発心城(ほっしんじょう)

発心城の基本情報

通称・別名

発心岳城

所在地

福岡県八女市上陽/久留米市/うきは市

旧国名

筑後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

草野鎮永

築城年

天正5年(1577)

主な改修者

主な城主

草野氏

廃城年

天正15年(1587)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

県史跡(発心城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

鷹取城(福岡県八女市)[6.9km]
赤司城(福岡県久留米市)[7.6km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[8.3km]
猫尾城(福岡県八女市)[9.6km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[11.2km]
福島城(福岡県八女市)[13.0km]
久留米城(福岡県久留米市)[13.5km]
麻底良城(福岡県朝倉市)[14.2km]
乙隈城(福岡県小郡市)[16.3km]
朝日山城(佐賀県鳥栖市)[16.7km]

発心城の解説文



発心城(ほっしんじょう)は、福岡県の久留米市から八女市、うきは市にかけてあった日本の城(山城)。福岡県指定史跡。

概要 

耳納山地の標高697.5mの発心山の山頂を中心とし、総規模は東西・南北それぞれおよそ380m、200mにおよんだ。山頂の本丸は東西・南北にそれぞれおよそ20m、50mの規模で、北側に堀切を隔てて二の丸があった。本丸の西側には130m×20mの曲輪が、本丸から東の尾根上には出丸が配置されており、出丸の北には土塁と堀切が設けられた。北麓には大手道があり、虎口が形成されていたという。

天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで敗れたのを契機に、草野鎮永は大友氏の傘下から離れて龍造寺氏の下に入った。これに伴い、それまでの拠点だった竹井城に代えて当城を築いている。天正13年(1585年)には大友氏側の高良山衆徒らに攻撃され、また秋月氏にも攻められたもののいずれも撃退している。しかし、天正15年(1587年)の九州征伐の際に豊臣秀吉に鎮永が誘殺されると、当城は廃城となった。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年
  • 日本歴史地名大系 (オンライン版)

発心城の口コミ情報

2023年05月29日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
竹井城[発心城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【竹井城】♪耳納山地の西端は高良山があり、古来より宗教的権威を核とする勢力が集結♪続く東に連なる尾根の山上、または麓周辺には星野氏、問註所氏、草野氏、河崎氏、黒木氏etcの豪族が割拠したエリアでもあります♪この竹井城は草野氏の城郭となります♪

鎌倉時代よりこの地を治めた草野氏です♪
後の戦国の世には本城を発心城へ移し、竹井城を始めとして支城群で固めています♪

この草野氏は藤原北家流と云われていて、肥前高木氏・肥後菊池氏・上妻氏、更には龍造寺氏らと同族と伝わります♪長寛2年(1164年)に高木宗貞の子である高木永経は、肥前国は佐嘉郡高木庄から筑後国は山本郡草野荘の吉木に移住して竹井城を築きました♪
以後、永経は地名により草野氏を称する様になっています♪草野永経が筑後に移った頃の中央では、保元・平治の乱が勃発⭐︎源氏を倒した平氏が『平家にあらずんば人でなし』と全盛期を誇った時代となります⭐︎
後に伊豆の源頼朝が平氏打倒の兵を挙げ源平合戦が始まると、草野永経は肥後・菊地氏らと共に源氏方に味方します♪
元暦元年(1184年)に平氏と戦った功により、文治2年(1186年)源頼朝から御井・御原・山本など三千町歩の所領を賜っています♪

草野永経の子・永平も源平合戦で功があり、筑後国在国司・押領使両職を安堵され、更には肥前国鏡社大宮司(松浦郡)に補任されました♪草野氏は筑後・肥前にまたがる一大勢力へと登り詰め、中世を通して筑後・肥前を舞台に活躍しました♪

弘安3年(1281年)『弘安の役』では草野永綱・経永父子が出陣♪草野経永は肥前国唐津庄を領していて、『弘安の役』の勲功により唐津庄を賜っています♪

唐津を賜った草野氏は鬼ヶ城(post済)を本拠として、引き続き鏡神社の宮司を兼ねました♪そして筑後草野氏が本家、肥前の松浦草野氏は庶子家としてそれぞれ発展していきました⭐︎因みに、この松浦草野氏は天正2年に肥前国・龍造寺隆信により落とされ、筑前国は二重城へ逃れています⭐︎

さてそんな草野氏ですが、中世の動乱に翻弄されていきます…南北朝の動乱期には宮方として足利尊氏を迎え撃つ体制を取り、菊池氏、阿蘇氏の構える南朝方へ⭐︎草野永久は出陣⭐︎多々良浜の戦い♪が、これに敗れてしまう訳ですが…この戦いに勝利し上洛した足利尊氏は九州の押えとして九州探題を設置し宮方に対峙させていて、一時の草野氏は宮方から探題方に転じています♪が、その後は南朝方へ属してます⭐︎草野氏は盛衰を繰り返しながらも、この時期、筑後に一定の勢力を維持してます⭐︎

戦国時代に突入すると周防・大内氏は北九州に進出⭐︎大内氏は鎮西の有力者だった少弐氏、豊後の大友氏らと抗争を繰り返しました⭐︎草野氏ら筑後の国人領主は、この狭間に揺られていく訳であります…

その後少弐氏は滅亡し、大内氏も陶晴賢の謀叛によって滅亡していくと、北部九州は豊後国の大友氏と肥前国の龍造寺氏の二大勢力が並び立つ様になり、これに南九州の島津氏が北進の気配をみせる情勢へとなっていきました⭐︎国人領主からしたら…不安定な情勢ですね⭐︎

戦国時代後期の草野氏の当主・草野鎮永は、先祖代々の居城であるこの竹井城に不安を感じ、天正5年(1577年)新たに発心城を築城し本城としています⭐︎

耳川の戦いにより大友氏が島津氏に大敗した事で、筑後の大半の国人領主は龍造寺氏に属する様になっていく訳です⭐︎
その結果、発心城は大友氏、高良山座主、秋月氏らの度重なる攻撃に晒されていきました⭐︎この時に竹井城も同様に攻められたのでしょう⭐︎草野鎮永は良く耐え、その攻守は3年に及んだと伝わります⭐︎

秀吉の九州征伐時には草野鎮永は島津氏に味方して発心城に拠り、秀吉勢を迎え撃ちました⭐︎結果は圧倒的な秀吉軍に抗すべくもなく降伏しています⭐︎
九州を平定した秀吉は九州仕置(戦後処理)を断行⭐︎豊前から四国の伊予への転封を命じられた城井宇都宮氏はそれに抵抗し、遂に中津城に誘い出されて殺されています⭐︎
筑後では草野鎮永が仕置に反発して発心城に立て籠もりますが、小早川秀包に攻められ下山、善導寺に逃げ込んだ草野鎮永は秀吉に謀られ木塚の里で自害したとされています⭐︎
 
草野鎮永が自害した際、子の草野永広は肥前国の鍋島氏に質としてあった為に一命を留め、その後は鍋島氏に仕え一千石を賜った様です♪

2023年03月29日 RED副将軍
発心城



標高697.4mの発心山ピークに築かれた堅城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

1577年、草野鎮永により築城。
草野氏は、筑後国の国司として勢力を奮った有力土豪で戦国期には大友氏に属していました。
1577年に大友氏が耳川合戦に敗北し弱体化すると龍造寺氏に寝返りました。その際に草野鎮永から草野清家に名も改めています。その後、居城を竹井城から発心城を新たに築いて移しました。
1587年の豊臣秀吉による九州征伐において、草野清家は豊臣家臣に謀殺され、草野氏は滅亡し発心城も廃城となりました。

見所
標高697.4mの発心山ピークに築かれています。
大友氏や高良山座主の勢力からの侵攻にも落ちなかった不落の城と云われるだけあって険しい高所にあります。
山頂に主郭を配し、北、西、東に伸びた尾根に郭を展開しています。北に伸びた尾根に二郭、三郭が連なり、それぞれ土塁囲みと鋭い切岸が認められます。
三郭北側の堀切はヤブに埋もれていますが何とか確認可能。しかし、西尾根の五郭西側の堀切は冬でもヤブ化してました。
東尾根の六郭東側の堀切は林道沿いで明瞭です。

行き方は、標高は高いですが耳納スカイラインの林道沿いにあるため車で簡単に行くことができます。

写真
①かなり鋭く高い主郭切岸
②主郭
③主郭と二郭を区切る堀切を東から
④同上 西から
⑤二郭の切岸
⑥四郭から城下を一望
⑦三郭北側の堀切
⑧六郭東側の堀切

2021年03月22日 榎晴信肥後守
竹井城物見櫓[発心城  遺構・復元物]



竹井城物見櫓跡は竹井城南側尾根標高371㍍にあります。
主郭は南北約40㍍東西約15㍍ほど、北側に数段の曲輪があり最高所は狼煙台と言われている窪みがあります。南側尾根を二重の堀切で断ち切っています。一本は道路で破壊されていますが幅10㍍程の大型の堀切です。

案内ですが竹井城脇の舗装された道路をひたすら登る(車でも行けますが現在は通行止め)と約40分程で城跡直下にたどり着けます。竹井城との比高は約200㍍となります。

2021年03月19日 榎晴信肥後守
竹井城[発心城  周辺城郭]



城主の草野氏は初代草野永経が肥前高木より筑後吉木に入国してより424年間この地を治めましたが第16代草野家清が秀吉の不興をかい蜂須賀家政に熊本南関にて誘殺され天正16年滅亡しました。

竹井城は若宮八幡宮の背後の丘陵上、標高171㍍に主郭があり南側に堀切、西側に腰曲輪を巡らし12本の畝状空堀群が構築され、北西側には階段状に曲輪を並べその西側に堀切を設けています。回りは後世の段造成が多数ありますが城の遺構はよく残ってました。

行き方ですが先ず若宮八幡宮を目指します。道はさらに山へと続いてますので道なりに登ると開墾記念碑がありますので記念碑の右側から侵入し少し尾根を進めばすぐに城域となります。

2021年03月11日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
発心城(上ノ城・下ノ城・中ノ城)[発心城  周辺城郭]



福岡県の久留米市、八女市、うきは市にまたがる形で展開される発心城の出城である【上ノ城、中ノ城、下ノ城 】♪草野氏の出城は一番高い標高190mにあるのが「上ノ城」、北東側の標高160mの峰にあるのが「中ノ城」、北西の標高148mの「下ノ城」となっていて中腹に位置し三つの峰からなり背後の本城(標高697m)を守りました☆

鎌倉幕府の御家人・草野氏は筑後一円を支配する強大な力を持ってました☆浄土宗鎮西派の大本山善導寺を建てたのも草野氏です☆
元寇襲来の際にも元軍と堂々と戦っています☆南北朝の乱等の中で草野氏は盛衰を繰り返していて戦国時代には、豊臣秀吉により肥後南関で草野領主が誘殺されてしまいます☆それを聞いた発心城に居た一族郎党も自害☆草野氏は滅亡してしまいました☆

特に上ノ城、下ノ城の連続畝状竪堀の畝がデカクて見所の一つとなっています☆上ノ城から下ノ城へは尾根続きで元々は繋がっているんですが、ゲキ藪過ぎて進めず一旦退却し、麓へ戻り張り付く所を変えて登城しました☆人の足が余り入っていない為に遺構の残り方は抜群で、寄せ手を本城まで絶対行かせてなるものか☆気迫の縄張りになってます☆

2017年06月12日 慶次朗掃部頭一寿
発心城

地元では小学生が遠足で近所のテレビ塔まで行っていたので(歩いて)畑でも無い限りもう登らないと思う。
車は発心公園からも行けるが地元の人間出ないと面倒な悪路か、まあ地元の人間でも悪路か。
下記に書いて頂いた耳納スカイラインは久留米陸上部自衛隊が昭和の終わり辺りに開通させました。これは高良山からも行けますのでおすすめです。高良山の城が取れます近所です。
因みに八女って書いてありますが地域としては久留米市草野町がメインですし御井郡(久留米市に入る前)と言われたことはあっても八女はないですね。
八女はこのゲームにないですが、山越えた星野氏の館跡ではないでしょうか。
草野町には発心城の前に竹井城てのがあるのですが…赤司や神代の館があるならば竹井城や星野氏の館とあってもよさそうですが無いのですよね。
星野は最近有名な場所なので1つ位入れてあげても良いような気がします。
草野は県道沿いに資料館がありますので是非。

2017年03月21日 じょーうん隠岐守
発心城

発心城までは車で行くことができます。
但し、県道70号線の田主丸からかんかけ峠の道は県内屈指の悪路なので、耳納スカイラインから向かうルートをおすすめします。

発心城の周辺スポット情報

 竹井城物見櫓(遺構・復元物)

 発心城(上ノ城・下ノ城・中ノ城)(周辺城郭)

 竹井城(周辺城郭)

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