松坂城
松坂城([蒲生城 周辺城郭])
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松坂城の口コミ情報
2025年10月04日 龍馬備中守【】
鹿児島県姶良市の蒲生町米丸にある【大隅松坂城】♪大隈松坂城は、後郷川とその支流の2つの河川が合流する地点に立地します。大隈松坂城の西側と東側は、川が削った深い谷となる要害を成しています。この城は、蒲生城と祁答院方面を繋ぐ重要な軍用道路として、重要な城でありました。大隈合戦では激戦の地となった、大隈松坂城です。この大隈合戦は薩摩国内において、島津家の戦国大名化を担った戦いと言えます。天文23年(1554年)島津貴久は大隅国始羅郡の攻略に乗り出します。これは蒲生範清・祁答院良重らが、加治木城を取り囲んだ事をキッカケに起こった出来事です。
話をさかのぼります。この少し前の薩摩国内は、『三国騒乱』の世となっていて、出水城の薩州島津家、清水城の島津本家、田布施城・伊作城の島津相州家の、島津三家が覇権を争っています。大永6年(1526年)島津勝久は、本宗家の養子に、島津貴久(相州家)を迎える事になります。島津勝久は当時、若年の為、島津本宗家は弱体化していました。天文19年(1550年)まで、島津貴久は鹿児島城に安住出来ていませんが、この間に田布施城から伊作城、一宇治城と、一歩一歩所領を拡大していく中で、彼らは戦国家臣団を創出していきました。
天文19年(1550年)島津貴久は本格的に鹿児島へ入部し、新たに平城の内城を築き、これを本拠として、戦国大名としての地位を確立していきました。戦国大名としての、島津家の誕生となります。この内城は、過去にpostしていますが、領国経営向きの城で、大隅、更には日向の地に睨みを効かせます。まず、薩隅境の蒲生城主・蒲生氏を弘治3年(1557年)に降します。その長きに渡る戦いの一コマが、大隈合戦なのであります。
天文23年(1554年)この出陣で、島津貴久は手始めに岩剣城(岩剣城の戦い)を囲んでいます。蒲生氏、祁答院氏は加治木城の囲みを解いて、島津方に向かって来るも、島津方はこれを叩き、岩剣城を陥落させています。この戦いは島津義久、義弘、歳久の初陣であり、また、鉄砲が日本史上初めて実戦で使われた城とも云われています。
天文24年(1555年)祁答院良重の守る帖佐本城を落としきり、島津氏は帖佐を制圧し、そこから更に蒲生範清の本拠地である、蒲生城の攻略に掛かっています。蒲生氏の蒲生城は堅城で、島津貴久は蒲生属城を潰して、孤立化を狙いました。
そして、いよいよ大隈松坂城に迫ります。弘治2年(1556年)島津貴久は、大隈松坂城に軍勢を派遣。大将に、島津貴久の次男である島津忠平(後の島津義弘です)、更に梅北国兼も出撃し、島津忠平を補佐するも、この戦いでは大隈松坂城を落とす事は出来ませんでした。
同年に再び、島津氏は大隈松坂城を攻めます。今度は島津貴久も後詰として帖佐に陣取り、島津義辰(後の島津義久です)も大隈山田城に入城。本隊の島津忠平・梅北国兼が西の口から攻め込み、また、島津忠将(島津貴久の弟です)が野首口より、島津尚久が水の手より、攻め立てました。つまり総攻撃です。松坂城は陥落し、城将中原加賀守以下、百余人が戦死とあります。
『一(前略)松坂城を被攻砌に者、爲先手忠平様(義弘)之御人衆、大手の口に押寄て、梅北宮内左衛門尉と名乗て眞先に切て入り、板城戸を打破りける処に、寄手の兵もの落合てかぎはしを取り懸て、彼の城戸を引崩す、其時に梅北方者きどより下に打敷る、是を見て引退んとせし間に、御大将忠平様の切て入せ給へハ、爰をせんとゝ防戦す、この場をも被切崩、敵の兵もの打烈て詰之城にそ引き籠る、彼城主中村父子三人者進出て防ぎ戦ふ処、渋谷の兵物廿騎計我先にと指合て、(後略)』長谷場越前自記より。
大手口での壮絶な戦いが、激しく描写されています。
翌日には、島津忠平が漆攻め(姶良市蒲生町漆です)で切手園に陣を張り、祁答院氏の軍勢も破りました。更に島津軍は、蒲生城の周囲に布陣して圧力をかけます。弘治3年(1557年)北村(姶良市蒲生町北です)を制圧しました。蒲生城は孤立してしまい、菱刈陣も島津氏の総攻撃を受け、遂には蒲生範清は降伏を申し出を行い、蒲生城は陥落しています。
城郭には、現在も林道として使用されている切通しが、南九州型城郭らしさを見せます。
本丸西側には『機落とし』と呼ばれる場所が残ります。城兵の妻子が機織り機を落とし、応戦したとも伝わっています。









