栂牟礼城(とがむれじょう)
栂牟礼城の基本情報
通称・別名
- 城山
所在地
- 大分県佐伯市稲垣
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 佐伯惟治
築城年
- 大永年間(1521〜1528)
主な改修者
- -
主な城主
- 佐伯氏
廃城年
- 文禄2年(1593)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、堅堀
指定文化財
- 市史跡(栂牟礼城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
佐伯城(大分県佐伯市)[3.7km]
大友別館(大分県津久見市)[11.5km]
宇土山砦(大分県佐伯市)[12.5km]
用来城(大分県佐伯市)[14.0km]
久保泊城(大分県津久見市)[15.3km]
臼杵城(大分県臼杵市)[17.7km]
水賀城(大分県臼杵市)[19.1km]
松尾城(大分県豊後大野市)[22.2km]
鶴賀城(大分県大分市)[24.8km]
烏帽子岳城(大分県大分市)[29.6km]
栂牟礼城の解説文
[引用元:Wikipedia「栂牟礼城」の項目]
栂牟礼城(とがむれじょう)は、大分県佐伯市弥生(旧南海部郡弥生町)大字井崎上小倉にあった山城。大永年間(1521年-1528年)に佐伯惟治によって栂牟礼山に築かれたとされる。
概要
栂牟礼山は標高223.6m、比高差210mで、大友氏配下の佐伯惟治が大永元年(1521年)に築城。
その後、大永7年(1527年)に大友義鑑が謀反の企てありとして臼杵長景に命じ、2万余の軍勢を引き連れて攻囲、攻めるが天然の堅固な要害で容易に落城させることができなかった。そのため長景は使者を遣わして和議を結び、惟治は城を明渡し日向国に落ち延びる。しかし途中、長景と通じていた土民に襲われ惟治は自害し、惟治の子も自害した。
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栂牟礼城の口コミ情報
2022年04月08日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
小田山館[栂牟礼城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、堀立柱建物など検出とだけありました。
2022年04月08日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
木戸城[栂牟礼城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、栂牟礼城の南方山麓、現在県重文の石造十三重塔(佐伯氏供養塔と伝わる)の建っているあたりにあったといわれるが、位置など詳細は不明である、とありましたが「大分の中世城館」では遺構の状況について、丘陵先端部を3条の堀切で遮断し、尾根頂部を曲輪とし、曲輪は階段状の削平段を有すとありましたので城跡の位置は判明しているようです。
さらに「日本城郭大系」では、大永7(1527)年、佐伯氏十代惟治が大友氏と合戦の時、甥の惟勝がこの城に居住していたといわれるから、栂牟礼城の出城のようなものであったと推測されるとありました。
2022年04月08日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
大友山砦[栂牟礼城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、大永7年、臼杵長景が栂牟礼城を攻める時、まずここに布陣、砦を設けたと伝えられてるそうです。
2022年04月08日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
河内城[栂牟礼城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、河波ヶ城の支砦とありましたが「大分の中世城館」には、阿波ヶ城の支城として紹介されていました。ひょっとしたら誤植かもしれません。
2022年04月08日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
河波ヶ城[栂牟礼城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、河波ヶ城は、佐伯市の北方海岸沿いにある山城で、上杉家の系図によれば、康永2年にこの地方を領していた大友氏の臣上杉弾正太郎家隆の籠もった城砦となっているが詳細は不明のようです。
おそらく永享年間(1429-41)の姫岳合戦にさいして、大内氏にそなえた大友持直方の武将の城砦ではなかったかと推測されているそうです。彦山系の支峰に属し、その山頂は削平地(約30坪)となり、ここに上杉大権現の石祠があり、上杉氏の祖先廟と伝えられているとありました。
2021年05月24日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
星降城[栂牟礼城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、星河城としても紹介されていました。
島津氏と内通して天面山城に籠った柴田紹安の妻子一族はこの星降城に籠って反大友を鮮明したため、佐伯惟定の軍勢が攻め立てやがて落城、妻子一族郞党は佐伯の西正寺で殺されたそうです。
2021年05月17日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
竹田城[栂牟礼城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、築城者・築城年代などは不明のようですが、城の位置からして薩摩に対する栂牟礼城の支砦ではなかったかと推定されているようです。事実、天正14(1586)年、島津の使者がこの方面より栂牟礼城へ来ているとありました。
山頂付近から栂牟礼城がよく見えるそうです。
2021年05月17日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
小田山新城[栂牟礼城 周辺城郭]
ネットによると、詳細が明らかではないようです。臼杵長景が栂牟礼城を攻めたときに築いた付城か、大友氏が1586年(天正14年)の島津氏の侵攻に備えて築いたかのどちらかだと考えられているようです。現在は公園として整備されているようで、大規模な畝状竪堀群が確認できるそうです。
2021年05月17日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
曳地館[栂牟礼城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、栂牟礼城と一体となった位置にあり、佐伯氏の平時における居館と推定され、三方は崖、西方に空堀があると記載されていました。
2018年04月05日 カーネル
栂牟礼城
日豊線の佐伯駅から
城は隣の上岡駅が近いのですが、上岡駅に止まる電車が、6時台の次が17時台!なので、佐伯駅から大分バスに20分乗り、番匠バス停で下車
バスの進行方向に少し進み、栂牟礼山村広場の看板のある生活道路を北へ向かい、30分ほど林道を進むと、左が小田山新城、右が栂牟礼城の駐車場に着きます
栂牟礼城方向へ向かうと、広場を経由して山道になります
先に進むと、尾根を深い堀が断ち切っています。二ノ丸への登りはキツ目ですが、これを登ってしまえばあとは平らです
山頂の本丸で引きかえし、二ノ丸先の曲輪から、行きとは違う尾根を進むと浅い堀と石垣らしきものもありました
さらに展望台や、栂牟礼城まで**mの看板はありますが、道が荒れてていて、そのうち、道がなくなり藪に閉ざされたので、二ノ丸の曲輪まで戻る・・
来た道を戻って駐車場に着いたのがバス停をでて2時間後
道に迷って時間をロスし、予定のバスに間に合わないので、小田山城に行くと、竪堀とバス停から見えた電波塔がありました
2011年01月24日 加藤豊後守清正
栂牟礼城
佐伯城の前の城。古城で、長年放棄されていたので、荒れ放題。途中、崖崩れでロープが張ってありましたが、山頂まで行くには困難で危険。反対側に道の駅があり、そこからだと、とても近いです。遺構は不明。