発心城(ほっしんじょう)

発心城の基本情報

通称・別名

発心岳城

所在地

福岡県八女市上陽/久留米市/うきは市

旧国名

筑後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

草野鎮永

築城年

天正5年(1577)

主な改修者

主な城主

草野氏

廃城年

天正15年(1587)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

県史跡(発心城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

鷹取城(福岡県八女市)[6.9km]
赤司城(福岡県久留米市)[7.6km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[8.3km]
猫尾城(福岡県八女市)[9.6km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[11.2km]
福島城(福岡県八女市)[13.0km]
久留米城(福岡県久留米市)[13.5km]
麻底良城(福岡県朝倉市)[14.2km]
乙隈城(福岡県小郡市)[16.3km]
朝日山城(佐賀県鳥栖市)[16.7km]

発心城の解説文



発心城(ほっしんじょう)は、福岡県の久留米市から八女市、うきは市にかけてあった日本の城(山城)。福岡県指定史跡。

概要 

耳納山地の標高697.5mの発心山の山頂を中心とし、総規模は東西・南北それぞれおよそ380m、200mにおよんだ。山頂の本丸は東西・南北にそれぞれおよそ20m、50mの規模で、北側に堀切を隔てて二の丸があった。本丸の西側には130m×20mの曲輪が、本丸から東の尾根上には出丸が配置されており、出丸の北には土塁と堀切が設けられた。北麓には大手道があり、虎口が形成されていたという。

天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで敗れたのを契機に、草野鎮永は大友氏の傘下から離れて龍造寺氏の下に入った。これに伴い、それまでの拠点だった竹井城に代えて当城を築いている。天正13年(1585年)には大友氏側の高良山衆徒らに攻撃され、また秋月氏にも攻められたもののいずれも撃退している。しかし、天正15年(1587年)の九州征伐の際に豊臣秀吉に鎮永が誘殺されると、当城は廃城となった。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年
  • 日本歴史地名大系 (オンライン版)

発心城の口コミ情報

2025年11月22日 龍馬備中守【】
鬼ノ口城[発心城  周辺城郭]



福岡県八女郡の広川町水原にある【鬼ノ口城】♪別名を甘木城とも呼びます。東は刑部谷の諸山をもって、八女市上陽町を境に、南は長峰丘陵を持ち八女市に接し、西は筑後市、北は久留米市に界する、耳納山系に囲まれた、通称・広川谷と呼ばれる、広川盆地をなす地域であります。発心山に源を発する広川が東から流れ、その流域に細長い盆地性の平野を作り出し、筑後川に注いでいます。この広川沿いの氾濫原を利用して、集落を成し、更には城を構えて、人々は生活を営みました。この地域は、石器縄文式土器、焼米の出土品が示すように、相当古くから人々の生活が営まれていて、稲作農業が展開してきた事が考えられています。大和朝廷による国家統一とほぼ時代を同じくする古墳文化も、石人山古墳をはじめ、岩戸山古墳、人形原古墳群など、遺跡が多く発見されており、この地域の開発が順調に進められた事が想像出来ます。

日本書紀には、景行天皇が熊襲を征伐した後、当地に巡幸になり、その折『八女』の名が起こったとされます。『広川』の名称が現れるのは、天承元年(1131年)崇徳天皇の代で『広川荘』となり、その後に上の荘、下の荘に分かれ、現在の広川町は上の荘に属しています。

さて、この鬼ノ口城ですが、城主は甘木氏となります。この甘木氏は、筑後・西牟田氏の分流です。主家である西牟田氏は、伊豆三島を本貫地とする家柄で、幕府の命を受け、嘉禎年中頃(1235年〜1238年)に筑後国三瀦郡西牟田村に地頭として来住し、堡を築き、村の名前の『西牟田』を姓として名乗っています。その後、応仁2年(1468年)西牟田重家の弟である西牟田家恒が、上妻郡甘木村を拝領して分家し、甘木村の馬場に拠点となる居館を構えています。そして、甘木の地名から甘木氏を名乗っています。
甘木家恒以降の甘木氏の資料は乏しく、調べきれていませんが、甘木氏5代目の甘木家棟と、その子・甘木安家は、天正6年(1578年)耳川の戦いに大友方として出陣しています。 『九州治乱記』によると、筑後の諸将たちは、天正6年(1578年) 10月2日に出発し、同24日に高城周辺に着陣したと伝えています。この時、甘木親子には、甘木家の重臣12人が随行していて、高橋右京・山田善五兵衛・中島左馬助・有積丹波・橋詰与七郎・中山小太郎・香山民部・掛橋刑部・掛橋与八郎・草場三五郎・姫野久太郎・姫野伊豆などの名前が伝えられています。が、甘木親子と重臣達は悉く討死し、現在は出身の村ごとに、供養塔が祀られています。中島殿の墓・古常殿・塚殿さんなどが、残ります。耳川の戦いの結果は、大友軍の惨敗に終わっています。地の利を把握し、十分に布陣をして待ち受けた、島津軍の大勝利で幕を閉じています。

そもそも、鬼ノロ城の地名として、尾根の口が語源とされています。尾根の口が、いつの間に『鬼ノ口となったのでしょう。その他に残る地名としては、館というものが残り、コレは城主居館で、他にも馬場や掃部谷(鴨谷)、弓場谷(射馬谷)なども、城にに縁のある地名と考えて良いでしょう。

耳川の戦いで討死にした、甘木家棟と安家を継ぐ7代目には、甘木家長が居ましたが、まだ幼子の為に、耳川の戦いには同行していませんでした。耳川の戦いで敗れた豊後大友勢を横に、薩摩島津と連携した肥前龍造寺隆信による、筑後一帯への侵攻が始まります。耳川の戦いから1か月と経たない11月に侵攻した龍造寺勢は、鬼ノロ城へ攻め込んでいます。城を守る甘木家長は、残った家臣らと共にコレを防いでいます。

天正14年(1586年)いよいよ九州覇権を手にしたい薩摩島津の大軍が、筑後に北進してきます。稲員一族の古賀村館を始め、近隣の城ノ尾城や山王山城など、激しく攻められて落城しています。島津勢はその勢いのまま鬼ノロ城へ激しく攻めかかり、鬼ノ口城は落城してしまいました。幼少の城主、甘木家長や姫野左近は城を離れ、肥後国の石村に逃れて、蟄居しています。しばらくして、姫野左近は甘木村へ戻り、甘木家長存命中は、合力米を送り続けています。応仁2年から118年にわたる鬼ノ口城の歴史は、コレにて終焉を迎えています。

城郭は、南北に長く伸びる尾根上の標高147mに立地します。堀切、土塁、石積み、竪堀、虎口など良好に残ります。自然地形も巧みに活かしていて、118年間も在城しただけあり、かなりシッカリした構えになっていました。

慶長5年の関ヶ原の戦い後は、筑後33万石の田中吉政の治世下に入り、元和6年(1620年)からは久留米21万石の有馬氏の所領となり、明治維新を迎えています。

2025年11月21日 龍馬備中守【】
白山城[発心城  周辺城郭]



福岡県久留米市の草野町草野にある【白山城】♪耳納連山の中程、標高677mの白山山頂部が城郭となります。この城郭は歴史詳細、城主共に不明ですが、発心城の西方750mの場所にある為、その砦的な機能を果たした城郭なのでしょう。発心城の草野氏は、耳納連山の西端にある高良山座主・良寛とも戦っており、堀切、畝状竪堀群の向きが西向き(高良山側)な事が、それを物語ります。詳細が不明な為、今回は草野氏の南北朝時代の動向を記します。

後醍醐天皇の命により、菊池武時は鎮西探題・北条英時を攻めますが、一族の有力な武将が悉く討死しています。その後、幕府崩壊の状況が伝わると、大友氏・少弐氏はようやく探題攻撃に踏みきりこれに勝利します。草野孫次郎入道は、少弐氏に従い参戦しました。

建武元年(1334年)徳政令により、筑後国司庁宣であった草野孫次郎入道円真に、山本郷内山渋田畠屋敷の知行が認められます。幕府を滅ぼした後醍醐天皇の新政は上手く機能せず、足利尊氏らの離反や、楠木正成・新田義貞らとの戦いに敗れた事で、九州に逃れる事となります。しかし、大友氏や少弐氏の与力を得て、多々良浜の戦いで菊池軍を破り、反転東上し、幕府を開きます。このため吉野に移った後醍醐天皇は、討幕の為に皇子達を全国に派遣し、政権の奪還を図ろうとしていきます。九州には、征西将軍宮懐良親王、五條頼元らが派遣され、康永元年(1342年)薩摩谷山城に入ります。筑後では、康永2年に荒木家有が守護の御手となり、竹井萱津城を攻めます。草野孫次郎入道円真は貞和3年(1347年)、草野城警固を注進されるなど、武家方として活動しました。
懐良親王は、貞和4年(1348年)菊池武光に迎えられ菊池本城に入りました。草野孫次郎入道円真は、康永3年(1344年)からの武家方としての忠勤と、貞和4年までの草野城警固や、貞和6年(1350年)太宰府警固について奉行に軍忠を報告しました。これにより、観応2年(1351年)草野城の警固と修理を命じられます。

観応2年(1351年)懐良親王は、筑後国府に入り、大宰府進出への橋頭保を確保します。この頃に、草野氏は武家方から宮方に転じた様です。文和2年、草野永行の軍忠状は、一色範光が籠る千栗船隈の合戦、針摺原の合戦での軍忠を菊池武光に求め、了承を得ています。草野永行は以後、懐良親王の高良山に在陣し、諸所にて陣を警固し、肥前田手、仁比山城、菩提寺城の追落に力を尽くしました。文和3年(1354年)草野永幸は菊池武光に従い、一色範光討伐の為に筑前に出陣。翌年の文和4年、小城城では懐良親王に御供し、勲功を上げています。

懐良親王が博多に入ると、鎮西探題・一色氏は長門国へ逃亡します。延文4年、大友氏時退治の為、豊後国へ発向の時、草野氏は、諸所の御陣で宿直しています。高崎城にて合戦を行いその後、無事に帰国しました。
同・延文4年、菊池武光ら南朝勢は4万の将兵で布陣し、筑後川を渡り、一方の大友氏
・少弐氏から成る幕府軍6万と大保原一帯で合戦し、勝利します。しかし、戦に大勝した南朝勢も損害が大きく、そのまま追撃する事は出来ませんでした。双方の戦傷者は、幕府軍で1万8千人、南朝勢で6千9百人とも言われる大きな犠牲を出したと伝わります。その後、延文5年(1360年)から慶安元年の大宰府への攻撃で、遂に太宰府は陥落し、以後、十年に及ぶ征西府の執政が始まります。南朝方が覇を唱えた瞬間でした。
が、しかし応安4年(1371年)幕府が派遣した武将・今川了俊の活躍により、南朝勢は次第に押され始め…応安5年に大宰府を放棄し、高良山に征西府を移しています。そして応安6年、菊池武政は筑後川を渡り、遂に今川了俊と対陣。するも…味坂で合戦し敗れ、高良山の陣を引き、肥後に撤退します。今川了俊は、耳納山から上妻郡一帯の南朝勢を制圧しに掛かりました。この時、草野氏が武家方(幕府方)に降りたかは不明です。

懐良親王は、永和元年(1375年)に良成親王に征西将軍職を譲り、矢部・星野に隠棲し南朝の復興を願うと共に、犠牲となった多くの戦没者の菩提を弔ったと伝わります。永徳3年(1383年)に筑後矢部で病死したとされます。(諸説あり)南朝方は後征西将軍となった良成親王を奉じて、九州探題と対峙するも、好転しませんでした。明徳3年(1392年)後亀山天皇が後小松天皇に皇位を譲り、南北朝が合一されています。

白山城の見所は畝状竪堀群。その顔は戦国時代後期そのものだと思われます。草野氏の城郭と思われる為、今回は草野南北朝ヒストリーにしておきます。

2025年11月20日 龍馬備中守【】
谷山城[発心城  周辺城郭]



福岡県久留米市の山本町にある【谷山城(永勝寺は居館か?)】永勝寺の背後で、標高244m付近の山上が城郭となります。南北に長く伸びる尾根上は、堀などは確認出来ず、削平地(簡易的な駐屯地か?)が残るのみです。
唯一、動線か?虎口状の開きが確認出来るのみでした。城跡は現在、藪化しています。先にお伝えしておくと、この谷山城の詳細は不明です。谷山城の北側には筑後川が流れ、南北朝時代には筑後川合戦の舞台ともなっており、菊池武光が戦後に刀を洗った川として、大刀洗という地名が残っていたり、懐良親王が陣を張った宮ノ陣など、この戦に纏わる地名が多く残っています。また、近隣に千光寺というお寺が残り、懐良親王の墓所と伝わる塚も残ります。南北朝時代の歴史の痕跡を多く残す場所であります。

この筑後川合戦についてですが、当時の九州の武家方は、一色範氏を中心とした『九州探題方』と、足利直冬を立てる『佐殿方』、更に懐良親王を擁立する菊池氏を中心とした『宮方』の、3つの勢力がその覇権を争っていました。九州探題と佐殿は、元々は足利氏から派生したものですが、観応の擾乱前後から衝突を繰り返していました。

筑紫平野の諸将達もまた、南朝、北朝と揺らいでいた事でしょう。正平10年(1355年)九州探題の一色範氏が九州から撤退した事で、南朝と北朝の抗争はより色濃くなっていきます。
いよいよ本格的に、懐良親王と菊池氏の宮方(南朝)VS少弐氏、大友氏らの武家方(北朝)との抗争が始まりました。正平14年(1359年)菊池武光ら南朝方は、太宰府有智山城に籠る少弐頼尚、大友氏時や宇都宮冬綱勢と対峙。筑後川の戦い(大保原合戦)です。菊池勢は、高良山を太宰府の前線として活用していて、今回の谷山城もその頃に使用された城郭なのかなぁ〜?と感じています。

武家方である少弐頼尚は、大友氏時と連合して宮方を打つ準備を開始。征西将軍である懐良親王を奉じた菊池武光は、4万の兵を率いて筑後平野に進出し、筑後川を前に高良山、水縄、柳坂の三ヶ所に布陣しています。この柳坂は、谷山城に通じる坂であります。征西将軍の本営は、筑後国府枝光に置いています。筑後川が、北面に広がる場所です。対する少弐氏、大友氏の連合軍は、松浦党や龍造寺氏など肥前武将で構築。6万で味坂に布陣しています。菊池武光は精兵5千を指揮し、月明かりを利用してコッソリ筑後川を渡り、北野に進出、味坂の少弐軍を急襲しています。この時、懐良親王は宮瀬(宮ノ陣)を本営としました。

こうして三井郡一帯の平野では合戦が続き、山隈原、大保原、小郡原などで激戦となっています。武家方である少弐、大友軍の敗色は強く、大混乱のまま大宰府に兵を引き上げています。一方、南朝方の菊池勢の損害も大きく、そのまま大宰府へ追撃する事は出来ませんでした。

総大将である懐良親王もこの戦により、深傷を負ったと伝わります。この深傷により、この谷山城に引き上げられ傷の手当てと休養をしたとされます。翌年に菊池武光は懐良親王を奉じ、大宰府へ進出。正平16年(1361年) 菊池武光は、少弐頼尚を大宰府有智山城から追う事に成功しています。コレにより、征西府を太宰府の本拠地とし、南朝方が一時九州の覇権を握る事になっています。

谷山城の歴史詳細は不明ですが、単純な削平地は兵を駐屯させる為に使用された印象で、南北朝時代以降は使用されていない可能性が考えられます。領内には千光寺があり、ここには懐良親王の墓(将軍山と呼ばれる山上)と伝わる塚や、この地を領した草野氏三代の五輪塔が残されているなど、この地との関係性は、やはり興味深いです。ただ、懐良親王は、星野矢部で亡くなった説や、八代で亡くなった説があり、その結末は歴史の闇の中となっています。

写真の五輪塔は、この地を領した草野三代の五輪塔です。

2025年11月19日 龍馬備中守【】
問本城[発心城  周辺城郭]



福岡県久留米市の田主丸町竹野にある【問本城】♪耳納連山の中程で、発心城のある発心山から北側に向かい、標高を下げながら、山々が連なります。発心城からは、北東側に直線1.8k程の山間部に、問本城は立地します。西側の直線1.5k程の尾根には、発心城・上の城(草野町草野)、また東側に直線2k付近には、西葛尾城、高野城、内山城、高丸城(田主丸町益生田)と、城郭が密集する地点でもあります。

問本城ですが、詳しい詳細は不明ですが、問注所鑑豊の城と伝わります。また、戸次鑑連(後の立花道雪)の娘・誾千代が生誕したと伝わる城でもあります。永禄12年(1569年)豊後大友家の重臣であった戸次鑑連(道雪)と、問註所鑑豊の娘・仁志姫の娘として、誾千代はこの問本城で生まれています。その2年後の元亀2年(1571年)に、戸次鑑連は大友宗麟の命により、筑前国の重要拠点である立花山城の城督となり、当時3歳の誾千代も立花山城へ移っています。

戸次鑑連は、戸次家の家督を、甥で嗣子とした戸次鎮連に譲り、立花山城で新たな家臣団を組織していくのですが…。大友宗麟・義統は、男子のいない道雪(天正2年に道雪と称してます)に対し、戸次鎮連の子供から養子を迎えて、立花城家督を譲るよう勧めます。しかし、戸次鑑連はこれを聞き入れず、娘である誾千代に城督・城領を譲り、ここに僅か7歳の女城督が誕生する事になっています。

誾千代13歳の時、戸次家の養子となった高橋統虎(後に柳川藩初代藩主となる立花宗茂)を婿に迎え、19歳の時、大友家家臣から一国の大名となった立花宗茂と共に、筑後柳川城へ居城を移しています。しかしその後、宮永の屋敷に移り、夫・宗茂とは別居を余儀なくされています。

関ヶ原合戦の後、西軍についた立花氏は改易されてしまい、加藤清正の庇護の下にあった誾千代は、慶長7年(1602年)玉名郡腹赤村で病没したと伝わります。享年35歳、法名は光照院殿泉誉良清大禅定尼です。…と、誾千代ストーリーでした。

城郭は、藪藪の中です。削平地が筑紫平野を監視する様に展開されていますが、堀などの確認は出来ませんでした。巨大な谷を両端に持つ為、コレを天然の要害として使用した事でしょう。

2023年05月29日 龍馬備中守【】
竹井城[発心城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【竹井城】♪耳納山地の西端は高良山があり、古来より宗教的権威を核とする勢力が集結♪続く東に連なる尾根の山上、または麓周辺には星野氏、問註所氏、草野氏、河崎氏、黒木氏etcの豪族が割拠したエリアでもあります♪この竹井城は草野氏の城郭となります♪

鎌倉時代よりこの地を治めた草野氏です♪
後の戦国の世には本城を発心城へ移し、竹井城を始めとして支城群で固めています♪

この草野氏は藤原北家流と云われていて、肥前高木氏・肥後菊池氏・上妻氏、更には龍造寺氏らと同族と伝わります♪長寛2年(1164年)に高木宗貞の子である高木永経は、肥前国は佐嘉郡高木庄から筑後国は山本郡草野荘の吉木に移住して竹井城を築きました♪
以後、永経は地名により草野氏を称する様になっています♪草野永経が筑後に移った頃の中央では、保元・平治の乱が勃発⭐︎源氏を倒した平氏が『平家にあらずんば人でなし』と全盛期を誇った時代となります⭐︎
後に伊豆の源頼朝が平氏打倒の兵を挙げ源平合戦が始まると、草野永経は肥後・菊地氏らと共に源氏方に味方します♪
元暦元年(1184年)に平氏と戦った功により、文治2年(1186年)源頼朝から御井・御原・山本など三千町歩の所領を賜っています♪

草野永経の子・永平も源平合戦で功があり、筑後国在国司・押領使両職を安堵され、更には肥前国鏡社大宮司(松浦郡)に補任されました♪草野氏は筑後・肥前にまたがる一大勢力へと登り詰め、中世を通して筑後・肥前を舞台に活躍しました♪

弘安3年(1281年)『弘安の役』では草野永綱・経永父子が出陣♪草野経永は肥前国唐津庄を領していて、『弘安の役』の勲功により唐津庄を賜っています♪

唐津を賜った草野氏は鬼ヶ城(post済)を本拠として、引き続き鏡神社の宮司を兼ねました♪そして筑後草野氏が本家、肥前の松浦草野氏は庶子家としてそれぞれ発展していきました⭐︎因みに、この松浦草野氏は天正2年に肥前国・龍造寺隆信により落とされ、筑前国は二重城へ逃れています⭐︎

さてそんな草野氏ですが、中世の動乱に翻弄されていきます…南北朝の動乱期には宮方として足利尊氏を迎え撃つ体制を取り、菊池氏、阿蘇氏の構える南朝方へ⭐︎草野永久は出陣⭐︎多々良浜の戦い♪が、これに敗れてしまう訳ですが…この戦いに勝利し上洛した足利尊氏は九州の押えとして九州探題を設置し宮方に対峙させていて、一時の草野氏は宮方から探題方に転じています♪が、その後は南朝方へ属してます⭐︎草野氏は盛衰を繰り返しながらも、この時期、筑後に一定の勢力を維持してます⭐︎

戦国時代に突入すると周防・大内氏は北九州に進出⭐︎大内氏は鎮西の有力者だった少弐氏、豊後の大友氏らと抗争を繰り返しました⭐︎草野氏ら筑後の国人領主は、この狭間に揺られていく訳であります…

その後少弐氏は滅亡し、大内氏も陶晴賢の謀叛によって滅亡していくと、北部九州は豊後国の大友氏と肥前国の龍造寺氏の二大勢力が並び立つ様になり、これに南九州の島津氏が北進の気配をみせる情勢へとなっていきました⭐︎国人領主からしたら…不安定な情勢ですね⭐︎

戦国時代後期の草野氏の当主・草野鎮永は、先祖代々の居城であるこの竹井城に不安を感じ、天正5年(1577年)新たに発心城を築城し本城としています⭐︎

耳川の戦いにより大友氏が島津氏に大敗した事で、筑後の大半の国人領主は龍造寺氏に属する様になっていく訳です⭐︎
その結果、発心城は大友氏、高良山座主、秋月氏らの度重なる攻撃に晒されていきました⭐︎この時に竹井城も同様に攻められたのでしょう⭐︎草野鎮永は良く耐え、その攻守は3年に及んだと伝わります⭐︎

秀吉の九州征伐時には草野鎮永は島津氏に味方して発心城に拠り、秀吉勢を迎え撃ちました⭐︎結果は圧倒的な秀吉軍に抗すべくもなく降伏しています⭐︎
九州を平定した秀吉は九州仕置(戦後処理)を断行⭐︎豊前から四国の伊予への転封を命じられた城井宇都宮氏はそれに抵抗し、遂に中津城に誘い出されて殺されています⭐︎
筑後では草野鎮永が仕置に反発して発心城に立て籠もりますが、小早川秀包に攻められ下山、善導寺に逃げ込んだ草野鎮永は秀吉に謀られ木塚の里で自害したとされています⭐︎
 
草野鎮永が自害した際、子の草野永広は肥前国の鍋島氏に質としてあった為に一命を留め、その後は鍋島氏に仕え一千石を賜った様です♪

2023年03月29日 ᴿᴱᴰ副将軍
発心城



標高697.4mの発心山ピークに築かれた堅城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

1577年、草野鎮永により築城。
草野氏は、筑後国の国司として勢力を奮った有力土豪で戦国期には大友氏に属していました。
1577年に大友氏が耳川合戦に敗北し弱体化すると龍造寺氏に寝返りました。その際に草野鎮永から草野清家に名も改めています。その後、居城を竹井城から発心城を新たに築いて移しました。
1587年の豊臣秀吉による九州征伐において、草野清家は豊臣家臣に謀殺され、草野氏は滅亡し発心城も廃城となりました。

見所
標高697.4mの発心山ピークに築かれています。
大友氏や高良山座主の勢力からの侵攻にも落ちなかった不落の城と云われるだけあって険しい高所にあります。
山頂に主郭を配し、北、西、東に伸びた尾根に郭を展開しています。北に伸びた尾根に二郭、三郭が連なり、それぞれ土塁囲みと鋭い切岸が認められます。
三郭北側の堀切はヤブに埋もれていますが何とか確認可能。しかし、西尾根の五郭西側の堀切は冬でもヤブ化してました。
東尾根の六郭東側の堀切は林道沿いで明瞭です。

行き方は、標高は高いですが耳納スカイラインの林道沿いにあるため車で簡単に行くことができます。

写真
①かなり鋭く高い主郭切岸
②主郭
③主郭と二郭を区切る堀切を東から
④同上 西から
⑤二郭の切岸
⑥四郭から城下を一望
⑦三郭北側の堀切
⑧六郭東側の堀切

2021年03月22日 榎晴信肥後守
竹井城物見櫓[発心城  遺構・復元物]



竹井城物見櫓跡は竹井城南側尾根標高371㍍にあります。
主郭は南北約40㍍東西約15㍍ほど、北側に数段の曲輪があり最高所は狼煙台と言われている窪みがあります。南側尾根を二重の堀切で断ち切っています。一本は道路で破壊されていますが幅10㍍程の大型の堀切です。

案内ですが竹井城脇の舗装された道路をひたすら登る(車でも行けますが現在は通行止め)と約40分程で城跡直下にたどり着けます。竹井城との比高は約200㍍となります。

2021年03月19日 榎晴信肥後守
竹井城[発心城  周辺城郭]



城主の草野氏は初代草野永経が肥前高木より筑後吉木に入国してより424年間この地を治めましたが第16代草野家清が秀吉の不興をかい蜂須賀家政に熊本南関にて誘殺され天正16年滅亡しました。

竹井城は若宮八幡宮の背後の丘陵上、標高171㍍に主郭があり南側に堀切、西側に腰曲輪を巡らし12本の畝状空堀群が構築され、北西側には階段状に曲輪を並べその西側に堀切を設けています。回りは後世の段造成が多数ありますが城の遺構はよく残ってました。

行き方ですが先ず若宮八幡宮を目指します。道はさらに山へと続いてますので道なりに登ると開墾記念碑がありますので記念碑の右側から侵入し少し尾根を進めばすぐに城域となります。

2021年03月11日 龍馬備中守【】
発心城(上ノ城・下ノ城・中ノ城)[発心城  周辺城郭]



福岡県の久留米市、八女市、うきは市にまたがる形で展開される発心城の出城である【上ノ城、中ノ城、下ノ城 】♪草野氏の出城は一番高い標高190mにあるのが「上ノ城」、北東側の標高160mの峰にあるのが「中ノ城」、北西の標高148mの「下ノ城」となっていて中腹に位置し三つの峰からなり背後の本城(標高697m)を守りました☆

鎌倉幕府の御家人・草野氏は筑後一円を支配する強大な力を持ってました☆浄土宗鎮西派の大本山善導寺を建てたのも草野氏です☆
元寇襲来の際にも元軍と堂々と戦っています☆南北朝の乱等の中で草野氏は盛衰を繰り返していて戦国時代には、豊臣秀吉により肥後南関で草野領主が誘殺されてしまいます☆それを聞いた発心城に居た一族郎党も自害☆草野氏は滅亡してしまいました☆

特に上ノ城、下ノ城の連続畝状竪堀の畝がデカクて見所の一つとなっています☆上ノ城から下ノ城へは尾根続きで元々は繋がっているんですが、ゲキ藪過ぎて進めず一旦退却し、麓へ戻り張り付く所を変えて登城しました☆人の足が余り入っていない為に遺構の残り方は抜群で、寄せ手を本城まで絶対行かせてなるものか☆気迫の縄張りになってます☆

2017年06月12日 慶次朗掃部頭一寿
発心城

地元では小学生が遠足で近所のテレビ塔まで行っていたので(歩いて)畑でも無い限りもう登らないと思う。
車は発心公園からも行けるが地元の人間出ないと面倒な悪路か、まあ地元の人間でも悪路か。
下記に書いて頂いた耳納スカイラインは久留米陸上部自衛隊が昭和の終わり辺りに開通させました。これは高良山からも行けますのでおすすめです。高良山の城が取れます近所です。
因みに八女って書いてありますが地域としては久留米市草野町がメインですし御井郡(久留米市に入る前)と言われたことはあっても八女はないですね。
八女はこのゲームにないですが、山越えた星野氏の館跡ではないでしょうか。
草野町には発心城の前に竹井城てのがあるのですが…赤司や神代の館があるならば竹井城や星野氏の館とあってもよさそうですが無いのですよね。
星野は最近有名な場所なので1つ位入れてあげても良いような気がします。
草野は県道沿いに資料館がありますので是非。

2017年03月21日 じょーうん因幡守
発心城

発心城までは車で行くことができます。
但し、県道70号線の田主丸からかんかけ峠の道は県内屈指の悪路なので、耳納スカイラインから向かうルートをおすすめします。

発心城の周辺スポット情報

 竹井城物見櫓(遺構・復元物)

 発心城(上ノ城・下ノ城・中ノ城)(周辺城郭)

 竹井城(周辺城郭)

 鬼ノ口城(周辺城郭)

 白山城(周辺城郭)

 谷山城(周辺城郭)

 問本城(周辺城郭)

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