帖佐館(ちょうさやかた)
帖佐館の基本情報
通称・別名
- 島津義弘居館
所在地
- 鹿児島県姶良市鍋倉字垂ノ内
旧国名
- 大隅国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 島津義弘
築城年
- 文禄4年(1595)
主な改修者
- -
主な城主
- 島津氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- 市史跡(島津義弘居館跡(御屋地跡)石垣)
再建造物
- 石碑(惟新公邸址之碑)、説明板
周辺の城
-
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帖佐館の解説文
帖佐館の口コミ情報
2024年09月07日 薩摩安房守義弘維新斎
帖佐館
島津義弘公居館跡である帖佐館は、御屋地跡とも呼ばれているところ。
車であれば姶良市立帖佐小学校を目標に行くと分かりやすく、その小学校の奥に館跡があります。
今は、稲荷神社となっており、神社の隣にある花園跡公園の駐車場へ車をとめることができます。後で気が付きましたが、境内にも駐車が可能です。
館跡の大きな特徴は、野面積みの石垣です。それ以外には、大手門跡の礎石があります。
また、境内には、惟新公邸址の碑が設置されており、ここが島津義弘公の館跡だったと分かります。
城跡の散策が終わったら、花園寺跡公園の遺構もぜひ見て下さい。枯山水の庭園跡がなかなかの味わいを醸し出してます。
2016年09月16日 立花左近将監統虎
帖佐館
島津義弘公が築いた帖佐館
日豊本線の帖佐駅から北へ、国道10号線と別府川を越え、帖佐小学校の奥にある稲荷神社が館跡です。
館跡の西側にはトイレと無料駐車場も完備されています。
遺構としては館跡の南側と東側にわたり野面積みの石垣が残存しており、東側には大手門跡が残っています。
余談ですが、帖佐館の大手門は義弘公の隠居先となる予定だった出水城下の武家屋敷群に移築されており、現在は出水小学校の校門として残っています。
稲荷神社の境内には鬼島津を彷彿とさせる無骨な石積みの上に「惟新公邸址」の碑が建っています。
館跡の西側には2016年2月に開園した島津義弘公にゆかりの深い花園寺(かえんじ)跡があります。
花園寺跡は義弘公が経文を黙読した看経所のあった場所といわれており、枯山水庭園や建物柱跡などの遺構が再現され、観光用の櫓から全体を見渡せるようになっています。
また、帖佐館から北に300メートル程進んだところに義弘公の愛馬「膝付栗毛」の立派な墓があります。
ただし、墓までの道には獣害対策用の高圧電流ワイヤーが設置されていますので立ち入るのは危険です。
義弘が平松城に移った後は、御屋地様(義弘の長女千鶴)の館になりました。その後、この地は稲荷神社や宇都自治公民館敷地として利用されています。
島津義弘居館跡石垣
石垣の中には「義弘の羽織掛石」「阿多長寿院のご加勢石」と呼ばれる巨石があります。東壁はさらに北へ延び、延長214mあったと推定され、所々に古い石垣が残存しています。また、石垣には石割りをする時に楔を打ち込んだ矢穴の痕が残る石もあります。花園寺跡の発掘調査では、西側に13.5mの石垣の延長が確認されました。
使用した石材は加治木の湯湾岳から切り出され、館の築造は家老の新納旅庵が監督し、蒲生地頭の阿多長寿院盛淳が加勢したと伝えられています。
お茶の水
島津義弘居館跡の北東の山裾に湧き水があります。島津義弘は文禄4年(1595)文禄の役から帰国し、恩賞として豊臣秀吉から茶入「平野肩衝」を拝領しました。また義弘は、千利休の高弟として茶道を学び、茶の湯の奥義を伝授されました。義弘が茶を点てるときに使用した水が、この湧き水であったといわれています。この場所は、道路から200m奥の杉木立の中にあり、地元の人々によって整備されています。2箇所の湧き水と、大正7年(1918)島津義弘公没後300年祭で建てられた記念碑があります。