赤司城(あかじじょう)

赤司城の基本情報

通称・別名

所在地

福岡県久留米市北野町赤司

旧国名

筑後国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

赤司永直?

築城年

鎌倉時代

主な改修者

田中清政

主な城主

赤司氏、秋月氏、田中氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

西鯵坂城(福岡県小郡市)[4.6km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[7.6km]
発心城(福岡県八女市)[7.6km]
乙隈城(福岡県小郡市)[8.8km]
久留米城(福岡県久留米市)[9.7km]
朝日山城(佐賀県鳥栖市)[11.1km]
鷹取城(福岡県八女市)[12.3km]
基肄城(佐賀県三養基郡)[13.3km]
勝尾城筑紫氏城館(佐賀県鳥栖市)[14.1km]
秋月城(福岡県朝倉市)[14.7km]

赤司城の口コミ情報

2024年07月14日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
平塚川添遺跡[赤司城  周辺城郭]



福岡県朝倉市の平塚にある『平塚川添遺跡』♪現在は平塚川添遺跡公園として整備された、弥生時代の環濠集落となります♪

弥生時代後期~古墳時代初期(紀元2~3世紀)に最盛期を迎えた集落です♪最盛期には数百人が生活していたと考えられています♪小石原川と佐田川に挟まれ、高まる台地上に環濠集落は形成されました♪
東側の福田台地を背にして一部、水を湛えた多重環濠に囲まれているのが特徴です♪
中世城郭などでも見られる多重堀を、既に古来より使用しているという事は、往時にも近隣集落との争いがあった証拠なのでしょうね♪

集落の中心部には当時の住居である竪穴建物、木の桁橋、穀物倉庫と思われる掘立柱建物、祭殿、集会所(首長館)などを復元しています♪

この平塚は『ひらづか』と呼びます♪
因みに平塚の地名が見えるのは、中世は南北朝時代からです♪中世の事を記すと、荒木家有軍忠状には、筑後の荒木家有は筑後国下座郡平塚原において、南朝方である菊池武敏と戦い、この地は戦場となっています。この時、肥前国下松浦の大島通秀も、ここ平塚で菊池勢と戦っています。また、肥前国・武雄社大宮司代である弥三郎員門も、北朝方の仁木氏に属して参戦しています。
天授2年(1376年)肥後の阿蘇社大宮司である阿蘇惟武は、征西府から下座郡の平塚名を宛行われている為、筑後平塚は阿蘇家の領有する地となっていると思われます。

だだっ広い平野部だからこそ、少しの高まりを集落や城郭に転用する♪ソコに、川などの自然物を防御線とし、溝を堀り水を流したり、石垣を築いたりして自衛する♪古来も中世も近世も、人間の本能は変わらないのでしょう♪
何で?この場所に城郭や環濠集落を造った?考えたら全て意味があるのでしょうね♪

2024年07月11日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
鳥飼城[赤司城  周辺城郭]



福岡県の三井郡大刀洗町にある【鳥飼城】♪筑後鳥飼地区の中、筑後川中流域の右岸に立地します♪現在は、住宅地の中に鳥飼城の石碑が残ります♪但し遺構はありません。二又川、三川、小石原川など小さな河川が筑後川に合流する場所で、南側には筑後川を挟み耳納連山が連なります♪集落の南西側にある鳥飼印鑰神社には、文化5年銘の石塔ありました♪地名の由来は古代の鳥飼部の居住によるものとされています♪

この鳥飼城は『寛延記』によれば、新田義信が築いた城郭となっています♪南北朝時代には新田氏の一族が、九州のこの付近まで勢力を拡大しているという事が驚きです♪かなり広範囲に勢力を奮っていたという事でしょう♪鳥飼のある大刀洗という場所は幾多の戦場になっていて、筑後川の戦い等筑後川を挟み、南朝と北朝が対峙し合戦になっています。延元元年(1336年)南朝方の菊池武敏の三奈木城を、北朝方の武将である仁木義長が攻撃した際の戦場の1つが、この鳥飼城とも推定されています。

鳥飼城については、筑後国史に『東西二十四間、南北三十間、南面ニテ四方へ廣三間ノ堀アリ、今庄屋宅内也、此城ハ新田義信ノ所築卜云』とあり今は無き、遺構があったと記されています♪

鳥飼印鑰神社は新田義信が建立したと伝わり、境内には新田大明神が祀られています♪

往時の様子を知る由も無いくらい、長閑な風景が広がっていました♪

2024年07月01日 マグロ常陸介祐平
三原城[赤司城  周辺城郭]



平安時代から続く三原氏の居城で、鎌倉時代初期には原田氏から養子が入ったようです。
戦国期の当主三原紹心(紹忍とも、主の変化により法名も変更される)は、大友氏の直臣の後に高橋紹運に従い、岩屋城の戦いで戦死しています。孫の種久が生き残り、立花直次に仕えたようです。三原氏の歴史については、先人様が詳しく口コミされています。

歴史を感じさせる旧家の前に、城址の石碑と説明板が立っています。遺構はよく残っているようですが、個人宅内で見ることは出来ません。

石碑の立つ旧家はかなり立派な建築物で、明治時代のものです。文化財ではありませんが、「佐々木家住宅を守る会」により保存活動が行われています。
佐々木氏(旧名は田口氏)は、近隣の松崎藩有馬家の旧臣で、お家騒動で廃藩になった後にこの地に移り佐々木と改めたそうです。明治時代に入り櫨蝋製造で栄えたようです。

2024年05月04日 noble権中納言弥勒菩薩
赤司城



中心部すらもはや良くわかりません。石碑のあるところは神社からも大分離れており、ここは中心ではない気がします。遺構は残っていないようです。ただ、掘割状の道路とかは怪しくみえます。

2023年11月11日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
三原城[赤司城  周辺城郭]



福岡県の太刀洗町にある【筑後三原城】♪筑後平野の中央に築かれた平城は住宅地の中ではありますが、堀を残します♪但し、現在は住宅が建ち並ぶ背後に堀がある為、中々見学が難しいです☆

戦国時代の三原城の城主は、三原大和守紹忍入道重種♪天正14年(1586年)岩屋城主・高橋紹運と共に薩摩国、島津氏と戦い岩屋城で散りました☆

この三原氏ですが、三原弾正時勝という人物を祖として、本郷中心に勢力を奮った一族です♪鎌倉時代には高祖山城城主・原田種直の子、原田種雄が筑前秋月荘を与えられ秋月氏を名乗っていて、コレと同時期に原田種直の子、原田種朝は、本郷三原家に入り、三原氏を継ぎ13代目の当主となりました☆
出自は原田家という事になります♪
原田氏自体が、古くから力のある勢力だった訳であります♪

南北朝時代に入ると三原朝種は宮方(南朝)菊池氏に準じています♪多々良川の戦いで、菊池氏は足利尊氏に敗れていますが、菊池武敏、三原朝種と共に、この三原城に籠城☆
が、仁木義長の追撃を受けてしまい、三原城は落城☆菊池武敏は八女の黒木城に退いています☆

応仁の乱の頃には、三原氏、高橋氏共に、周防国・大内政弘に属し、播磨守護・山名宗全の陣営にありました☆

戦国時代には周防国・大内義隆が、家臣・陶晴賢の反乱により、自害し大内氏が滅びると、筑後は豊後国・大友氏の支配下に入る流れとなります♪

天正6年(1578年)大友氏は耳川の戦いで、島津氏に大敗すると、筑後国の諸土豪は、大友氏に反旗を翻します☆が、この時の三原城主・三原左衛門重種は、引き続き大友氏に寄り添っています♪三原氏は大友氏と最期まで運命を共にしていく、忠義に熱い武将だったのでしょう♪

戦国時代後期、九州の中で勢いの止まらない薩摩国・島津氏☆
諸城を落城に追い込みながら北上してくる島津軍です☆この時、城主・三原紹忍入道重種(この時期名前変え)は高橋紹運と共に岩屋城に籠もりました☆コレが『岩屋城の戦い』です☆総勢763名と云われる少数で、戦っています☆対する島津軍は2万とも5万とも云われる兵で岩屋城を取り囲んでいます☆

この時、三原紹忍入道重種は百貫島砦を守ったと云われています☆
島津勢の総攻撃を受けると…三原和泉、富元忍富、簗瀬三河などの50余名の家臣を率いて奮戦するも…多勢に無勢。。遂には百貫島砦も落ち、三原紹忍入道重種は討死にしました……。本丸を死守していた、高橋紹運以下50余名も心静かに辞世の句を残して自刃しました……。

『かばねをば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき 流れて末の 世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水』

かくして、高橋紹運、三原紹忍入道重種以下763名は1人として、城を後にする者なく、最期の最期まで1人残らず岩屋城と共に運命を共にしています…。。

本郷集落内には西光寺があります♪
このお寺は土豪・三原氏の菩提寺で大同4年(809年)に建立されたと伝わります♪

2023年02月19日 じょーうん隠岐守
三原城[赤司城  周辺城郭]

高橋家家臣三原氏の居城と伝わります 城主三原紹心が岩屋城の戦いで討死した後に役目を終えたを伝わります 城跡には内堀と外堀を見ることができます 激しい竹薮だった所が最近刈られていて見やすくなりつつあります

2022年04月13日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
松崎城[赤司城  周辺城郭]



福岡県の小郡市にある【松崎城】♪街中に溶け込んだ城郭の本丸は現在高校の敷地内にあたります☆

宝満川の中流と太刀洗川に挟まれる形で山隈原の台地に立地する松崎町の地名の由来としては古来より筑紫平野が有明海に連なる入海だった時に海中に突き出した岬に松が生い茂っていた事と伝わります☆

近世になって築かれた、この城郭は寛文11年(1671年)有馬豊祐が築城します♪
初めは、柳川藩領(田中氏)に属しましたが、その後に久留米藩領から松崎藩領へ♪
幕府天領に属しながら再び久留米藩領へと松崎藩は、あっちこちの藩領を転々としました☆

久留米2代藩主・有馬忠頼は子がいなかった為に妹の嫁ぎ先である但馬国は出石藩の小出吉重の子・豊範を養子に貰い受けます☆が、その後に有馬頼利等の子が出来た為、有馬豊祐は松崎に1万石を分与され、この松崎藩を立藩(横隈、津古、三沢、力武、大保、大板井、大崎、寺福童、山隈、乙隈、干潟、吹上、井上、上岩田、下岩田、稲吉、鵜木、高樋村の19か村)しています♪

後に松崎藩・有馬氏は改易(有馬豊祐は実姉の夫である陸奥窪田藩主・土方雄隆のお家騒動を親族として仲裁しなかった事を咎められた)になり、松崎藩は江戸幕府に没収され天領へとなっていますが、再び本藩である久留米藩へ返還されました☆

陣屋町としては短い期間の機能ではありましたが、松崎往還の重要な宿駅として栄え御茶屋(本陣)も置かれました☆

残る遺構としては北溝口(北枡形)、南溝口に石垣遺構を残します♪桜馬場と呼ばれる長い直線道に出丸、濠の名残など街中ハントには、うってつけの城郭です☆
城内には倉稲魂神社が建立されていますが、コレは藩主・有馬豊祐が京都の伏見より分霊しています♪

2021年07月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
赤司城



福岡県の久留米市にある【赤司城】☆歴史詳細が載っていなかったので口コミにアップします☆

今は閑静な住宅地になっています☆

築城年代は不明ですが赤司城は赤司八幡宮一帯に築かれた平城です☆赤司永直によって築かれたとされています☆
この城郭の主要部にある赤司八幡宮の前身は平安時代以前からと云われていて、雰囲気を醸し出しています☆
北は福岡、太宰府方面に向かう街道が走り、東は20キロも行けば豊後国への入り口、更には西は肥前国と交通の要衝地として勢力争いが繰り広げられ度々戦火によって焼失しています☆これを防ぐ為に八重の堀と七重の築地を巡らした城郭が形成されていました☆
残っていたらワクワクしますね♪
が、今は宅地により消失していますが名残を残しています☆
江戸時代になると久留米城主・田中吉政の家臣・田中左馬尉清政が城主になりましたが一国一城令で廃城となってしまいました☆

南の納骨堂辺りが本丸で一段高くなっています☆道路は堀の名残りとして、赤司八幡宮と段差を付けます☆陣屋川の支流の池田川が緩くS字を描く場所の北側が城郭となります☆
治水地図で確認すると今と川の形が変わっているのが判ります☆見れる方は見てみて下さいね♪昔の方がやっぱり堅固な印象です☆

2021年07月02日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
下高橋城[赤司城  周辺城郭]



福岡県の太刀洗町にある下高橋城♪中世の豪族【高橋氏】の居住跡で現在の竈門神社境内を中心とした一帯が城郭跡で「木戸」「構口」「屋敷」などの地名と北・西・南を巡る堀が残っていました☆

この高橋氏の祖は大蔵春実で藤原純友の乱の平定の手柄により上高橋・今・鵜木・下高橋のエリアを領地としました☆
「筑後国史」には『平城なり、縦53間、横25間、東に広さ3間の堀あり。西にまた2つあり。一つは広さ3間半、一つは2間の堀あり。二の丸は縦43間、横20間、東西に広さ3間、南に2間の堀がある。高橋三河守鑑種先祖より続きたる采地の城なり。鑑種、大友の賞によって筑前岩屋の城を賜りこれに移る。』と残っていて高橋氏が生きた証拠が残ります♪
この地名をとって【高橋氏】と名乗って行く訳ですが室町時代の高橋長種には跡継ぎが無くて豊後の戦国大名・大友宗麟は名家の絶える事を惜しみ一族の一万田右馬助に高橋家の家名を継がせ高橋三河守鑑種と名乗らせました☆その後の高橋氏は居城を上高橋からこの下高橋の地に移し筑前・岩屋城に身を移すまでココを居城としていました☆境内に残る宝篋印塔は「高橋様」と呼ばれ、高橋氏ゆかりのモノと伝わります♪
因みに高橋紹運は筑後・岩屋城と宝満城の2城とこの高橋家を継ぎます☆
最後は…筑後・岩屋城で島津軍と戦い…玉砕しました☆

今は城郭は宅地開発により遺構は消失☆ただ、堀の名残は残しています☆
そんな高橋城と高橋氏の話でした☆

赤司城の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 赤司城跡石碑(碑・説明板)

 下高橋城(周辺城郭)

 三原城(周辺城郭)

 松崎城(周辺城郭)

 平塚川添遺跡(周辺城郭)

 鳥飼城(周辺城郭)

 飯田館(周辺城郭)

 下高橋官衙遺跡(寺社・史跡)

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