臼杵城(うすきじょう)

臼杵城の基本情報

通称・別名

丹生島城、巨亀城、金亀城、亀城、亀ヶ城

所在地

大分県臼杵市臼杵1175

旧国名

豊後国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

複合式望楼型[3重4階/1601年築/破却]

築城主

大友宗麟

築城年

永禄5年(1562)

主な改修者

主な城主

大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏

廃城年

明治6年(1873)

遺構

曲輪、櫓、石垣、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(臼杵城跡)

再建造物

大門櫓、石碑、説明板

周辺の城

水賀城(大分県臼杵市)[3.0km]
大友別館(大分県津久見市)[8.1km]
鶴賀城(大分県大分市)[13.2km]
烏帽子岳城(大分県大分市)[13.5km]
久保泊城(大分県津久見市)[16.4km]
鶴崎城(大分県大分市)[16.6km]
栂牟礼城(大分県佐伯市)[17.7km]
佐伯城(大分県佐伯市)[19.7km]
津守館(大分県大分市)[19.7km]
上原館(大分県大分市)[21.0km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)193 臼杵城

設置場所

臼杵市観光交流プラザ[地図

臼杵城の解説文



臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。

概要 

丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。ちなみに丹生島の「丹生」とは「金属鉱石の産出する島」という意味である。義鎮は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。

城には3重の天守と31基の櫓が上げられた。総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱櫓と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった。廃藩後は天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられた。現在、城郭主要部は都市公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存する。

歴史 

戦国時代

15世紀後半、大友氏の16代当主である大友政親が一時的に臼杵に本拠を置いたことが知られている[1]。政親は後に大内義興によって処刑され、本拠地も府内に戻されているが、その菩提寺である海蔵寺は現在の臼杵市内にあった(現在は遺構のみ)。

通説では永禄4年(1561年)、毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮は、翌永禄5年(1562年)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされている。だが、1557年10月29日に宣教師のガスパル・ヴィレラからイエズス会に送られた書簡(『耶蘇会士日本通信』)には家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移った事が記されており、その後永禄年間初頭までの大友氏関係文書を分析しても義鎮が要人との会談や家臣の呼出を臼杵において行っており、そのまま「在庄(庄=丹生島がある臼杵庄)」していた可能性が高いことが裏付けられる[2]。従って、具体的な時期を断定する史料は存在しないものの、義鎮自身は弘治3年(1557年)前後には臼杵へ拠点を移していたと考えられている。府内では既得権益が障害となり、大友氏が十分な経済的権益を確保できなかったが、新たに臼杵に本拠を移すことで、臼杵の湊と城下町が一体化した経済都市を創り出し、安定的に直接支配する体制を構築しようとしたと推測されている[3]

ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設が建立され城内には礼拝堂もあったとしている[4]。その後、田原親貫の反乱鎮圧のために天正7年(1579年)から2年ほど府内に政庁を戻しているものの一時的な措置であり、大友氏の改易まで臼杵に本拠地が置かれていたと考えられている。

天正14年(1586年)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。その翌年、大友義鎮は死去した。

近世

文禄慶長の役にて、義鎮の嫡子義統が敵前逃亡の咎を受けて改易処分となり、かわって石田三成の妹婿である福原直高が3年の間居城。

慶長2年(1597年)太田一吉が入城して、城下の復興や城の近世城郭化が行われ、城の北西部の祇園洲に三の丸を増築し大手門を現在の場所に移すなどの大改修が施され、現在のような姿となる礎を築いた。

関ヶ原の戦いの後、慶長5年(1600年)に美濃国郡上八幡より5万石で稲葉貞通が入封、その子稲葉典通と2代にわたって修築が行われ現在のような姿となった。稲葉貞通入城以降、明治維新まで、稲葉氏15代の居城となった。

近現代

1873年(明治6年)には城内の建物が一部を残して払い下げて撤去された。1877年(明治10年)6月1日、(西南戦争豊後方面の戦い)野村忍介指揮する薩摩軍奇兵隊の進攻に備えて、旧臼杵藩の家老であった稲葉頼が臼杵隊を組織して臼杵城に篭城。奇兵隊の襲撃に抵抗するが臼杵城は落城し臼杵は薩摩軍に占領される。6月7日、新政府軍から4個大隊と軍艦3隻の援軍が送られて、6月9日臼杵城を奪還。薩摩軍は熊田に撤退した[5]。1887年(明治20年)には城の周囲の海が埋め立てられた。

1966年(昭和41年)には大分県の史跡に指定された。2001年(平成13年)、二の丸大手門に当たる大門櫓が木造で復元された。2017年(平成29年)には続日本100名城(193番)に選定された[6]

天守 

天守は、3重4階で平面規模は6間四方(6尺5寸間)、高さは天守土台から6間1尺あった。外観の形状については詳らかではないが、各時代の城絵図ではさまざまな姿が描かれ、寛永年間に作成された臼杵城絵図の天守は望楼型のように描かれ、17世紀半ば以降の臼杵城天守は層塔型のように描かれている。複合式または連結式で、絵図によって異なるが、2重のかぎ型の多聞櫓と1棟の二重櫓を描いてあったり、二重櫓を3棟描いてある描写もある。延宝年間の指図では東側に5棟の付櫓平面が連なるように描かれている。

2007年(平成19年)度に臼杵市教育委員会が行った本丸天守台の発掘調査によって、石垣構造や整地層包含遺物から天守台石垣が文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)の間に築かれたものであることがわかった。この時期は臼杵城天守が建造された時期と重なる。また、明暦元年(1655年)には「天守御修理成」(『温故年表』)とあるが、天守台石垣もこの改修の際に一部積みなおした痕跡があり、天守の修理は大規模なものであったことがうかがえる。

関連作品 

・赤神諒『大友の聖将』(角川春樹事務所、2018年7月14日)ISBN 978-4758413268(丹生島城の戦いを題材とした小説)

参考画像 

臼杵城の口コミ情報

2022年05月08日 ジョウ肥後守
臼杵城

大手口側入口が工事中のため、別のイリからの登城になります。

2022年05月02日 ちょび越前守
臼杵城



2022.5.2登城しました。先人様の情報通り臼杵市観光交流プラザに駐車出来ます

また観光交流プラザでこれから登城すると声をかけたところ臼杵城のパンフレットを頂き現在、古橋口〜畳櫓まで通行出来無いので、こちらからと丁寧な説明を
(期間は確認してません)

これも先人様の情報通りなのですが二之丸まで車で上がれます。地元の方々の交流の場になってるようで車もかなりの数、駐車されてました。警戒せず歩いていたら私、地元淑女の軽トラに討ち取られそうになったので二之丸は地元の方の交流の場の認識でお気をつけて下さい

2021年12月29日 薩摩刑部少輔義弘維新斎
臼杵城



この城は、大友宗麟が臼杵城の前身である丹生島城として築城したのが始まり。
生憎の雨で遺構は、見える範囲で確認。歴史を感じる石垣が秀逸で、大友宗麟とも関係するため続日本100名城に選定されたことが理解できる。

2021年08月01日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
黒島城[臼杵城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には、若林水軍の城と言われており、岬先端に位置し、古墳墳丘を櫓台として利用していた可能性があるようです。
「日本城郭大系」では、黒島海賊城として紹介されていて、若林水軍は臼杵氏の配下とし、船溜まり・石垣が残るとありました。

2021年07月22日 KAZ中務卿正勝
天守台石垣[臼杵城  遺構・復元物]



元々は7mの高さがあったらしいです。大きめの石で算木積みでは無くかなり古い時期の石垣との事です(^-^)僕の訪問時は草がいっぱいですが近づくとよくわかります

2021年05月30日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
臼杵城

二ノ丸まで車で行けますが、駐車して良いかは分かりません。どちらにしてもやはり大手口からの登城が雰囲気を味わうにはベストかと思います。

登城の時期ですが、「桜まつり」の頃は人によっては微妙かもしれません。
桜は確かに綺麗ですが、駐車場を見つけるのが困難なのと、やはり人が多いのでゆっくりじっくり観察するのには少し不向きかもしれません。
何よりも屋台が二ノ丸に多く出ているので城の雰囲気を楽しむには少し…という感じになるかもしれません。私はその時期に登城したので、イベントが何もない時にまた行ってみたいと思っています。
というのは「日本城郭大系」に面白い記述があったからでもあります。臼杵城は将軍足利義輝の許可をもらって築城したようで、一説によると大友氏で軍師をしていた角隈石宗と、当時浪人だった明智光秀らが縄張りをしたとありました。とても興味深いです。
また石垣には十字章やHやLなどのアルファベットが刻まれたものもあるようです。

調べてみてより好きな城になりました。

2021年03月24日 天河水宮内卿
臼杵城

昼から大分市で用事があり早朝にリア攻め。地元の方々の散歩コースのような感じで、咲きはじめの桜をついでに見ているような人達が何組かおられました。海側まで歩けば元は海城のイメージは十分掴めます。

2020年11月08日 虹雷 大宰大弐 サンダー
臼杵城



少し分かりにくいですが、城址前の広場が観光プラザになっており、その駐車場を利用させていただけます。スタンプもここで。入り口から何やら自然の岩山を加工した階段など、少し変わった作りがとても新鮮です。

2020年09月29日 ( *¯ ³¯)っ旦
臼杵城



周りに高い建物は少なく、元は海城でしたから夕焼けは綺麗だと思います。
しかし完全に日が沈みますと街灯はありますけど、ちょっと怖いかも…
臼杵駅の方へ抜ける階段は手摺りのLEDがチカチカ光って綺麗ですが、足元は暗いですしインスタ映えは全然しませんから
夕焼けから暗くなりだしたら帰った方がいいと思います。

2019年04月21日 シン・白河駅大膳大夫城弾正
臼杵城

大友義鎮の築城について、家臣、小原鑑元の謀反を契機として臼杵に避難して築城したとする見解が一般的(三重野誠『大名領国支配の構造』116頁など)ですが、大友氏の水軍衆上野氏の文書によると天文20年前後、対明貿易上の理由で築城する為、上野氏に軍役を命じた史料が存在し、城の立地条件、役割、から考えても謀反の避難先という消極的な理由ではなく水上交通、対外貿易の拠点として天文20年前後に築城とするのが自然と考えられます。詳しくは『城郭史研究』(38号)鹿毛敏夫論文を参照されたし

2018年05月03日 GAGA大納言百万石
臼杵城

臼杵城は、築城当時は島にありました。
今は海が埋め立てられていますが、当時は臼杵の町と城を繋ぐ橋で移動していました。
近くには、オランダ船リーフデ号が漂着したとされる黒島があります。

かつては複合式望楼型天守がありましたが取り壊され、現在は天守台も立ち入り禁止になっています。

城内にはフランキ砲や、空堀、土橋があります。

本丸から日豊本線が見えます。
望遠レンズがあれば、電車の撮影スポットにもなります。


2017年08月11日 源出雲守ポンコ2…㉓火の車
臼杵城

臼杵駅を出ると石仏のレプリカが迎えてくれます。駅から10分歩くと、案内板などがあり、迷わず東側の卯寅口に着きます。

丘というか岩盤上に石垣とともに建つ卯寅口櫓は、貫禄がある感じです。近くに卯寅口稲荷の赤い鳥居が連なるのを眺めつつ、丘に上がるとまず本丸に着きます。
本丸は東屋や神社、トイレなど散在して少し寂しげな感がありますが、鉄門櫓など周囲の石垣が立派で、特に北の空堀に下りて見る御三階櫓台の石垣は、草に覆われててもその偉容が伝わります。
鉄門櫓付近の土橋をわたると二ノ丸で、こちらはグランドや護国神社、国崩しなとあり、本丸より広く、フォトによく出てくる西側の大手口もこちらになります。
石垣も二ノ丸のほうが立派に見えましたが、より岩盤上に建つ城を感じさせてくれます。ここから国崩しを撃ち込まれたら、島津軍も堪らなかったのではと思わずにいられませんでした。

周囲の散策含め、一時間半滞在しましたが、夏場は水分補給必須です。記憶に残る見応えある城でした。

2017年05月20日 W平八郎北見守鼎衛門
臼杵城

私の県の城跡は草ボーボーの荒れ山となっている所が多いので臼杵城みたいに街の真ん中にあって綺麗に整備されているのは羨ましいです。ついでに城下町を楽しく散策して心が癒されました。醤油ソフトクリームがあるので是非ご賞味下さい。

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
臼杵城

ここは私の好きな城のひとつです。
町に突如エアーズロックじゃないけど、こんもり城が出現します。
昼見ても夜見てもいいですね。
駐車場はあります。
尚、この町には一見した所宿はあまりない様でした。
お城の近くに一軒ありましたが、それ以外道中近くでは見なかった。

この城は正面の入口がいいですね。
夜ライトアップされてる所登るのもいいです。


2017年02月13日 織田上総介晃司
臼杵城

古橋口前の駐車場に停めて、まずは全景を眺める。自然岩の上に現存の畳櫓。そして長塀は5万石の城にしては規模の大きい城に感じる。

駐車場の道中を挟んだ向かいにあるCO・OPのお店で買い物をすると1時間無料になります。

臼杵城から西へ6〜7km行くと、国宝の臼杵石仏があります。
臼杵城とセットでどうぞ

2016年08月15日 ぐっさん^。^)y-
臼杵城

まずは~駐車場ですが、古橋口大手前にパーキングが有りますので(有料)そこを利用しました。
さて、城郭案内図が古橋口の横のトイレ付近に有りますので確認を♪登城前に…本丸・二ノ丸は当時は丹生島と呼ばれた様に島です。現在は埋め立てられて陸続きですが…当時の島だった事を城郭を1周する事で確認出来ます。だが…城郭断壁周りはすでに住宅が並び当時の面影が全て確認出来ないのも事実…悲しい事ですが…近代化には敵わない。(悲)ですが…見応えは有りますよ♪って事で1周しましたら定番ですが…古橋口門から1枚パシャッ♪記念を♪では登城ですが、古橋口門から入ります♪写真じゃよく見る畳二重櫓がお迎えしてくれます♪そして蛇行しまして大門櫓が…そして門を潜りますと二ノ丸に入ります。奥に進みますと…フランキ砲のレプリカが有りその奥に市民の憩い広場が有ります。さらに進みますと本丸入り口黒鉄門跡と堀切が(左側は土塁・右側は石垣)有り右側に進むと稲荷神社及び卯寅櫓が有ります。左側に行きますと天守台石垣が有ります。井戸は稲荷神社の階段を下りたら有りました。あとは…本丸と二ノ丸を1周しますと各櫓台石垣が確認出来ます。

2013年04月13日 加藤豊後守清正
臼杵城

美濃三人衆の一人、稲葉氏が築城しただけあって見事な造り。広大な場所に櫓19,門9基あるのだからいかに重要な場所かわかる。現存する畳櫓や卯虎口門櫓がそれを物語ってる。5万石にしては立派すぎる。

2012年10月02日 
臼杵城

臼杵駅より歩いて10分程、登城ルートは東側の卯寅口と西側の大手口がありますが、岩盤を削った鐙坂を登り、畳櫓に至る大手口からの登城がオススメです。

遺構は本丸の石垣と堀切、畳櫓と卯寅口門脇櫓が残っており、かなり見応えがありました。
天守台石垣は調査の結果、1594年〜1600年の間に築かれたことが確認されたそうです。
また卯寅口にある卯寅稲荷神社には、築城時に大友宗麟公が城の鬼門封じのため建立したとの由緒書きがありました。

その他二ノ丸にある大友宗麟公記念碑の隣に、島津軍との籠城戦の際使用されたフランキ砲“国崩し”のレプリカがあります。ちなみに本物の“国崩し”は東京・靖国神社の宝物館に展示されています。

卯寅口方面からは臼杵湾が望め、天気が良いと海風が心地いいですよ。

2012年09月30日 加藤豊後守清正
臼杵城

ここを治めていた美濃三人衆の一人、稲葉氏は質素倹約の一つとして、黄飯を食べていました。黄飯とは、お米にくちなしの実を入れて炊いたもので、参勤交代の際にもよく食べていたそうです。現在も郷土料理として残っています。
もう一つ、きらすまめしという料理がありこれが一番好きです

2011年08月14日 太政大臣M三郎
臼杵城

臼杵城は、市街地に囲まれていますが、もともとは、周囲が高い断崖となっている丹生島に築かれた城です。島の崖上を本丸、二の丸とし、大手側でのみ平地部と接続されていました。このためか、外向きの石垣は大手方面と海側の虎口付近に集中しています。関ヶ原後のものと思われる石垣は切込接の精緻なもので、見応えがあります。また、大手口の登城路下部は、岩崖を削って設けられたもので珍しく、上部には櫓が残り城門、塀が復元されていますが、蛇行しながら登る白塀がとても素敵です。この城の建物は軒の出の小さい南国仕様です

臼杵城の周辺スポット情報

 畳櫓(遺構・復元物)

 大門櫓(遺構・復元物)

 卯寅口門脇櫓 (遺構・復元物)

 天守台石垣(遺構・復元物)

 二の丸腰曲輪石垣(遺構・復元物)

 今橋門脇櫓跡(遺構・復元物)

 井戸丸(遺構・復元物)

 卯寅口(遺構・復元物)

 鉄門桝形石垣(遺構・復元物)

 天守櫓(遺構・復元物)

 武具櫓台石垣(遺構・復元物)

 佛狼機砲(国崩)フランキ砲(遺構・復元物)

 二ノ丸(遺構・復元物)

 時鐘櫓跡(遺構・復元物)

 古橋口(遺構・復元物)

 臼杵城説明板(碑・説明板)

 黒島城(周辺城郭)

 臼杵市観光交流プラザ(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 大友宗麟公(その他)

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