溝辺城(みぞべじょう)
溝辺城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 鹿児島県霧島市溝辺町麓4644-1
旧国名
- 大隅国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 溝辺孫太郎
築城年
- 元弘2年(1332)頃
主な改修者
- -
主な城主
- 溝辺氏、肝付氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- 市史跡(溝辺城跡)
再建造物
- 碑、説明板
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溝辺城の解説文
溝辺城の口コミ情報
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溝辺城は、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇(第九十六代)元弘二年(一三三二年)ごろ、溝辺孫太郎という豪族の居城(山城)として築かれたと伝えられています。溝辺城は、昔から城山と呼ばれています。これは、江戸時代、薩摩藩の城の形態が「館造」(地頭所)と「詰城」になっており、詰城のことを城山と呼んでいたためです。薩摩藩内には、城山という山城がたくさんあります。代表的なものは、鶴丸城に城山(鹿児島)・舞鶴城に城山(国分)などがあります。
城の形状は、南北約四百メートル、東西約五十メートルの細長い丘陵地で、北側から林道が内部に延びており、この辺りが城の入口と思われます。この林道を奥に進むと、人力によってなされたと思われる切り通しの跡や、井戸と思われる跡が確認されています。
頂部は、比較的平坦に土がならされ、いくつかの段状になっているなど、山城としての形状がうかがわれます。
時代は流れ室町時代の中ごろ、肝付越前守兼固が四千五百石を領する溝辺城主となりました。以来、子兼演とともに力を合わせ、溝辺郷の治世に励み、兼演の働きによって大永六年(一五二六年)には辺川(現加治木町辺川)を与えられました。さらに、天文三年(一五三四年)には島津勝久から新しく加治木領を与えられ、溝辺、辺川、加治木を併領する領主となり、加治木城に本拠を移しました。この進出の時には、家臣十九家と、その他十八家の者たちを従えて加治木へ移動しました。
その後、肝付家は兼演―二代弾正忠兼盛―三代弾正忠兼寛―四代三郎五郎兼三まで四代の間、天文三年から文禄四年(一五九五年)までの六十一年間、溝辺、辺川、加治木の地域を治めてきましたが、豊臣秀吉の九州征伐の際、島津義久は秀吉に降伏し、その結果、加治木、溝辺、日当山は豊臣秀吉の直轄地となり、石田治部少輔三成がその代官となりました。
文禄四年(一五六一年)、島津領内の所領替えにより肝付氏は薩摩国喜入、宮村、清水村の領主となって喜入に移ることになり、この時溝辺よりお供した家臣旧家と、さらに加治木の家臣たち多数を従えて移転しました。