高崎山城(たかさきさんじょう)
高崎山城の基本情報
通称・別名
- 高崎城、詰城、竹崎城、高崎御要害
所在地
- 大分県大分市大字神崎
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 阿南推家
築城年
- 建久2年(1191)
主な改修者
- 大友氏時
主な城主
- 阿南氏、大友氏
廃城年
- 文禄2年(1593)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
賀来館(大分県大分市)[6.0km]
立石城(大分県別府市)[6.5km]
府内城(大分県大分市)[8.2km]
上原館(大分県大分市)[8.9km]
大友館(大分県大分市)[9.0km]
津守館(大分県大分市)[10.1km]
鷲ケ城(大分県大分市)[10.2km]
日出城(大分県速見郡)[12.8km]
鶴崎城(大分県大分市)[15.7km]
鶴賀城(大分県大分市)[19.1km]
高崎山城の解説文
[引用元:Wikipedia「高崎山城」の項目]
高崎山城(たかさきさんじょう)は、大分県大分市の高崎山にあった日本の城。高崎城とも呼ばれる。
概要
豊後守護であった大友氏の詰城である。海から屹立する高崎山の山頂に築かれた山城で、難攻不落の堅城として知られた[1]。当時、府内の中心部には大友氏の居館である大友氏館や上原館があるのみで堅固な城郭はなく、戦時にはやや離れたこの城に拠ることが多かった。
現在、山頂付近には、主郭等の曲輪や土塁をはじめ、狼煙台様の遺構が残っている。また、南側山腹には、18条の竪堀が掘られたとされ、その遺構も残っている。
歴史
高崎山は四方を見極めることができることから、古くは四極山(しはつやま)と呼ばれ、奈良時代には烽(とぶひ)が置かれた。
高崎山城は、伝説によれば、平安時代末期に安倍宗任によって築城されたという。鎌倉時代初めに大友氏が豊後に下向した際には、在地武士の大神氏一族がこの城を拠点に激しく抵抗したとされる。
文献での初出は正平4年/貞和5年(1349年)。正平13年/延文3年(1358年)に大友氏第8代当主大友氏時によって本格的に整備された。
南北朝時代には九州における北朝方の拠点として、南朝方の菊池氏との数多の戦いの舞台となった。建徳2年/応安4年(1371年)7月には、北朝方の九州探題今川了俊の命により、嫡男の今川貞臣、田原氏能がこの城に入城。この年の8月から翌建徳3年/応安5年(1372年)正月にかけて南朝方の菊池武光・武政勢と攻防を繰り広げた[2][3]。
永正15年(1518年)、第20代当主大友義鑑に対して叛旗を翻した朽網親満はこの城に立て籠もったが、佐伯氏らに追われて玖珠郡に逃走した。
天正14年(1586年)の島津氏の豊後侵攻の際には、第22代当主大友義統は戸次川の戦いに敗れると、退却の途上でこの城に入城し、さらに豊前竜王城へと敗走した。
この城は文禄2年(1593年)の大友氏改易後に廃城とされた。その石材は、福原直高による府内城築城に用いられたという。
参考文献
- 大分放送大分歴史事典刊行本部編『大分歴史事典』大分放送、1990年
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 44 大分県』角川書店、1980年1月
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高崎山城の口コミ情報
2022年04月26日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
高崎山城
城跡というよりも主に登山道として整備していますので、主郭のある山頂までの傾斜は緩やかで登城しやすいです。飲み物さえあれば軽装で十分主郭まで行けます、事実手ぶらで登っている方も実際にいらっしゃいました。
駐車場も2か所あり、狭い道の運転が苦でなければを登城口に車を停めれます。
高崎山城は大友氏の詰城となります。ですから武田氏に例えればここは要害山城です。なので、それなりに期待して攻城しましたが…冒頭でも記載した通り整備の仕方は登山道です。
高崎山城についての説明板を幾種類か設置することよって山城であることをアピールしていましたが、竪堀は凹凸が判別し難く、高崎山城の醍醐味の1つである幾重にも連なる曲輪群もほとんど分からない感じの整備の仕方でした。
曲輪の位置や説明はなく、木々で遮られていた感じでした。全てとはいかなくてもそれぞれの曲輪に行く事が出来れば…という個人的には残念な整備の仕上がりでした。
遺構として分かり易かったのは櫓台と狼煙台、そして主郭を囲む土塁ぐらいでした。しかしそうであっても流石は大友氏の詰城、そう簡単に落城させる事は出来ないと思います。落とせるとしたら織田信長と豊臣秀吉ぐらいではないかと思います。
登山道の道筋は、平城で例えるなら外堀の外苑を廻って、いきなり本丸に辿り着くという感じでしょうか。
ただやはり主郭からの眺めは圧巻です、絶景です。私が登城した時は午後だったにも関わらず偶然にも眼下に雲海が広がっていました。
ちなみにタイミングによっては主郭等に猿がいることもあるようですのでお気をつけください。
2022年04月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
古城播磨守大友著景の墓[高崎山城 碑・説明板]
大友著景の墓とありました。裏を見ると13代当主と表記してありました。
2022年04月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
駐車場[高崎山城 駐車場]
車のサイズにもよりますが8台程は停めれると思います。但しここまでの道は狭いのでお気をつけください。
2022年04月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
簡易トイレ[高崎山城 トイレ]
1日に50回ほど処理できるトイレとありました。
2022年03月17日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
下黒野(西地区)遺跡[高崎山城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、16世紀代の一辺約50mの方形館検出とありました。
2022年03月17日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
宮苑遺跡[高崎山城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、発掘調査により13世紀代館跡発見とありました。
2019年06月30日 戸次豊前守紹運亮幸盛
高崎山城
銭瓶峠の交差点から東に100mほど行くと、ただっ広い所があり、そこから高崎山の方向に延びる細い道があります。運転に自信のない方はその広い所に停めて歩いたほうがいいかも。で、細い道を1キロほど行くと駐車場があります。看板が3つほど並んでいる所が登山道の入口です。途中旧登山道との分岐もありますが幅の広い新登山道のほうがいいと思います。新登山道では草木を刈っていれば畝状竪堀群が見られるかもです。駐車場から40~50分で頂上の本丸跡に着くと思います。石垣はほとんど残っていません。小さい土塁は確認できますが、遺構はほとんどありません。若干木に遮られていますが展望はいいです。
高崎山城の周辺スポット情報
櫓台(遺構・復元物)
櫓台(遺構・復元物)
櫓台(遺構・復元物)
狼煙台(遺構・復元物)
古城播磨守大友著景の墓(碑・説明板)
宮苑遺跡(周辺城郭)
下黒野(西地区)遺跡(周辺城郭)
簡易トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)