水賀城(みずがじょう)
水賀城の基本情報
通称・別名
- 水ヶ城、水上城
所在地
- 大分県臼杵市末広
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 臼杵長景?
築城年
- 永正2年(1505)?
主な改修者
- -
主な城主
- 臼杵氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
臼杵城(大分県臼杵市)[3.0km]
鶴賀城(大分県大分市)[10.3km]
大友別館(大分県津久見市)[10.7km]
烏帽子岳城(大分県大分市)[14.5km]
鶴崎城(大分県大分市)[14.5km]
津守館(大分県大分市)[17.0km]
上原館(大分県大分市)[18.3km]
大友館(大分県大分市)[18.5km]
栂牟礼城(大分県佐伯市)[19.1km]
久保泊城(大分県津久見市)[19.3km]
水賀城の口コミ情報
2022年03月31日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
姫岳城[水賀城 周辺城郭]
「大分の中世城館」では、永享7年、豊後国守護大友持直と周防国守護大内持世の戦(姫岳合戦)が行われた舞台で、山頂部に立地する単郭の城郭で一条の堀切があるとありました。
「日本城郭大系」によると、姫岳砦、姫見岳城としても呼ばれているようです。
永享7年5月、大内持世は豊後に攻め入り、敗れた大友持直は府内を逃げ出し、6月29日に姫岳に籠もり、これを大内持世は、幕府より遣わした伊予の河野通久の来援を得て襲撃したとありました。
この時の合戦で、河野通久は大友方の木付城主木付親公と組み討ちして共に戦死したようですが、大友氏の臼杵氏三代親教を始め多数の戦死者を出したそうです。その勝敗は不明のようですが、大内軍は撤退し、河野軍の残党が付近の山中に逃亡して土着したとありました。
幕府は、伊予の河野通久戦死の賞として永享7年10月2日に臼杵荘をその子大正丸(教道)に与えたようですが、以降、大友・河野両氏の臼杵荘をめぐる争いが多年にわたって続いたようです。
そして永享8年4月、大内持世は再び豊後に来襲し、持直の根拠地である姫岳中腹の東神野を攻略し、6月11日姫岳をついに陥れ、持直は逃亡するとありました。
姫岳合戦はここで一応終了したようですが、のち大友持直は根強い抵抗を続けたそうです。
この合戦で大友氏は二分して争い、十三代は幕府公認の親綱が継承したが、十四代は持直の弟親隆が継ぎ、十五代は持直派の親繁が相続、親綱派の親隆の長女と結婚し大友家は一本化することになるとありました。
姫岳はかつて、その周辺村落でさえ"八戸や神野も世界の内か"といわれたほど山と谷の深いへんぴな所で、そんな天然の地形を利用した山城で、人工的な設備はほとんどなかったようです。
ただ籠城戦に耐え容易に落城せず、兵糧にも困らなかったのは、背後の津久見湾からの海賊衆による物資補給があったためといわれているとありました。
2022年03月31日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
若山の陣[水賀城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、古陣跡という別称も紹介されています。慶長5年、岡藩の中川氏と臼杵藩の太田氏の戦いの陣跡の可能性があるようです。丘陵先端部に、直線的に角を有して折れる堀・土塁を巡らせる2箇所の曲輪を持つそうです。
2022年03月31日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
野村台遺跡[水賀城 周辺城郭]
「大分の中世城館」によると、東西500m、南北200mの台地上に館墓地など展開とありました。11~12世紀と13~14世紀代の堀が検出されたようです。
2021年05月25日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
栗山城[水賀城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、城跡がある台地の三方(東・西・南)は深い谷で囲まれていて天然の要害となっているようです。
この城は大友宗麟の家臣である吉田一祐の居館で、天正14(1586)年、臼杵に島津軍が攻め込んだ時、城主は仁王座の切通しに打って出て武功を立て、その後、薩摩の雑兵が臼杵の民家に乱入して、物盗り、乱暴を働いたので全滅させ、大友宗麟はこの褒美として月山の太刀を与えたそうです。
2021年05月21日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
武山城[水賀城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、築城年代などは不明のようですが、天正の役には大友の家臣の実相寺太郎右衛門統国が手兵三百余騎でこの城を守って島津軍と戦ったが、部下に異心ある者が出て落城し、統国は戦死したそうです。
2020年12月10日 榎晴信肥後守
水賀城
標高214メートルの地点に水賀城はあります。北側善法寺側からアプローチできます。鉄塔保守点検用の登山道が城域まであります。
2017年12月13日 カーネル
水賀城
スミマセン。ちょっとだけ続き
本丸から、南と西の尾根に降りましたが、遺構は確認できず
HPには南と北に尾根を分断する大きな堀があるとありましたが、尾根を歩いてきたのに発見できず。写真は頂上の標識を投稿しました
どなたかリベンジお願いします。往復して1時間20分でした
2017年12月13日 カーネル
水賀城
臼杵市のHPに水ヶ城の名で情報があります
「通行困難だけど末広の皿山からなら登山可能」とあります。末広の皿山?と思いつつ、城の北の尾根まで、地理院地図に登山道があるのでこの道で登ることに。山頂までは直線で1.1km
山に入る道は沢の北側に書かれてますが、橋で沢を超えると鉄塔整備の標柱があるので、沢の南側から山に入り、沢沿いに登ります
50mほど高度をあげると鉄塔整備の標柱があり、右折して斜面を登ります。階段があり歩きやすいです。鉄塔を2つ超えた先で登山道は尾根を外れて左へ向かっていますが、我々は尾根から外れてはいけません
ここからシダをかき分けて尾根を登ります。青いペンキやピンクリボンがあるので、助かります
一つ目のピークは一段高い地形と周囲が曲輪の城っぽい地形。でも頂上は、まだまだ先なので先に進みます。頂上の北側尾根は、見通しもよく、土塁っぽい凸もありましたが
遺構とは判断できず。頂上では再びシダまみれ