用来城(ようらいじょう)
用来城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大分県佐伯市直川仁田原字用来
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 天正年間(1573〜1592)?
主な改修者
- -
主な城主
- 佐伯氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切
指定文化財
- 市史跡(用来城趾)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
栂牟礼城(大分県佐伯市)[14.0km]
佐伯城(大分県佐伯市)[16.0km]
松尾城(大分県豊後大野市)[16.8km]
宇土山砦(大分県佐伯市)[22.6km]
川坂城(宮崎県延岡市)[22.7km]
大友別館(大分県津久見市)[24.3km]
浦城城(宮崎県延岡市)[26.3km]
臼杵城(大分県臼杵市)[27.9km]
水賀城(大分県臼杵市)[28.1km]
鶴賀城(大分県大分市)[29.0km]
用来城の解説文
用来城の口コミ情報
2022年04月08日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
盾ケ城[用来城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には、天正年間、島津氏侵攻のおりに利用されたとありました。「日本城郭大系」では、盾ケ城山は豊薩戦争の戦跡として紹介しています。
2022年04月08日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
冠岳城[用来城 周辺城郭]
「日本城郭大系」では冠城として紹介しています。南海部郡との郡境にあって、東約2kmの所に星降城、西約3kmに盾ケ城があり、南から薩摩軍の攻撃に備えた城であり、城主など詳細は不明とありました。
2022年03月02日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
穴囲砦[用来城 周辺城郭]
「大分の中世城館」には洞窟を利用した砦で主に囲ヶ岳砦として紹介されています。
「日本城郭大系」によると、天正の役で栂牟礼城を守る因尾口の砦となり、土民が籠り島津軍を撃退したことで有名で、番匠川上流の峡谷にのぞむ断崖中腹の洞窟を利用した特異な砦として紹介されていました。地元では主に『因尾砦』として知られているようです。
天正14年11月、堅田方面より栂牟礼城を攻撃した島津軍は堅田合戦で佐伯軍に敗れ、同年12月上旬、今度は因尾口からの侵入を企てた。因尾の主な武士は栂牟礼城に籠っており、地元には百姓しか残されていなかったので相談の結果、井ノ上の洞窟に籠り戦うということになり、断崖中の穴の口まで継橋や大木に綱をつけたりして伝い登り、洞窟内に兵糧を貯蓄し、穴の口は板で囲い、矢狭間をあけ、板の外に石を吊り並べたり、竹の焼とぎをそろえたり、吊り弓を設けるなどの準備をして敵の寄せて来るのを待った。
やがて七、八百人の島津軍が民家に火を放ったり乱暴しながら押し寄せてきたところを計画どおり、仕掛の石綱をニ、三十ほど切って落とすと島津軍百余人が微塵に砕かれ死亡した。これと同時に穴の口から閧の声をあげると、山岳も動くばかりの反響で島津軍は総崩れとなり、二度とこの砦に攻め寄せることがなかった、とありました。
2021年05月17日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
酒利館[用来城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、館跡は石垣・庭園跡・建物の一部などが残っているとのことです。
天正10(1582)年、朝日嶽築城の時、ここを宿舎とした記事が『大友興廃記』にあることから、当時すでに館はあったものと推定されているそうです。
江戸時代は岡藩主中川氏の代官で宇目郷を支配した深田氏の居館となっていたようです。
2021年05月17日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
朝日嶽城[用来城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、城跡は郭・空堀(堀切)を残すのみであるが、眺望はよく、山は急峻で戦国山城、そして境目の端城として貴重な史跡であるとありました。
朝日嶽城は、薩摩島津軍の来襲に備えるため、大友宗麟が子義統と相談し、天正10年、豊後と日向の境に築いた山城のようです。
2021年05月17日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
柳井館[用来城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、創築の年代は定かではないが、栂牟礼城主佐伯氏の部将柳井左馬助の居館跡と伝えられているようです。
位置から見ても、この館は栂牟礼城の因尾口守備の目的で設けられたものと考えられているそうです。
館主の柳井左馬助は土豪で、天正14(1586)年12月、島津軍を因尾谷に待ち伏せ打ち破ったことで知られているとありました。
2020年10月24日 戸次豊前守紹運亮幸盛
蔵小野砦[用来城 周辺城郭]
国道10号線、326号線ともに案内板はありません。326号線から行く場合は、道の駅宇目から北に約5キロ辺りに東明運送さんがあるので、その交差点を東に曲がり道沿いに行くと左手にあります。駐車場はありませんが、路肩に停められるスペースはあります。ここから約5キロ東に朝日岳城があり、その出城とも言われています。豊薩合戦の時は島津に一気に落とされました。遺構は横堀、竪堀、土塁が綺麗な状態で保存されています。南側に大きく開けた虎口らしきものが見られますが、北側にも小さな虎口らしきものがあります。南側が虎口だとすると、敵兵が攻めて来た時は城兵は太陽とも正対しなければならなくなり見にくくなると思うので、北側が虎口ではないかと勝手に推測しています。
郭、堀切などが残るが、城跡は山林となってしまっており確認することは難しい。