鶴賀城(つるがじょう)

鶴賀城の基本情報

通称・別名

利光城

所在地

大分県大分市大字上戸次字利光

旧国名

豊後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

利光氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

利光氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

津守館(大分県大分市)[10.3km]
水賀城(大分県臼杵市)[10.3km]
上原館(大分県大分市)[11.9km]
大友館(大分県大分市)[12.5km]
鷲ケ城(大分県大分市)[12.8km]
鶴崎城(大分県大分市)[13.0km]
賀来館(大分県大分市)[13.2km]
臼杵城(大分県臼杵市)[13.2km]
府内城(大分県大分市)[13.8km]
松尾城(大分県豊後大野市)[17.6km]

鶴賀城の解説文

鶴賀城(つるがじょう)は、大分県大分市上戸次字利光にある山城。別名を利光城ともいう。

歴史
築城年代は定かではないが、利光氏によって築かれたとされる。

この地域は、古くは豊後の豪族である緒方一族が治めていた。建久7年(1196)、大友能直が豊前・豊後の守護職として府内に入り、地元の豪族を一掃。孫の大友親家に利光を名乗らせると、以後390年間、利光氏が府内南の要衝として治めた。

天正14年(1586)、九州制覇を狙う島津家久を総大将とした島津軍が、2万余りの大軍で鶴賀城を囲んだ。利光宗魚が率いる鶴賀城側は3,000余の兵で抵抗し、地の利を生かして島津軍の猛攻に耐えたという。しかし、豊臣秀吉から派遣された仙石秀久、長宗我部元親・信親、十河存保らの四国連合軍が戸次川の戦いで大敗。それを受けて、鶴賀城も降伏した。

宗魚は籠城中、物影に潜んでいた島津兵に弓矢で射られて絶命したと伝わる。成大寺に墓がある。

遺構
薩摩・日向から豊後を経由して瀬戸内へ通じる日向道を押さえる、標高194.3mの連山山頂に築かれている。

山頂に主郭を置き、そこから派生する5つの尾根上に曲輪が置かれている。東尾根には二の丸、三の丸、北尾根には穀倉跡、ノロシ台跡などの曲輪がある。

主郭は北端に櫓台のような平場を持つ土塁があり、北側以外は土塁で囲まれている。主郭南西側は、三重の堀切と空堀で尾根を分断。主郭東側の尾根は、鞍部の堀切に土橋が設けられ、主格と通じる虎口につながっている。

主郭東側や南西側の緩斜面に掘られた畝状竪堀が、見どころのひとつ。三の丸の東斜面にも畝状竪堀が見られる。

交通
九州旅客鉄道豊肥本線竹中駅から車で約20分、徒歩で約1時間20分。

参考文献
『戸次川の合戦史跡めぐり 鶴賀城・戸次川の戦い』戸次校区健康といやしの里づくり実行委員会。
『日本城郭大系 第18巻 福岡・熊本・鹿児島』新人物往来社、1979年。
・現地案内板。

文:萩原さちこ

鶴賀城の口コミ情報

2021年08月01日 【猛】遮那王豊後守牛若丸
筒井ヶ城[鶴賀城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には、南側に土塁を有する切岸で固めた主郭に、土塁を有する曲輪が付いているようです。

2021年08月01日 【猛】遮那王豊後守牛若丸
寺田館[鶴賀城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、丘陵先端部を土塁で三方を囲み(一方は断崖)館としたものだそうです。

2021年05月24日 【猛】遮那王豊後守牛若丸
高旗城[鶴賀城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、羽田野氏の城跡で三ノ嶽城の出城として考えられているようです。

2021年05月24日 【猛】遮那王豊後守牛若丸
天面山城[鶴賀城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、島津軍の豊後侵攻に備えた日向との国境にある朝日嶽城を大友宗麟から任された柴田紹安は島津義久と内通して容易に島津軍を豊後に導き入れ共にこの天面山城に籠ったようです。
それで妻子などの一族がいた星降城を佐伯惟定が攻め、妻子や一族を殺された柴田紹安は大友氏を裏切ったことを後悔して、今度は島津氏を裏切ろうしたが返り討ちにされたそうです。

2021年05月24日 【猛】遮那王豊後守牛若丸
応当城[鶴賀城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によれば、天正14年、豊後侵攻の際に府内の入り口に当たる鶴賀城を攻めるために島津軍が築いた陣城のようです。

2021年05月24日 【猛】遮那王豊後守牛若丸
鏡城[鶴賀城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によれば、島津軍の豊後侵攻に備えるため大友宗麟から援軍の要請を受けた豊臣秀吉は、本隊が九州に到着するまでの繋ぎの軍として、四国の仙石・長宗我部・十河の軍を派遣したようです。
府内に上陸した四国勢は、戸次川の左岸にあるこの鏡城で軍議を開きました。
仙石秀久の直ちに渡河し鶴賀城を囲む島津軍を攻撃すべきという主張が慎重論の長宗我部元親・十河存保の意見を圧して決行されましたが、島津軍の反撃にあって四国勢は壊滅したようです。
この戸次川の戦いで長宗我部元親の嫡男、信親は討死にしました。近隣にその墓もあります。

2021年04月11日 戸次豊前守紹運亮幸盛
夜明ヶ城[鶴賀城  周辺城郭]

聖徳太子の父である用明天皇が、皇子時代に豊後の真名野長者(現:大分県豊後大野市三重町)を訪ねた際、豊後に到着し最初に夜明けを迎えたとされる場所です。

古代山城を思わせる巨大石垣や土塁などの遺構は見当たりませんでした。皇子が滞在した場所ということで『城』と付けたのかもしれません。

しかし、行ってみると竪堀や腰曲輪、土橋のようなものはみられました。

傾斜角30度以上はありそうな坂があり頂上に登るのに苦労しましたが、展望はよいです。臼杵市方面と大分市街地方面に開けています。

大友館と臼杵城の両方が見える位置にあるので、その大友の2拠点でやり取りするのに役立ったのではないかと憶測し、狼煙台跡らしきを探しましたが見つかりませんでしたので、そのようなことはなかったと思われます。

場所は大分市と臼杵市の境辺りにある九六位山キャンプ場を目指して行って、キャンプ場から更に3,4キロほど南下した辺りにあります。駐車場はありません。城のすぐ近くまで舗装された道はありますが、行き止まり箇所ではUターンもできないので、キャンプ場から延びた林道の路肩に停めるしかないです。

2021年04月05日 【猛】遮那王豊後守牛若丸
長宗我部信親の墓[鶴賀城  碑・説明板]



1586年(天正14年)、秀吉の九州攻めに父·元親と共に従軍し、豊後戸次川の戦いにおいて、敵である島津側からも称賛されるほど奮戦し討死したそうです。
武勇·智謀ともに優れていたため跡継ぎとして期待されてもいたようなので、父の元親の衝撃も大きかったとのこと。
戦国武将の常とはいえ、父が子の討死を目撃したかもしれず、そう考えると切ないです…

2018年11月10日 三木肥前守上の丸
鶴賀城

成大寺から本丸まで30分。今回は涼しい季節で登りやすかったので、20分位で登れました。(信親の墓側の道から車で登ったときは二の丸まで行けました。三台位停めれます。)

2018年04月21日 笑門来猫@V済
鶴賀城

本丸の近くから、戸次川合戦の舞台を一望でき、なるほどなぁ~と実感できました。

二の丸まで車道が一応ありますが、今は覚悟が必要な道路状況です(>д<) 普通の方はやめておいたほうが無難。。


2016年10月14日 Raikingu
鶴賀城

山山山山坂坂坂坂草草草崖…要するに城ご建つのに適した場所ですね!(笑)

2015年12月21日 カーネル
鶴賀城

豊肥線竹中駅から
鶴賀城は大野川の対岸にあるので、北上して橋を渡る必要があります

駅前の県道631号を北上して県道622号にぶつかったら右折
大野川にかかる水道橋?を超えて最初の細い道で左折して山を登ると鏡城があるので寄り道します
鏡城本丸から戸次川の古戦場・長宗我部墓所・鶴賀城が一望でき、案内板もあります

鏡城から降りて、更に北上すると622号が道なりに右折して大野川を超えますので、川を越えたら、ここから南下開始しました
土手沿いの道で鶴賀城へ向かう途中で、思い立って長宗我部信親墓に寄り道。ここにも鶴賀城の縄張り図もあります

墓所からは、国道10号の1本東の街道を歩き、途中から最短距離と思われる林道で登山開始

墓所の近くには嶺というバス停があり、ここから大分駅と佐伯駅行きのバスが出てるので鶴賀城下山後は、ここまで戻り大分駅行きバスに乗りました

竹中駅-鏡城-墓所-鶴賀城-嶺バス停で3時間くらい。お城の見学時間より移動時間が多かった印象のお城です

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2015年04月12日 筑前守ジェットシン
鶴賀城

2014年に舗装工事されて二の丸前まで車で行けるようになってます。

2013年11月04日 ぉら信長
鶴賀城

成大寺の駐車場に停めさせて頂き、歩いたが…
超急斜面です。
所要時間は写真参照。

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