平塚川添遺跡
平塚川添遺跡([赤司城 周辺城郭])
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平塚川添遺跡の口コミ情報
2024年07月14日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
福岡県朝倉市の平塚にある『平塚川添遺跡』♪現在は平塚川添遺跡公園として整備された、弥生時代の環濠集落となります♪
弥生時代後期~古墳時代初期(紀元2~3世紀)に最盛期を迎えた集落です♪最盛期には数百人が生活していたと考えられています♪小石原川と佐田川に挟まれ、高まる台地上に環濠集落は形成されました♪
東側の福田台地を背にして一部、水を湛えた多重環濠に囲まれているのが特徴です♪
中世城郭などでも見られる多重堀を、既に古来より使用しているという事は、往時にも近隣集落との争いがあった証拠なのでしょうね♪
集落の中心部には当時の住居である竪穴建物、木の桁橋、穀物倉庫と思われる掘立柱建物、祭殿、集会所(首長館)などを復元しています♪
この平塚は『ひらづか』と呼びます♪
因みに平塚の地名が見えるのは、中世は南北朝時代からです♪中世の事を記すと、荒木家有軍忠状には、筑後の荒木家有は筑後国下座郡平塚原において、南朝方である菊池武敏と戦い、この地は戦場となっています。この時、肥前国下松浦の大島通秀も、ここ平塚で菊池勢と戦っています。また、肥前国・武雄社大宮司代である弥三郎員門も、北朝方の仁木氏に属して参戦しています。
天授2年(1376年)肥後の阿蘇社大宮司である阿蘇惟武は、征西府から下座郡の平塚名を宛行われている為、筑後平塚は阿蘇家の領有する地となっていると思われます。
だだっ広い平野部だからこそ、少しの高まりを集落や城郭に転用する♪ソコに、川などの自然物を防御線とし、溝を堀り水を流したり、石垣を築いたりして自衛する♪古来も中世も近世も、人間の本能は変わらないのでしょう♪
何で?この場所に城郭や環濠集落を造った?考えたら全て意味があるのでしょうね♪