蒲生城(かもうじょう)
蒲生城の基本情報
通称・別名
- 竜ヶ城、龍ヶ城、本城
所在地
- 鹿児島県姶良市蒲生町下久徳
旧国名
- 大隅国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 蒲生舜清
築城年
- 保安4年(1123)
主な改修者
- -
主な城主
- 蒲生氏、比志島国真(島津氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、枡形虎口
指定文化財
- 市史跡(蒲生城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
建昌城(鹿児島県姶良市)[4.5km]
帖佐館(鹿児島県姶良市)[5.2km]
平山城(鹿児島県姶良市)[5.5km]
岩剣城(鹿児島県姶良市)[5.7km]
加治木城(鹿児島県姶良市)[9.1km]
比志島城(鹿児島県鹿児島市)[10.1km]
川上城(鹿児島県鹿児島市)[11.6km]
郡山城(鹿児島県鹿児島市)[12.4km]
溝辺城(鹿児島県霧島市)[12.9km]
小山田城(鹿児島県鹿児島市)[13.1km]
蒲生城の解説文
蒲生城の口コミ情報
2024年09月01日 陸奥守たろす
山田城[蒲生城 周辺城郭]
【山田城口コミ②】
口コミ①で文字制限にかかりましたので、その②で補足説明をさせて頂きます。
【散策所要時間】
◆未散策部分もありましたが、写真やメモをとりながらの散策で1時間30分程度。サクサクっと行けば1時間程度でも廻れるかと。
【アクセス】
◆車の場合は鹿児島空港から20分程度、鹿児島中央駅からは1時間程度。
◆Googleマップで「玉城山禅福寺陽春院跡」と設定すると登城口(別口コミ参照)近くに行けますが、駐車場はありません。
※あえてポイント登録しませんが、登城口に面した道路北側に若干のスペースがあり、自己責任で利用させて頂きました〔写真〕
◆公共交通機関はわかりませんが、麓の山田地区から登城口までは徒歩30分程のようです。
◆山田地区には「山田の凱旋門」「西郷隆盛の腰掛け石」などもあり、車なら鹿児島空港から30分もかからないので時間に余裕があればお立ち寄りしてはいかがでしょうか?
【引用元】
◆『姶良市デジタルミュージアム』
http://aira-digitalmuseum.jp/
➡調査・研究
➡姶良町中世城館跡(平成6年姶良町教育委員会)
➡PDF「姶良町中世城館6」「姶良町中世城館7」
◆縄張り図は「姶良町中世城館6」に掲載
2024年09月01日 陸奥守たろす
山田城[蒲生城 周辺城郭]
【山田城口コミ①】
城めぐアプリ未登録の「山田城」。
フォトギャラリーで目にした空堀に魅了され、種子島攻略での鹿児島遠征の際に真っ先に登城。その素晴らしさを自ら体験し、機会あれば是非多くのめぐらーさまにも見て頂きたく、口コミさせて頂きます。
詳細は後述しますが、記事は『姶良町中世城館跡(平成6年姶良町教育委員会)』調査資料より引用しております。
【所在地】
◆鹿児島県姶良市上名字中ノ城
【歴史】
◆築城年代不明
◆築城者川越氏(とありましたが調べても不明…)
◆戦国動乱期、永生7年(1510)以後守護島津氏領国では守護家の勝久、薩州家実久、伊作相州家忠良の勢力が相半ばし「三国騒乱」と表現される事態となった。この中で伊作相州家の忠良が一歩抜きんでたため、大永6年(1526)島津勝久は伊作相州家の貴久に家督を譲ったが、この分家による本家の家督相続は、貴久が薩摩半島とその周辺を領国化し、天文19年(1550)鹿児島に内城を築き入城した末、国衆を含む家臣団に認められて、守護島津氏は戦国大名島津氏に変身した。
この間享禄2年(1529)有力国衆蒲生氏と連携した祁答院重武が、帖佐城と《 山田城》を攻略、帖佐は祁答院氏の領有となり、帖佐城と新しく築城した岩剣城には蒲生氏の家臣多数が入り、蒲生城の支城となっていた。
戦国島津氏は本格的領国経営のため、まず薩摩大隅境の帖佐とその上流の蒲生を平定することにした。そのため準備に4年も費やした戦国島津氏は、天文23年(1554)貴久自ら大将となり、子供の義久、義弘を動員して岩剣城を落とし、翌弘治元年(1555)帖佐城を攻略し、《山田城》も下ろし、弘治3年(1557)蒲生氏を破って帖佐郡を確保した。貴久は岩剣城に義弘、帖佐城に三原重秋を置き、後に帖佐城に鎌田政年、《山田城》に梅北国兼を置き、今までの帖佐郡は帖佐と山田に区分された。加治木は既に貴久領となっていたので、ここに錦江湾沿の低平地は一気に戦国島津氏の領国となり安定することになった。
◆戦国島津氏の領有となった当地は平穏だったが、周辺では合戦が続き当地の城は存続した。中でも天文23年(1554)から3年間岩剣城の在番であった義弘がその城下に築城した平松城は、慶長5年(1600)関ケ原合戦直後にも一時使用された。義弘は文禄4年(1595)から慶長11年(1606)まで帖佐御屋地(帖佐館)にいた。当時島津氏は鹿児島の家久、富隈の義久と帖佐の義弘の3人が鼎立していた(3殿制)。
その義弘は関ケ原合戦直前、瓜生野城を島津氏の主城、帖佐・《山田城》等を支城とし、島津氏領国のセンターにしようとしたことがあり、忠兼以来問題にされなかった瓜生野城が突然脚光をあびた。関ケ原合戦後もこれらを補強し徳川家康の攻撃に備えたと伝えられるも故無しとしない。その後瓜生野城は明の建昌城に似ているので建昌城と呼ばれることになり、家久は元和元年(1615)、寛永10年(1633)と建昌城を島津氏の本城にしたい旨徳川幕府に相談したが、承諾を得られず、この話は立ち消えになったが、建昌城は島津家により高く評価され、島津藩政期に中世城館が廃城とされる中でもその維持が図られていたものと考えられる。
〈現代〉
◆昭和63年3月山田地区におけるゴルフ場建設計画が起こり、予定地内に山田城跡が含まれれていたことから、教育委員会が開発者と事前協議にはいり、区域内での保存を前提にした設計変更を要請した。
〈私見〉
◆資料では城の存続は大永7年(1527)までとありましたが、前述の内容からも一国一城令が発せられる頃まで存続したのではないかと考えます。
【縄張り・遺構】
◆城は東西に長く、東の大手口と西の搦手口を結ぶラインに施された、南九州特有のシラス台地が織りなす空堀が続くのが最大の特徴。特に「一ノ瀬戸」「二ノ瀬戸」「三ノ瀬戸」と称された深く垂直に切立つ狭い空堀は圧巻〔写真②③④⑤〕
◆城の周囲には竪堀状の空堀(以下竪堀)が施され、特に城内道を兼ねた空堀に接続された竪堀の多くは登った先が行き止まりとなり、頭上の曲輪からの矢弾にさらされる〔写真⑥〕
◆三ノ瀬戸付近の空堀から登り隘路を抜けると曲輪5に至り、その北側最高所(標高163.9m)に曲輪1、曲輪1を中心に東西に階段状に曲輪2・6、3・4を配す〔写真①⑦〕
◆曲輪には大手道や搦手道から攻め入る敵兵からの盾となる土塁を要所に施す〔写真⑧〕
◆堀切・竪堀で遮断された曲輪4から延びる北西尾根にも土橋や曲輪8・7があるのだが、今回は時間の都合上未散策…
【総評】
◆高低差もそれ程なくコンパクトなお城、南九州特有のシラス台地の垂直に切立つ深い空堀は秀逸!感動間違いなし!
2024年07月30日 陸奥守たろす
山田城大手口(登城口)[蒲生城 その他]
山田城はググってもなかなか情報が得られず、数件ヒットしたブログの写真を頼りに、Googleマップのストリートビューと照らし合わせ、それらしい所(写真①)から登城しました。
(ブログでも「ルート選択をミスすると登れない」と…)
やはり道路脇などには一切標識や案内板の類はありませんでした。
夏場で少し草をかき分けながら、半信半疑で歩を進めましたが、3〜4分程で空堀状の登城道(写真②)になりますのでご安心下さい。
なお、このポイントから少し北側にも似たような所がありますので間違えないように!(私は間違えました…)
見分け方は間違った方は木が立ち並んでます(写真③)
2023年10月15日 気分爽快豊後守
蒲生城
駐車場に縄張り図があったので、早速リア攻めmapに取込み。車道を合わせるとピッタリ合う。凄い!
二の丸には、展望台と遊具があるが、誰がこんな山奥まで遊びに来るのだろうか?
①二の丸中程の櫓台?
②水の手
③倉ノ城に向かう土橋から見た切り通し(左が本丸)
④土橋
⑤土橋左の竪堀(深くて底が見えない)
⑥倉ノ城南の土塁
⑦本丸中程の土塁(左は崖)
⑧本丸と二の丸の間の切り通し
2023年03月28日 たまちゃん
蒲生城
鹿児島空港から車で30分くらい。城域まで車で登れます。馬場跡と倉城との間の土橋が凄い。底を見るのが恐い。
2021年12月26日 うっきー
蒲生城
鹿児島中央駅からバスで高崎まで。そこから歩きました。少し戻ると林道があるので、そこをずっと歩いていくと、林道の終点に城跡があります。
写真は本丸跡。
2021年12月23日 壱岐守最強島津
蒲生城
今は城山公園となってます。二の丸跡には立派な物見櫓のような遊具が有ります。本丸跡は草が有るため、妄想タイムとなりますが、堀切を使った縄張りは見事です。
前郷川南岸の標高162.5mの竜ケ山に築かれた県内有数の中世山城です。城の形が龍が爪を立てて躍りかかろうとする姿に似ていることから、竜ヶ城の別名もあります。
『蒲生城古図』によると、山頂付近に本丸、北尾根の先端部分に二ノ丸、麓に三ノ丸を配し、その周囲には東ノ城、岩ノ城、新城、倉ノ城が築かれていて、複数の城(曲輪群)で構成された大規模な山城であることが分かります。各城・各曲輪を区切る空堀は垂直に切り立っています。
蒲生城は、蒲生氏初代上総介舜清が、保安4年(1123)に蒲生・吉田を領有した際に築城されました。蒲生氏は蒲生城を本城とし、東に平山城、西に北村城、北に山田・松坂城、南に岩劔城を支城として配置し、堅固な防衛線を敷いていました。
しかし、18代蒲生範清は祁答院良重と結んで島津貴久と戦い、天文23年(1554)に岩劔城、弘治2年(1556)に松坂城と相次いで支城を落とされました。さらに援軍として駆け付けた菱刈重豊も菱刈陣で敗れたため、弘治3年4月20日、範清は籠城していた蒲生城に火を放ち祁答院に退去しました。これにより、蒲生氏18代435年に及ぶ支配は終わりました。
その後島津氏は、蒲生地頭として比志島美濃守国守を置き、領内各地から多くの衆中を蒲生に移し、戦後の経営を行いました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後には、徳川方の加藤清正や黒田如水らの領内への侵攻に備え、島津義弘が新たに荒平新城を築くなど城郭が再整備されたといわれています。今でも深い空堀や大きな土塁が残り、難攻不落の城であったことがうかがえます。
この後も、薩英戦争に先立ち鹿児島城移城の候補地として挙げられ、西南戦争の退却戦では西郷隆盛が野村忍助に蒲生城の守備を命じるなど、歴史上に数多く登場しています。