加治木城(かじきじょう)

加治木城の基本情報

通称・別名

本城、古城、龍門ヶ城、大蔵城

所在地

鹿児島県姶良市加治木町反土城

旧国名

大隅国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

大蔵氏

築城年

平安時代

主な改修者

主な城主

大蔵氏、加治木氏、伊地知氏、肝付氏、島津氏

廃城年

文禄4年(1595)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

平山城(鹿児島県姶良市)[3.6km]
帖佐館(鹿児島県姶良市)[4.0km]
建昌城(鹿児島県姶良市)[5.8km]
溝辺城(鹿児島県霧島市)[6.2km]
富隈城(鹿児島県霧島市)[6.7km]

加治木城の解説文

加治木城(かじきじょう)は鹿児島県姶良市加治木町反土にあった中世城郭。慶長12年(1607年)、島津義弘がこの地に移ったときに麓に加治木館を作り、加治木城はその「後詰めの城」となった。

略歴
築城
地元の豪族である大蔵氏によって築かれたと伝えられるが、正確な築城年月日や当時の規模などの詳細は全く不明である。

加治木氏の台頭
平安時代中期の大蔵氏当主・大蔵良長には男子が無く、やむを得ず娘に婿養子を迎えた。その婿養子が関白・藤原頼忠の三男・藤原経平と伝えられている。経平はそのままこの地に土着し、「加治木氏」を名乗るようになる。

鎌倉時代には御家人として元寇の撃退にも貢献した加治木氏は、このときに絶頂期を迎えたと思われる。その後南北朝時代には一族が足利尊氏方、足利直義方に分裂し混乱する。室町時代には当地の守護大名であった島津氏の配下にあった。

このころの加治木城の実体は不明である。

加治木氏の追放
加治木氏は後に島津季久三男・満久を養子として迎えたが、この満久の息子・久平は突如島津氏に対して反乱を起こし、明応4年(1495年)6月に島津氏家臣の川上氏のいた帖佐(現・鹿児島県姶良市)を攻撃した。これに激怒した島津忠昌は翌年加治木氏を攻撃する。このときに加治木氏は加治木城に立てこもったが、ついに敗れ、阿多(現在の鹿児島県南さつま市金峰町)に異動させられた。

戦国時代の動乱
その後加治木城は大隅国の国人である伊地知氏が領していたが、後に肝付氏の分家が加治木城主となる。その子孫である肝付兼演は島津貴久についたために、貴久と敵対していた菱刈隆秋、蒲生範清らの猛攻撃を受けることとなる。兼演は加治木城に籠城してこの攻撃に耐え、また貴久も息子の義久、忠平(後の義弘)らに菱刈・蒲生氏側に付いていた祁答院氏の城・岩剣城を攻略させたため、菱刈・蒲生氏らの撃退に成功する。

その後、肝付氏は島津氏の重臣となり加治木城を発展させたが、文禄4年の太閤検地により所替えをさせられ、喜入へと移住していった。その後、加治木は豊臣秀吉の蔵入地となる。このころの加治木城の状況は明らかではない。
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加治木城の口コミ情報

幻撃923立花飛騨守統虎様[2017年05月17日]
九州道の加治木インターチェンジを境に県道55線を北上して見える高台が加治木城跡です。現在は住宅地となっており案内板があります。
逆に南下すると島津義弘公の終焉の地である加治木館跡(現在は加治木高校、加治木護国神社、柁城小学校)があります。

加治木城の北側には網掛川が流れ、日本百名瀑として名高い龍門滝があります。
滝下の龍門滝温泉と、滝上の展望台から迫力満点の瀑布を観ることができます。
島津義弘公もこの滝を観ていたかと思うと感慨深い場所です。

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