府内城(ふないじょう)
府内城の基本情報
通称・別名
- 大分城、荷揚城、白雉城
所在地
- 大分県大分市荷揚町4-36
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 梯郭式平城
天守構造
- 型式不明[4重/1602年築/焼失(火災)]
築城主
- 福原直高
築城年
- 慶長2年(1597)
主な改修者
- 竹中重利
主な城主
- 竹中氏、大給松平氏
廃城年
- 明治5年(1872)
遺構
- 曲輪、石垣、櫓、堀
指定文化財
- 県文化財(人質櫓、宗門櫓)、県史跡(府内城跡)、市史跡(府内城跡)
再建造物
- 櫓、門、橋、石碑、説明板
周辺の城
-
大友館(大分県大分市)[1.3km]
上原館(大分県大分市)[2.0km]
津守館(大分県大分市)[3.5km]
賀来館(大分県大分市)[5.9km]
鶴崎城(大分県大分市)[7.5km]
高崎山城(大分県大分市)[8.2km]
鷲ケ城(大分県大分市)[11.6km]
鶴賀城(大分県大分市)[13.8km]
立石城(大分県別府市)[14.4km]
日出城(大分県速見郡)[15.9km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- 94 大分府内城
設置場所
- 府内城址公園北側の「廊下橋」[地図]
府内城の解説文
[引用元:Wikipedia「府内城」の項目]
府内城(ふないじょう)は、豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった日本の城である。大分城(おおいたじょう)、荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)とも呼ばれる。
概要
府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。なお、府内城は海城でもあるが、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多く、その一例である[1]。
江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により櫓が数棟焼失した。
現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、石垣、土塀、堀とともに大分県の史跡に指定されている。県の史跡に指定された以外の部分は、大分市の史跡に指定されている。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されている。三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある。
西丸跡には1966年に大分文化会館が建てられたが、2013年(平成25年)10月に閉館し、その後、解体された。文化会館跡地の利用方法は未定で、城址公園も含めて今後検討される。なお、大分市は1993年(平成5年)に、文化会館を解体した後の構想として、中期的に発掘調査、城内整備を行った後、長期的には天守閣再建を含めた府内城の復元を行うとする府内城整備基本構想を策定しているが、経済情勢の変化等のために実現の目途は立っていない。2017年(平成29年)2月には大分城址公園整備・活用基本計画が策定され、天守等については将来的に調査・研究の成果に応じて整備をめざすとされた[2]。
2017年(平成29年)12月27日から2018年(平成30年)2月14日には、金属製パイプで天守の骨格を再現し、LEDによるライトアップが行われた。その後、2018年(平成30年)3月27日から2019年(平成31年)2月14日まで再びライトアップが行われている。
歴史・沿革
築城以前
古代にはやや上流の上野丘陵に豊後国の国衙[3]が置かれていた。鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後国・筑後国の守護職・守護大名であった大友氏は、現在の大分駅東方(府内城から見ると南東方)に、大友氏館と呼ばれる守護館を築いて本拠とし、この館を中心に府内と呼ばれる市街が形成された。また、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を備えた防衛拠点が置かれていたが、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、大友氏方はいずれも府内を捨てて近隣の高崎山城などへ拠点を移している。府内城という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことにちなむ。
安土桃山時代・江戸時代
- 1586年(天正14年) - 島津氏の侵攻により大友氏館などを含む府内の中心部が焼き払われる。
- 1593年(文禄2年) - 豊臣秀吉の臣下に入った大友氏第22代当主大友義統が、文禄の役での失態のために改易される。
- 1594年(文禄3年) - 早川長政が代官として府内に入る。長政は、当初は家島に仮館を構え、大友氏館を改修して移り住んだと伝えられている[4]。
- 1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する(海城)。当時の海岸線は現在より内陸に入り込んでおり、この地では大友氏の時代に船の荷役が行われていた場所で「荷落」と呼ばれていたが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという[5]。
- 1599年(慶長4年) - 4月、荷揚城完成。5月、豊臣秀吉の死後、石田三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。
- 1601年(慶長6年) - 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。
- 1602年(慶長7年) - 天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成。
- 1605年(慶長10年) - 外堀が完成。
- 1607年(慶長12年) - 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了する。
- 1634年(寛永11年) - 重利の子・重義が長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。代わって、日根野吉明が2万石で入城する。
- 1656年(明暦2年) - 吉明が嗣子なく没し日根野氏は廃絶。臼杵藩主稲葉信通が城代となる。
- 1658年(万治元年) - 大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏が居城する。
- 1743年(寛保3年) - 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
近現代
- 1872年(明治5年) - 城内に大分県庁が置かれる。
- 1919年(大正8年) - 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられる。
- 1945年(昭和20年) - 大分空襲により櫓数棟が焼失する。
- 1963年(昭和38年) - 大分県の史跡に指定される。
- 1965年(昭和40年) - 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を復元。
- 1996年(平成8年) - 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を復元。
- 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(94番)に選定。
構造
北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた。
建造物
櫓は白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓、袴型の石落としを標準で持っていた。層塔型で地階(地下)を持っており二重櫓は城内から三重に見えた。東丸には、最上階が天守と同形式の高欄と火灯窓を持った三重櫓が建っていた。
天守
天守の構造は不明である。1605年(慶長10年)旧暦11月に描かれた『府内絵図』の天守台部分には、「天守・四重・上重二間・三間。高 水ヨリ上棟瓦マテ・十六間半」また天守台を表す内側の線に沿って、南北面の線に「八間」、東西面の線に「七間」と書き込まれている。『正保城絵図』には「天守ノ廣サ下ノ重七間八間」と書き込みがある。天守南側と西側に多聞櫓形式の取付櫓(付櫓)があり、西側は二重櫓、南側は東大門と連結していた。
『正保城絵図』等では層塔型の白い四重天守が描かれ、北野隆は『豊後国府内城焼失付普請之覚』に描かれた天守の姿を参考に城漆喰塗籠の層塔型天守を推定している[6]。一方で、府内城天守が建造された時代は層塔型天守が現れる時代より前の1602年(慶長7年)であるので、望楼型天守の可能性を指摘している地方史家らもいる[7][8]。層塔型に描かれた絵図があることについては、簡略化されて描かれたもの、望楼型天守を層塔型に改築した[9]、との指摘がある。
層塔型を否定する説には、『府内絵図』の上重二間・三間の書き込みについて縦書きの右行は東西であることを指摘して「二間」を東西梁間、「三間」を南北桁行とし、下ノ重南北面(平側)の8間に対して上ノ重の南北面は2間の妻側であるとして層塔型でない可能性を指摘しているものや、1656年(明暦2年)旧暦5月15日に書かれた『御城諸道具改帳』では、「上ノ重・二重目・三重目・下ノ重」とあり、この文書内の記述に注目して「下ノ重」を大入母屋造としてその上部に小規模な3重の楼閣を載せる望楼型天守を推定しているものがある。
人質櫓
本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に位置する。1861年(文久元年)に再建された。1963年(昭和38年)2月15日に大分県の史跡に指定されている。
宗門櫓
城の南側で、大手門のやや西に位置する。城外からは石垣の上に建つ平櫓に見える一方、城内からは二重櫓に見える。櫓から北側に延びる石垣が出合曲輪と西丸とを仕切っており、城の出入口の一部をなす防衛上重要な施設である。1854年(嘉永7年/安政元年)の安政大地震(安政南海地震・豊予海峡地震)で倒壊し、1859年(安政6年)に再建された。1963年(昭和38年)2月15日に大分県の史跡に指定されている。
大手門
正式な名称は多聞櫓門(たもんやぐらもん)。1945年(昭和20年)の大分空襲で焼失し、1965年(昭和40年)に復元された。
廊下橋
西丸と山里丸とを結ぶ渡り廊下。大分市発足30周年記念事業として行われた府内城再発見事業によって、1995年度(平成7年度)に復元された。意匠は、大手門前に架かっていた廊下橋を元にしている。
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府内城の口コミ情報
2022年05月07日 ジョウ肥後守
府内城
5月13日より、閉鎖との貼紙が表示されておりましたが、本日(7日)閉鎖され、本丸(公園内)に入ることができませんでした。
2022年05月04日 ゆかりー式部少輔
府内城
PCR用検体採取場設置されてるため、大分城址公園に入れませんでした。100名城印は北側の府内城廊下橋にあるので、松栄神社を目指して🚗
2022年05月01日 【✾】源九郎筑前守牛若丸
府内城
2022年4月29日現在、廊下橋の中にある府内城のパンフレットには江戸時代の府内城の地図が掲載されていますが、その北之小丸辺りの位置に大分市保健所があり、その近くという事でこの府内城がPCR検査会場に指定されたと推測され、その関係で城内に入れません。(100名城スタンプも廊下橋の中にありました)
また府内城のための駐車場はありませんが、ちょうど人質櫓の北側に有料駐車場(90分300円)があります。
上記の関係で城内は見学出来ませんが、帯曲輪に沿って外苑を歩いて観察しましたが見応えは十分にありました。
宗門櫓と人質櫓が江戸期のもので北之丸(山里丸)には慶長期の石垣が残っています。
また府内城の見どころである復元された廊下橋も同じ曲輪にあり、中にも入れるようになっています。
検査会場から開放されたら、再度訪れてじっくり観察したいと思いました。
大友館も近いので合わせて訪れて観ては如何でしょうか。個人的にはお勧めです。
ちなみに大友氏とは全く関係のない城です。慶長2年に築城とありましたので大友宗麟はこの城の存在すら知りません。
2022年01月04日 あまそう摂津守
府内城
堀を一周しましたがなかなかの見応えでした石垣は野面積み。西の丸角櫓や宗門櫓も良かったです。なんと言っても廊下橋が中にも入れて良かったです。。中はコロナの摂取所として使われているので大手門も閉まっていて入れません。天守台は登ることができました。見応えアリです。
2021年10月25日 四間飛車内蔵助とみー
府内城
2021年10月23日、ラグビーの前に大分市をブラブラ、そこで府内城にも行ってきました。大分駅から徒歩で5分ほどで着きました。PCR検査会場になっているため城内には入れず、周りを拝む形での攻略になりました。本丸跡は城址公園となっており案内板など整備されています。土曜日の朝、ラグビーの興奮の前に穏やかなひと時を過ごすことができました。
2021年10月10日 人間魚雷主税助
府内城
官庁街の中心地。
現在は公園で、観光用の駐車場等はなし。
令和3年時点で、コロナ関連の施設利用の為、本丸へは入れません。
100名城スタンプは廊下橋。
御城印は未確認。
それらしき場所を見つけれませんでした。
2021年08月08日 ありぞー
府内城
現在もPCR検査場となっており、城址内には入れません。ですが堀を見るだけでも十分楽しめます。スタンプは堀にかかる橋に置いてありました。
2020年12月28日 征夷大将軍慶誾尼☆寧
府内城
ええええ〜マジですかぁ凹
大分城址公園の内苑がPCR用検体採取場になっているため入れません
お堀の外苑をぐるっと見て回るだけです
※大分市役所6階
教育委員会事務局教育部文化財課
電話:(097)578-7546
のカウンターに行けば府内城のパンフレットと百名城スタンプを押して頂けます
2020年10月22日 たまぴー勘解由次官
府内城
たぶん、打ち込みはぎの石垣です。ほとんど野面積みに近い感じで、ワイルド感があります。ある意味、趣がありますので、石垣好きなら是非!
2020年10月21日 たまぴー勘解由次官
府内城
2020年10月21日現在、まだ工事中で入れません。
2020年08月02日 のり豊後守んご
府内城
コロナで城内立ち入り禁止になってました。100名城のスタンプは、松栄神社近くの廊下橋に置いてありました。
2020年07月03日 Alcatraz36
多目的トイレ[府内城 トイレ]
この位置にトイレはありません。位置が変わっています。
2019年05月06日 フジチャン山城守
大手門[府内城 スタンプ]
大手門が改修工事中のため西側から入城し、大手門近くのプレハブ小屋の中にスタンプがありました。
2019年05月03日 コウちゃん
府内城
令和元年は、工事中でしたので工事が終われば、またゆっくり見学に行きたいです。
2017年08月28日 戸次丹後守鑑連
府内城
本日訪問
家から近いこともあり
毎日行くが
数年前に大分市文化会館が無くなり
車での乗り入れも出来なくなったのです
ここには人質櫓という
大分市屈指の文化財があります
これは年に一度解放されます
ぜひ来てみてください
2017年08月27日 てっちゃん右大臣@京都
府内城
2017年8月5日訪問。丁度迷走台風直撃の時でしたが大分市内に宿を予約していた為夕刻のタイミングで府内城を訪問。Googleの情報では24時間営業との表示があったので百名城のスタンプ帳を持って来たのですが丁度祭が4日5日あったらしく人通りは多かったもののスタンプ設置場所を知っている人に遭遇出来ず途方にくれたが役所の夜間インターホンに気がつき旅人だがご存知なら教えてと伝えたところ大手門の右側のほこらの中にあると聞き無事スタンプを押すことができました。
2017年07月02日 たけ◎曲輪衆
府内城
かつて本丸 内にあった大きな公共施設が全て撤去されておりビックリ!
現在、発掘調査中。御殿礎石の有無や、内堀の調査との看板が。史跡公園として整備されるのかな?
2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
府内城
石垣とお堀の遺構があります。
石垣より縄張りに入ると私が行ったときは工事中で見所はありませんでしたが、このお城の遺構の見所はお堀にある廊下橋ですね。
屋根のある橋。
これはなかなか珍しいですね。
2017年02月14日 織田上総介晃司
府内城
訪れたとき(2016/12/17)は本丸と東の丸が立ち入り禁止になっていて、全て見ることはできなかったが、堀越しに廊下橋や、西南隅櫓・宗門櫓・着到櫓を眺める。
府内城と大友宗麟は全く繋がりがない。
2016年08月11日 シバヤン近江守雲外蒼天
府内城
100名城のスタンプは、城内駐車場簡易受付に在ります。
接込み石垣が大変立派に保存されています。堀には錦鯉か泳ぎ子供達が、喜びそうです。
櫓周りは、改装工事中の為残念ながら観覧できませんでした。
仕方ないので堀の周囲を回りり石垣を見ていきました。府内城の紹介パンフレットには空襲による櫓消失が書かれてました。
今度はその痕跡探しに入り、太平洋戦争、かつて国民を不幸のどん底に陥れた総力戦末期の空襲による焼けた石垣をあちらこちらに確認できました。いびつに欠けたのやら、周りと違う黒く焼けたのやら•••。
瀬戸内の港は、波穏やかで海軍艦艇の補給整備にはおあつらえやったんでしょう。その為、お城は米軍機からには、日本軍の基地やと認識されていたんでしょう。
堀に囲まれた城は武器弾薬の保管、又は彼らの基地利用には都合よかったんでしょう。
あの総力戦は歴史文化史跡にとっても大変な損害を受けたんやなと重苦しく感じました•••(・_・;)
2014年03月19日 尾張守だもんで
府内城
現在改修中で内部立入不可。大分駅前も再開発で宗麟像撤去中。どちらも見たい人は15年以降にどうぞ。
2012年09月10日 加藤豊後守清正
府内城
天守台と付櫓を取り囲むようにして高石垣を築き、真ん中に多聞櫓を配置。周りを水堀で巡らした城郭です。助成に加藤清正、当主の竹中半兵衛の甥竹中重利が関わってます。現在水堀は埋め立てられ、高石垣も取り壊しているので確認できませんが跡が一部残ってます。
天守の姿が絵図に残り、最初は黒見下見板張りで初代藩主福原直高のものと推定。最後の姿が白漆喰の天守で、後の藩主松平忠明のものと推定。この人物は、松平家(徳川家)の甥であることから。以後天守焼失、再建なし。
2011年08月05日 太政大臣M三郎
府内城
府内城には、2基の櫓が現存し、5基が復元されており、加えて西から南面には華灯窓を持つ楼門や白壁も設置されています。櫓は塗籠で破風などの無いシンプルなデザインで統一され、西から南面は塁線が美しいです。一方で東北面には、雁行する石垣と広い水堀が情緒を醸し、鞘橋まで復元されるなど、見所たっぷりです。面白いのは、本丸、東の丸など主要部の外郭線を保存し、内堀を埋立て、内部を広く再利用している点で、例のあまり無い活用法です。これにより、緻密な打込接で完全な算木積を持つ石垣の保存にも成功しています
2010年07月09日 tomm加賀守
府内城
「とり天」は定番ですが、佐賀関の「関サバ・関アジ」も絶品です!
また「クロメたこ焼き」も見た目はイマイチですが美味しいですよ〜^^