猫尾城(ねこおじょう)
猫尾城の基本情報
通称・別名
- 黒木城
所在地
- 福岡県八女市黒木町北木屋
旧国名
- 筑後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 源助能
築城年
- 文治元年(1185)
主な改修者
- 田中吉政
主な城主
- 黒木(源)氏、筑紫氏、辻氏(田中氏家臣)
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀、武者走り、犬走り、櫓跡、馬場、井戸
指定文化財
- 県史跡(猫尾城跡)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
発心城(福岡県八女市)[9.6km]
鷹取城(福岡県八女市)[10.4km]
福島城(福岡県八女市)[11.7km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[14.7km]
高屋城(福岡県八女市)[14.7km]
女山神籠石(福岡県みやま市)[16.9km]
赤司城(福岡県久留米市)[17.1km]
田中城(熊本県玉名郡)[17.4km]
城村城(熊本県山鹿市)[19.0km]
麻底良城(福岡県朝倉市)[19.7km]
猫尾城の解説文
猫尾城の口コミ情報
2024年06月29日 RED副将軍
鷹尾城[猫尾城 周辺城郭]
堀切、横堀、畝状竪堀群が残る犬尾城の支城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。犬尾城の支城として河崎氏によって築かれたと云われます。
河崎氏は、猫尾城主である黒木助能の嫡男である定宗が1191年に猫尾城の支城として犬尾城を築いて居城とし河崎氏を称したのが始まりとされます。
河崎氏は大友氏に属し、1579年に龍造寺隆信の侵攻により犬尾城は落城するも、島津氏の協力を得て犬尾城を修築。
1587年、豊臣秀吉による九州征伐において抵抗するも敗れて犬尾城は廃城。近隣の鷹尾城も同様の歴史を辿ったと思われます。
見所
犬尾城から南西へ約500m尾根を進んだ別峰に築かれています。
最高所の主郭は東西に長く、大きく三段の削平地で構成。
東端に金比羅神社が鎮座し、南下に腰郭を敷設。
東側の尾根は大堀切で分断され、東側から北側へと横堀が巡ります。切岸もなかなかの鋭さです。
西側の斜面には竹ヤブの中に畝状竪堀群が残っています。
行き方は、県立ふれあいの家南筑後を目標に設定。犬尾城への登城口であり、その尾根続きの先に鷹尾城があります。
2024年02月17日 まるく
猫尾城
争いがあったとは思えない程、物静かな場所でした。石碑が当時の事を物語っていた気がします。
2023年09月15日 もくで筑前守ふみふみ
猫尾城
最寄りの黒木中バス停からすぐに登城口(登山口?)。運動不足体力無しの私でも30分で登城。本丸横トイレ前にある看板(公園地図)によると、北斜面にも道があるようだったのでチャレンジしましたが、途中で草や土(雨水で流された奴と、猪が掘り返したか山芋掘りか)や蜘蛛の巣に行く手を阻まれ、引き返す羽目に。要注意です。
2023年02月23日 RED副将軍
犬尾城[猫尾城 周辺城郭]
猫尾城の支城である犬尾城ちなみに近くには鷹尾城、兎城もあります✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
1191年に川崎定景により築城。河崎定景は、猫尾城主である黒木助能の嫡男であり、猫尾城の支城として河崎氏代々の居城となりました。戦国時代は、河崎氏は大友氏に属し、1579年に龍造寺隆信による侵攻を受けて落城。その後は島津氏に属し、犬尾城を修築。1587年の豊臣秀吉による九州征伐においては抵抗するも敗れ、犬尾城は廃城となりました。
見所
比高200m程の南北に伸びる尾根を削平した単郭の城跡です。単郭といえ南北に70mほどの規模で北から東にかけて土塁が巡ります。また北側、南西側、南東側に伸びる尾根筋を大堀切で断ち切っているのが特徴的です。西側下には畝状竪堀、東側下は二重に土塁が盛られ横堀状になっています。
行き方は、国道422号から城跡まで林道が付いています。車3台程の駐車スペースもありました、但し、道幅は狭く未舗装もあります。
2022年04月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
高牟礼城[猫尾城 周辺城郭]
福岡県の八女市の黒木町にある【高牟礼城】♪標高567mの中々の山深い高峰のピークとその東側の峰一帯に城郭は築かれました☆
この黒木の地名の由来は、猫尾城主、黒木大蔵大輔源助能の姓からきていると云われています♪
鎌倉期から見える地名で黒木氏はこの辺り一帯を押さえた領主であります☆矢部川上流と笠原川の合流地点で黒木盆地をメインにし山間部には山城を構える☆紛れもなく戦絶えない時代に生きたエリアなんです☆
この高牟礼城は中世の山城☆
築城年代、築城主は分かっていません☆
応安7年(1374年)の毛利右馬頭元春軍忠状に『高牟礼、黒木御攻之時』と残っていて、黒木氏が居城の猫尾城と、この高牟礼城に拠って南朝方として戦っています♪
天正12年(1584年)の頃の黒木氏は肥前国の龍造寺隆信に属します☆豊後国の大友宗麟の攻撃に備え、龍造寺家臣・多久長門、成富十右衛門がこの、高牟礼城を築いています☆
猫尾城の支城群の1城として黒木家臣・椿原式部を城代にしたとされています☆
この築城は元々あった、高牟礼城を整備し防御を固めたという事なのでしょう☆
変わった縄張りをしていて主郭より東の峰の出丸に繋がる長大な土塁(200m)が残りってます♪畝状竪堀群、横堀など、この時に築かれたものでしょうね☆
後に黒木氏は滅亡に追い込まれ猫尾城も、この高牟礼城も廃城になっています☆
2022年03月20日 RED副将軍
猫尾城
一部改変はありますが、石垣が主郭部に残ります。
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1167年に大蔵大輔源助能によって築城されたと考えられています。その末裔が黒木氏を称して代々の居城となりました。
大友氏に属していましたが、1584年に黒木氏は龍造寺氏に従った為、大友宗鱗によって攻められ落城。
その後、黒木氏は猫尾城を取り戻しましたが、1587年に豊臣秀吉が九州を平定すると領地を没収されて帰農。
関ヶ原の合戦後には筑後に田中吉政が入封すると家臣の辻勘兵衛が入城。
1615年には、大阪の役においての不始末により田中氏は所領を没収。その際に廃城となった様です。
見所
主郭西側の虎口は布積みの石垣が残ります。
主郭には神社が鎮座し、神社周辺にも石垣が多用されていますが新しく見えるため、神社造営時のものと思われます。
現在は公園として整備され、車で山頂付近まで登ることが出来ます。
近くに同じ黒木氏関連の城で犬尾城、鷹尾城もありますので併せての訪城をオススメします。
2022年02月01日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
鷹尾城[猫尾城 周辺城郭]
福岡県の八女市にある【鷹尾城】♪矢部川の支流の星野川に面した山内集落☆この山内の北の山上に城郭は存在します☆犬尾城を本城として、そこから繋がる尾根上の別峰に鷹尾城は立地します♪別名を笹ノ城と呼び、建久年間から戦国時代にかけてここ山内地区に勢力を張っていた黒木氏一族の武将・河崎氏が、本城として構えた犬尾城の支城が鷹尾城と云う訳です☆
城主・河崎氏は大友方に属してましたが2度ほど離反☆立花道雪・高橋紹運に攻撃されたことなどが記録に残っています☆※戦国期にみられる河崎鑑実や河崎鎮則など大友義鑑・義鎮(宗麟)から1字を賜っている事から大友氏に臣従していたものと思われます☆
さて♪この河崎氏は筑後十五城の星野氏や黒木氏と同じく、古代の調氏の後胤である黒木大蔵大輔源助能の末裔と伝わり古くからいた存在です☆河崎助能の長男である河崎貞宗が現在の八女市北部の地を領していて、犬尾城を居城とし河崎氏を称したとされている一族です☆
城主・河崎鎮則は大友軍に攻められ…更には九州征伐に来た豊臣秀吉にも対抗しております☆古くから居城を構え根を張った訳ですから、そう簡単にはこの地は渡さない!
意地が最後まで大御所に牙を向けたのでしょう☆
城郭遺構としては巨大な堀切、空堀、畝状竪堀群、土塁など明瞭に残っています☆犬尾城の堀の規模感とは全く異なる事から戦国も後期に造られたものでしょう☆元々は犬尾城が本城ですが、尾根伝いの南にこの鷹尾城、東に東山城が配されています☆
元は砦程度のモノがあったが、ヤバいぞ…デカイ勢力が攻めにくるぞ…となり掘り切った結果、あれだけの馬鹿デカい堀切が形成されたのでは無いか❓としか考えが付きません☆環境面や情勢などから、犬尾城からの拡張拡大が行われたんじゃ無いかなぁ〜❓即ち…1つの城郭と解釈します♪
鷹尾城は犬尾城から南に尾根伝いに直接500mも無いです☆犬尾城から鷹尾城に繋がる尾根部動線にも城郭と思われる削平地や造作跡が残ってます☆
因みに城郭の南直下には東館遺跡が所在していて城下の町や館が攻め入られた際に、ただちに逃げ込む城郭であったと思われます☆
攻め手が来たら鷹尾城で食い止める☆
それ以上来られたら…デッドゾーン!
鷹尾城は犬尾城の南側の防衛ラインと考えます☆
2022年01月31日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
犬尾城[猫尾城 周辺城郭]
福岡県の八女市にある【犬尾城】♪ 別名を河崎城・犬尾篠山城・生駒城と呼びます☆鎌倉時代初期、黒木助能の嫡男の河崎三郎定宗が築城したのが始まりとなります☆
その後、代々城主を務めていく河崎氏は大友氏に属しました(2度ほど離反してます)大友方に属していた為に龍造寺隆信に攻められて落城しますが、河崎家は生き延び、城主・河崎鎮則の時に当城を修築しています☆その後は島津氏に属しました☆秀吉による九州征伐の際に抵抗して敗れてしまい河崎鎮則の滅びと共に犬尾城は廃城となります☆
星野川の北側の標高約180メートルの尾根上に築かれた城郭です☆残る遺構としては本丸と二の丸の間に堀切、本丸北側には土塁が残ります☆犬尾城からの尾根続きの東と南側には、それぞれ出丸的な役割を果たしたと思われる茶臼山城、鷹尾城が築かれています♪同山の中にこれでもか❗️という位造られた城郭遺構が残ってます☆
2021年03月23日 榎晴信肥後守
犬尾城[猫尾城 周辺城郭]
犬尾城跡は建久2年(1191年)猫尾城主黒木助能の嫡男川崎定景により築かれ以来河崎氏の居城となる。
代々の城主河崎氏は大友氏に属するも、龍造寺方に攻められ落城降伏。その後は島津に属して秀吉の九州征伐の際に抵抗して敗れ廃城となりました。
猫尾城の支城の犬尾城。何かかわいいネ―ミングですが猫尾城主の黒木氏と親戚の犬尾城主の河崎氏が後に不仲になり猫尾に対抗して犬尾にしたとの話も伝わります。周辺には兎城なんて城も有って面白いですね。
城は南北100㍍東西25㍍のさほど大きい城ではありませんが郭には土塁を巡らし堀切、畝竪、部分的には二重になる横堀など厳重に防備されています。
案内ですがGoogleマップに登録されていますのでナビどうりに行けば城跡直下までたどり着けます。ただ最後付近は未舗装で道幅も狭いので軽自動車以外はすぐ近くの童男山古墳の駐車場を利用するのが無難です。
2020年11月22日 ゆう筑後守
猫尾城
駐車場が本丸近くにあって、そこから徒歩ですぐです。
2019年11月20日 風祭すぅ
猫尾城
城山公園として整備されてます。無料駐車場あり。
2018年05月04日 ごん
猫尾城
車の方 歴史の丘駐車場との案内があります。ここが猫尾城本丸跡です。しかし、大変狭く急勾配。草が道を覆い見通し悪く危ないですご注意を。
2017年03月04日 柴崎権大納言幸助
猫尾城
城山公園に向かって山を登って行けば、広い駐車場に着きます。ここからでも眺望がいいのですが、少し登った本丸からは山城ならではの素晴らしい眺望です。
概要
黒木バス停より東をのぞむ。国道442号線上にまたがる、小冨士山形の山が、猫尾城(黒木城)跡である。「黒木のフジ」棚下をすぎ、調麓橋(ちょうろくばし)を渡ると、中世の侍小路小字陣の内で、城主や重臣の居館があった所である。(現在は黒木中学校や民家がある)
城跡は矢部川と同支流笠原川との合流する処で、東より西へ半島状に突き出た猫山にある。
本丸は標高240メートルの山頂にあり、南北56メートル、東西28メートルの広さをもつ。周囲は石垣と土塁で、武者走り、馬踏、犬走り等も認められる。本丸の東一帯は1メートル余の高処となり、中央に戦闘中の城主の居館跡(現彦山神社)南に政所あと、南端と北端に櫓跡がある。本丸の正面入口(西)には頑丈な門もあったと思われ、下左の石垣は、厚さ40センチ長さ60センチ余の粘板岩(ねんばんがん)の算木積の野面積(占い用の角棒状になっている自然石で積んだ石垣)この左上に、最も高い重要な櫓跡がある。古書に記す「3台の櫓跡今なお存す」の確認できる。
二の丸は本丸の西下81メートルの所にあり、南北30メートル、東西30メートルの広さで、現在、薬師堂・十三佛など信仰の場となっている。
馬場は、本丸と二の丸の間にあり、南北18メートル、東西40メートルで、駐車場等になっている。
三の丸は、本丸の東(裏側)下の空堀(大堀切―南北200メートル、東西7メートル)それより更に東10メートルの林の中にある。南北18メートル、東西40メートル。
二の丸から西、山麓(陣の内・黒木中学校)に通ずる大きく高い土塁(曲輪)が、40メートル以上現存している。これは直線の土塁で、戦闘準備(武器弾薬、食糧など)のとき上下する通路である。二間長屋跡は不明。他に勢揃いする馬場、軍馬を走らせるコース、井戸などは現存する。
現存する城跡は、天正12年(1584)9月こけら落成後、約400数年後の山城跡である。山城は「結の城」で、守勢の城、最後は篭城(敵に囲まれて城にたてこもる)の場となる。
由来
猫尾城の鼻祖、黒木大蔵大輔源助能が、大隅国根占(鹿児島県肝付郡大根占町)から、筑後国上妻郡黒木郷に移ったと伝えられるが、時期は正確にされていない。しかし、大根占町の古文書、徳大寺文書、桧室文書、黒木氏、木屋氏家譜により、仁安2年(1167)と推考される。
大根占町、最古の文献に「治暦5年(1069)正月9日、藤原頼光所領を子頼経に与えた分配帳案文」がある。次に「藤原鎌足を祖とする名門富田義光、仁安1年(1166)大根寝院の弁済使(税としての納米を清算する役人)になり、島浜の高城を居城とす」との文献がある。藤原頼光と富田義光との間、約100年、文献なしとされている。この不明の100か年間の高城城主は、源助能の祖先三代である。
(一)天承1年(1131)山門郡瀬高荘が上・下二荘となる。太宰師藤原俊忠の家領となる。
(二)仁安2年(1167)このころ高瀬荘、預所職(あずかりしょしき)(代官職)につき争論する。後徳大寺家これを預る。(一)(二)は正史。
このとき、助能の祖、源高能が京都御所に仕え、徳大寺家と関係があったので、この縁により、頼まれて代官となり、大根占から矢部川の上流、上妻郡黒木郷に移ったと推考される。
助能は父源根占藤四郎能永と黒木郷に移り、治水、産業につとめ住民の信頼を受ける代官となった。
文永11年(1274)元軍、博多・今津に侵攻したとき黒木・星野・川崎軍らとこれを迎え討ち、建治2年(1276)元軍の上陸を阻止するため、箱崎海岸に石塁を築きに出る。弘安4年(1281)7月5日、木屋地頭香西小太郎度景、弟広度、元軍の兵船に乗り移り奮闘する。広度は元軍と組み合い海中に入る。親類、家臣、郎従も多く戦死する。
南北朝時代は、延元元年(1336)8月、後醍醐天皇の綸旨をいただき、天皇方(南朝)につき終始一貫、懐良親王良成親王を奉じ、五條氏と共に誠忠をつくす。この間、猫尾城は、延元元年3月17日、文中3年(1374)11月16日、天授4年(1378)9月8日、元中8年(1391)10月、一時北朝方に攻め落とされ敵の城となる。
戦国時代は、大たい大友氏に属していたが、天正7年(1579)佐賀の龍造寺氏に攻略される。天正12年(1584)9月5日大分の大友氏に攻められ、黒木兵庫頭家永は本丸居館の2階で切腹し落城となる。慶長6年(1601)辻勘兵衛尉黒木城代となる。元和元年(1615)一国一城令で、長い歴史を秘める猫尾城、城主のいない廃城となる。