鶴崎城(つるさきじょう)
鶴崎城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大分県大分市南鶴崎3
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 吉岡長増
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 吉岡氏
廃城年
- 江戸時代
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
大友館(大分県大分市)[7.0km]
津守館(大分県大分市)[7.5km]
府内城(大分県大分市)[7.5km]
上原館(大分県大分市)[7.5km]
賀来館(大分県大分市)[12.7km]
鶴賀城(大分県大分市)[13.0km]
水賀城(大分県臼杵市)[14.5km]
高崎山城(大分県大分市)[15.7km]
烏帽子岳城(大分県大分市)[15.8km]
臼杵城(大分県臼杵市)[16.6km]
鶴崎城の解説文
[引用元:Wikipedia「鶴崎城」の項目]
鶴崎城(つるさきじょう)は、大分県大分市鶴崎にあった日本の城。大友氏家臣の吉岡氏の居城であった。
概要
室町時代後期に、大友義鑑・大友義鎮(宗麟)に仕えた吉岡長増(宗歓)によって築城されたと伝えられている。天正14年(1586年)の島津氏の豊後侵攻の際に、長増の子・鑑興の妻であった妙林尼が智謀を用いて籠城を続けたことで有名。
江戸時代に入ると、鶴崎は熊本藩の所領となり、この城は廃城とされた。跡には熊本藩鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたった。熊本藩主が参勤交代で江戸へ向かう際には熊本城から鶴崎御茶屋へ入り、鶴崎から海路で大坂へ向かっていた[1]。
近年、大分市立鶴崎小学校、大分県立大分鶴崎高等学校の校地から遺構が発見されており、大野川と乙津川に挟まれた水上交通に利便な地にあったことが確認されている。
関連作品
- 赤神諒『妙麟』(光文社、2019年7月17日)ISBN978-4334912963(鶴崎城防衛戦を題材とする小説)
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鶴崎城の口コミ情報
2022年04月29日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
乙津川古戦場跡[鶴崎城 碑・説明板]
島津軍が吉岡妙林尼の策略によって大敗した乙津川古戦場跡に建つ石碑です。樹木に覆われるようにして道路脇に建っているので、近づかないと見落とすと思います。
2022年03月18日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
猪野新土井遺跡[鶴崎城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、溝で囲まれた堀立柱建物跡多数検出とありました。
2022年03月18日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
猪野・中原遺跡[鶴崎城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、幅2mの溝で囲まれた南北50m、東西40mの館跡で、南に張り出し部を持ち、内部から堀立柱建物群、地鎮跡など16世紀代の遺構検出とありました。
2021年05月23日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
延岡藩千歳役所[鶴崎城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、延岡陣屋として紹介されていました。
代官所をこの地に設けて、豊後国内領地からの年貢取り立てを始め、各地に置いた子侍や足軽の支配に当たったとありました。
2021年05月04日 【龍勢屋】ドン・ティ
延岡藩 千歳役所跡[鶴崎城 碑・説明板]
近世になり鶴崎は肥後藩領そして、ここ千歳は延岡藩領となりました。
2021年05月04日 【龍勢屋】ドン・ティ
千歳城[鶴崎城 周辺城郭]
千歳児童公園と周辺の宅地はかつて、千歳城があったとされます。
千歳城は大友能直(大友氏初代)の孫、野津頼宗を始祖とする吉岡氏の居城でした。 のちに、鶴崎城が築城され居城は千歳城から移していますが、 有事の際などの詰城として千歳城を残していたとも考えられてもいます。
2010年11月04日 加藤豊後守清正
鶴崎城
かつてこの場所は、建物が密集し、鶴崎支所あたりと道の反対側に堀と船着き場があったとか、地形も当時のまま。