姫岳城

姫岳城([水賀城  周辺城郭])

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姫岳城の口コミ情報

2022年03月31日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
「大分の中世城館」では、永享7年、豊後国守護大友持直と周防国守護大内持世の戦(姫岳合戦)が行われた舞台で、山頂部に立地する単郭の城郭で一条の堀切があるとありました。

「日本城郭大系」によると、姫岳砦、姫見岳城としても呼ばれているようです。
永享7年5月、大内持世は豊後に攻め入り、敗れた大友持直は府内を逃げ出し、6月29日に姫岳に籠もり、これを大内持世は、幕府より遣わした伊予の河野通久の来援を得て襲撃したとありました。

この時の合戦で、河野通久は大友方の木付城主木付親公と組み討ちして共に戦死したようですが、大友氏の臼杵氏三代親教を始め多数の戦死者を出したそうです。その勝敗は不明のようですが、大内軍は撤退し、河野軍の残党が付近の山中に逃亡して土着したとありました。
幕府は、伊予の河野通久戦死の賞として永享7年10月2日に臼杵荘をその子大正丸(教道)に与えたようですが、以降、大友・河野両氏の臼杵荘をめぐる争いが多年にわたって続いたようです。
そして永享8年4月、大内持世は再び豊後に来襲し、持直の根拠地である姫岳中腹の東神野を攻略し、6月11日姫岳をついに陥れ、持直は逃亡するとありました。
姫岳合戦はここで一応終了したようですが、のち大友持直は根強い抵抗を続けたそうです。
この合戦で大友氏は二分して争い、十三代は幕府公認の親綱が継承したが、十四代は持直の弟親隆が継ぎ、十五代は持直派の親繁が相続、親綱派の親隆の長女と結婚し大友家は一本化することになるとありました。
姫岳はかつて、その周辺村落でさえ"八戸や神野も世界の内か"といわれたほど山と谷の深いへんぴな所で、そんな天然の地形を利用した山城で、人工的な設備はほとんどなかったようです。
ただ籠城戦に耐え容易に落城せず、兵糧にも困らなかったのは、背後の津久見湾からの海賊衆による物資補給があったためといわれているとありました。

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