川坂城(かわざかじょう)
川坂城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 宮崎県延岡市北川町長井字川坂
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 土持氏?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 藤田左近(土持氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
浦城城(宮崎県延岡市)[6.4km]
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川坂城の解説文
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遺構
日向灘に注ぐ北川左岸、城山(じょんやま)と呼ばれる独立丘陵に位置する。主郭と思われる曲輪は現在耕作地となっており遺構は不明瞭だが、腰曲輪や土塁状の遺構が残る。
川坂城のある独立丘陵自体はそれほど規模は大きくないものの、北川方向の北西側と南西側は急峻な斜面となっており自然地形によって要害性が確保されている。
また、川坂城の西方、北川対岸には竹瀬城、南東方向には家田城(えだじょう)などの城郭がそれぞれ至近の距離にあり、これらが連携して機能していたものと考えられている。
歴史
古くは平安時代から日向国北部に勢力を有した土持氏によって築かれたという。ただし築城年代は判然としない。元亀3年(1572)、木崎原の戦いで島津氏に大敗を喫し壊滅的な打撃を受けた同じく日向の伊東氏は、やがてその所領を支えきれず豊後の大友氏を頼って落ち延びた。
天正6年(1578)、大友宗麟は伊東氏の日向復帰を大義名分に大軍をもって日向へ侵攻。当時島津氏に誼を通じていた土持氏はその矢面に立つ形となり、時の当主・土持親成は抗戦虚しく居城松尾城で自害、土持氏は滅亡した。
この戦いでは、土持氏家臣の奈津田(夏田)弾左衛門・安藤下総らが北川の橋岸(延岡市北川町長井橋岸周辺か)でわずか数十名で抵抗したとされるが、近くの川坂城や前述の竹瀬城、家田城などで戦闘が行われたかどうかは分かっていない。
交通
・JR日豊本線日向長井駅から車で約10分参考文献
・『宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書 第198集 家田古墳群・家田城跡』宮崎県埋蔵文化財センター、2011年3月。・『北川町総合支所だより 第18号』延岡市地域振興課、2009年11月。
・『週刊日本の城』デアゴスティーニ・ジャパン、2013年。