立石城(たていしじょう)

立石城の基本情報

通称・別名

所在地

大分県別府市南立石本町

旧国名

豊後国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

大友義統

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

高崎山城(大分県大分市)[6.5km]
日出城(大分県速見郡)[10.9km]
賀来館(大分県大分市)[12.4km]
府内城(大分県大分市)[14.4km]
鷲ケ城(大分県大分市)[15.2km]
上原館(大分県大分市)[15.3km]
大友館(大分県大分市)[15.4km]
津守館(大分県大分市)[16.6km]
佐田城(大分県宇佐市)[19.2km]
杵築城(大分県杵築市)[20.8km]

立石城の口コミ情報

2022年07月16日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
貴船城[立石城  周辺城郭]



「大分の中世城館」には、模擬的な天守があるが、現状では遺構は確認できないとありました。

また、ネットのHPによると源為朝が築いた砦として伝えられているそうです。

2022年07月16日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
飯盛城[立石城  周辺城郭]



「大分の中世城館」では、別称が由布山城で、文書上の名称が由布城となっています。
久寿年間に、源為朝が築いたと伝えられるとありました。

2022年03月19日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
七つ石[立石城  遺構・復元物]



石垣原の戦いの激戦地です。その名の通り大きな石が七つありました。
近くの南立石公園も石垣原古戦場となっていましたが、そこにも大きな石が幾つもありました。
ひょっとしたらこれらの石は鶴見山が噴火した時に点在したのかもしれません。

奥に温泉もありました。地元の方が利用する小さな公衆浴場という感じです。

敷地面積も狭く、一応駐車場もありましたがほぼ1台分しかありません。

ちなみに他の場所にあった写真にある石垣原古戦場跡の石碑がここに移設されている感じです。

2022年03月19日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
黒田如水本陣跡[立石城  碑・説明板]



現在は公園として整備されています。
駐車場はありませんので他の車の交通を妨げない所に路駐する感じです。

本陣跡としての石碑は立派ですが、石垣原の戦いに関する説明板等はありませんでした。
興味深いのは黒田軍の本隊の陣所なのに、松井康之の陣所の方が実相寺山にあってそこから見下される位置関係にあるという点です。
ひょっとしたら黒田官兵衛の足が悪いので、山頂に陣を敷くといざという時に退却が難しいということでここに陣取ったのかもしれません。

この石垣原の戦いの陣所跡を全体的に観ると、大友方の石碑の方が凝っています。
やはりこの地が大友氏の本拠の豊後だからでしょうか。

2022年03月18日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
松井康之・有吉立行陣跡[立石城  碑・説明板]



実相寺山の頂上が陣所跡となっています。

とても見晴らしがよく、大友義統の本陣や吉弘統幸の陣所、そして宗像掃部の陣所もよく見えたと思いますが、残念ながら現在は木があるので、敵方の陣所の方面(杉乃井ホテルがある方面)は観えにくくなっています。

車で直ぐ側まで登れますし、車も停めれます。

2022年03月18日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
犬の馬場(時枝平太夫陣所跡)[立石城  碑・説明板]



駐車場はないので、松井康之陣所跡のある実相寺山の入口の比較的広い所に車を停めれると思います。

籔の中にひっそりとありますので見落としやすいかもしれません。

石垣原の戦いの当初は、大友軍が優勢で中でも吉弘統幸軍の働きによって黒田軍は総崩れになりここまで撤退したようです。

2022年03月18日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
吉弘統幸の墓[立石城  碑・説明板]



吉弘神社の裏側にあります。よく整備されていて大切にされていました。

叔父の高橋紹運や従兄弟の立花宗茂ほどは有名ではありませんが、豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞賛され、『黒田家譜』にも「吉弘統幸がごとき真の義士は、古今たぐいすくなき事なり。」と絶賛され、『豊後陣聞書』でも「日頃より情が厚く、武の道に達しており、大将の器たる人物である。」と記載された武将です。

主君が大友義統でなければ無駄死にせずに済んだでしょうし、良い主君や活躍の場がさらにあれば立花宗茂のように愛された武将として有名だったかもしれません。少なくとも大分県内で一番愛されている武将かもしれません。

石垣原の戦いの激戦地である七つ石にある説明板の一つに大分県内で唯一祀られている武将とありました。

2022年02月17日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
宗像掃部陣跡[立石城  碑・説明板]



大友義統の家臣宗像掃部の陣跡です。大友方の陣跡の中ではかなりシンプルでした。しかし、吉弘統幸の陣跡と同じように、宗像掃部の陣跡もかなり見晴らしの良い立地にありました。黒田官兵衛たちの動きも直ぐに察知して動くことの出来そうな良い所に陣営を敷いたように思えます。

大友義統の本陣の近くに陣営を敷いているので、どちらかというと吉弘統幸とは違い、義統を守ることに重きを置いた位置関係のように感じます。

2021年11月28日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
大友浜脇館[立石城  周辺城郭]



二度目の攻城の際にやっと辿り着けました。一度目は攻め口に迷った挙句、結局夕暮れ時となり一旦退却しましたが、今回はしっかりと攻め口を調査して辿り着けました。

この大友浜脇館は二階崩れの変が起きた時に、大友義鎮(宗麟)が滞在していたとされる館です。義鎮はここに湯治に来ていた、或いは幽閉されていたとも云われている地です。

仮に説の1つとして挙げられている義鎮黒幕説が正しかった場合ですが、ここから大友館の方を見ることが出来たように感じますし、狼煙のような合図があったとすれば、それははっきりと確認出来る地だったとは思います。

この地は墓地になったり、公園になったりと改変が激しいので遺構は残っていないと思われますが、現在は廃校となった中学校の石垣があり、それとなく面影のようなものを残しているように見えました。

どちらにしても息子の義統が石垣原の戦いへの出陣の際にこの館を焼き払うという愚かな行動に出ているので、それが無ければ土地の改変をされずに貴重な史跡として遺構が残されたかもしれません。

2021年07月16日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
ふいが城[立石城  周辺城郭]



残念ながらこの城跡は九州横断自動車道の建設に伴い遺構が破壊されていますが、「大分の中世城館」にふいが城の説明がありましたので以下にご紹介します。以下の記述からすると、遺構が残っていないのが残念でなりません。

<<立地>> 別府市街地の扇状地を望む鶴見岳や硫黄岳の火山群から東に張り出すように延びる丘陵の先端部にあり、小さな独立した山の頂上の北東隅に立地していたようです。標高は390mほどで、湯山の集落とはあまり比高差はないものの、一度谷に下るため実際は70mほどの比高差となるようです。場所は、高原地帯を通って豊前や玖珠方面に抜けるルート上にあったそうです。

<<現状>> 大分自動車建設工事に先立ち発掘調査が行われ、調査後主要部は破壊されてしまっているようです。

<<構造>> 山頂部は150m四方ほどの平坦面があるが、城は内東側のピーク部分を利用して造られていたようです。最高所を「L」字状に横堀で囲み、東西44mで南北28mほどの平場(曲輪)を形成していたそうです。横堀は、幅6~8m、深さは2~3.5mある大きなものだったみたいです。堀の外側には盛土が認められ、土塁が構築されていたと考えられていたようです。堀は一度掘り直しされているが、規模は拡大されていなかったそうです。曲輪は北側に三段の帯曲輪を有していたみたいです。全面調査されたようですが、建物は確認されていないようです。出土遺物は少なかったみたいですが、堀の構築は14世紀中頃から後半、掘り直しは15世紀から16世紀前半とされているようです。

<<歴史>> 同時代史料には記載が無く詳細は不明みたいです。しかし、位置から別府市北部に広がる竈門荘の地頭竈門氏との関係を想定できるとありました。一般に横堀の発達が戦国期後半であることからすればやや突出した時期となるようですが、南北朝期における小城郭の一類型として貴重な存在だったようです。

2021年06月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
石垣原古戦場[立石城  碑・説明板]



激戦区の1つのようです。もう1ヶ所「石垣原古戦場」がありますが、そこは住宅地なのと私有地に石碑を昔建てていたようですが、何らかの理由で更地になっています。
しかし、この地は公園となっているため、合戦当時の様子を想像しやすいかもしれません(地形等の変動は定かではありません)。しかもそれなりの広さの公園ですので散策すると爽やかさも感じられるかもしれません。また道路を挟んだ向かい側に「古戦場薬局」という名の薬局があり、ここが古戦場だということを嫌でも思い起こさせる地となっています。
駐車場も整備されているので立ち寄りやすいと思います。説明板も駐車場から公園奥に進むと直ぐ発見出来るかと思います。
その説明板には各所の陣跡等も紹介していますので参考になると思います。

2021年06月12日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
立石城

アプリ上のお城マークは大友義統本陣跡の奥に設定されていますが、そのまま道なりに行くと神社に行き当たります。その駐車場に車を停めれるようですが、お城マークまでのしっかりとした道はありませんでした。

駐車場の隣の敷地に神社とは別の駐車場があり、その脇道を進むとお城マークまでたどり着けれるかもしれませんが、草木が伸びていて雨も降っており、マダニ、マムシ等の対策を講じていなかったため奥に進むのは断念致しました。

その脇道には石垣が少々見れましたが、多分遺構ではないと思われます。

2021年06月11日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
吉弘統幸陣所跡[立石城  碑・説明板]



吉弘統幸の陣所跡の方が大友義統の本陣跡よりも大切にされているように感じました。
やはり知られている人柄がそうさせているのでしょうか、「軍師官兵衛」の影響も大きいのかもしれません。
しっかりと整備が行き届いていました。

写真では草木が伸びていて分かり難いかもしれませんが、石垣原方面が良く見渡せる場所でした。

別府には城がないに等しいですが、この陣所跡は 別府を訪れた際に行って見るのも良いかもしれません。


2021年06月11日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
大友義統本陣跡[立石城  碑・説明板]



駐車場ですが、奥に進むと神社があり、そこに停めれますが、そこまでの道幅はかなり狭いです(^^;
私の腕では軽自動車が限界です(^^;

周囲は住宅等ですので陣跡の雰囲気はありませんが、義統とはいえ流石大友家の主、記念碑は立派なものでした。



2021年05月12日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
大友浜脇館[立石城  周辺城郭]



「日本城郭大系」によると、浜脇中学校が建っている地にあったと言われているそうです。
二階崩れの変があった頃に大友義鎮(宗麟)がここに幽閉されていたとも考えられているみたいです。
慶長5(1600)年、大友義統が石垣原合戦に出陣する時にこの館を焼き払ったようです。

立石城の周辺スポット情報

 七つ石(遺構・復元物)

 黒田如水本陣跡(碑・説明板)

 吉弘統幸陣所跡(碑・説明板)

 大友義統本陣跡(碑・説明板)

 松井康之・有吉立行陣跡(碑・説明板)

 犬の馬場(時枝平太夫陣所跡)(碑・説明板)

 吉弘統幸の墓(碑・説明板)

 石垣原古戦場(碑・説明板)

 宗像掃部陣跡(碑・説明板)

 大友浜脇館(周辺城郭)

 ふいが城(周辺城郭)

 貴船城(周辺城郭)

 飯盛城(周辺城郭)

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