新城
新城([平山城 周辺城郭])
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新城の口コミ情報
2025年09月20日 龍馬備中守【】
鹿児島県姶良市の三拾町にある【帖佐新城】♪シラス台地が造り出した絶壁は、圧倒的な防御線となります♪ソコに空堀と来たら、鬼に金棒状態です♪こんなクレイジーな城が、そこかしこにある♪南九州型城郭は凄まじい、の一言です♪
帖佐新城は新城という小字名を残します。その他、残る字名として…屋敷ヶ迫や、陣ノ尾などが残ります。特に陣ノ尾は、この帖佐新城の一帯が戦場となった際の名残りでしょう。また、馬洗い場といわれる箇所もあり、その城域は中々広大だった事が考えられます。
帖佐新城は、三拾町の北西に延びた山中に存在します。眼下には姶良平野が広がり、蒲生川が錦江湾に流れます。山裾には、蒲生・加治木を結ぶ県道、川内・加治木線と、山田・北山へ通じる県道、下手・山田・帖佐線が走り、現在でこそ県道となり、アスファルトが引かれていますが、当時もまた、交通の要衝として、薩摩街道大口筋(人吉街道)と薩摩街道高岡筋(日向筋)、更に間道脇道があったのでしょう。でなきゃこれだけ異常な城郭にはなりません。
和銅6年(713年)日向国の一部を割いて、大隅国が設置されました。朝廷による支配に対して、薩摩の先住民である隼人族が抵抗した為、豊前国から住民を移住させ、桑原郡を建てました。これが現在の姶良市にほぼ相当します。和名抄によれば、移住させた先として大分(おほきた)・豊国(とよくに)・答西(てふさ)という地名があったとされ、このうち大分は北山、豊国は豊留、答西は帖佐に比定する説があります。日本後紀には、古代の駅伝制において、大隅国蒲生駅と薩摩国田尻駅の間が長すぎる為、延暦23年(804年)薩摩国櫟野村に新たな駅を設けたという記述があります。これが『蒲生』という言葉が文献に現れる初見で、帖佐新城と隣接し、後に争う蒲生氏は、この地名から来ています。その後、この地については、郡司として支配した大蔵氏一族の事、文永の役を受けて博多湾周辺などに防備の為の元寇防塁を整備した事(大隅国在庁石築地役配符)や、南北朝時代の事などありますが、長くなるので、割愛します。
さて、この帖佐新城は、城としての築城は遅くて、大永6年(1526年)帖佐地頭筑前守忠直が築き、その後、島津昌久、伊地知重辰が在城した城と云われます。弘治3年(1557年)頃には、島津氏と蒲生氏、祁答院氏との抗争が発生し、帖佐新城一帯が主戦場になっていたと伝わります。その後、この地は薩大日の三州を統一した島津氏が領地して行きました。









