から来ています。その後、この地については、郡司として支配した大蔵氏一族の事、文永の役を受けて博多湾周辺などに防備の為の元寇防塁を整備した事(大隅国在庁石築地役配符)や、南北朝時代の事などありますが、長くなるので、割愛します。

さて、この帖佐新城は、城としての築城は遅くて、大永6年(1526年)帖佐地頭筑前守忠直が築き、その後、島津昌久、伊地知重辰が在城した城と云われます。弘治3年(1557年)頃には、島津氏と蒲生氏、祁答院氏との抗争が発生し、帖佐新城一帯が主戦場になっていたと伝わります。その後、この地は薩大日の三州を統一した島津氏が領地して行きました。

2024年03月28日 壱岐守最強島津
平山城

島津義弘が、朝鮮出兵や関ケ原へ赴く際、必勝祈願をした八幡神社が有る。元々は、南北朝時代の城郭寺院で有るが、今は、竹藪で遺構の確認は難しいと思います。

平山城の周辺スポット情報

 膝跪くりげ墓(碑・説明板)

 高尾城(周辺城郭)

 新城(周辺城郭)

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