白山城
白山城([発心城 周辺城郭])
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白山城の口コミ情報
2025年11月21日 龍馬備中守【】
福岡県久留米市の草野町草野にある【白山城】♪耳納連山の中程、標高677mの白山山頂部が城郭となります。この城郭は歴史詳細、城主共に不明ですが、発心城の西方750mの場所にある為、その砦的な機能を果たした城郭なのでしょう。発心城の草野氏は、耳納連山の西端にある高良山座主・良寛とも戦っており、堀切、畝状竪堀群の向きが西向き(高良山側)な事が、それを物語ります。詳細が不明な為、今回は草野氏の南北朝時代の動向を記します。
後醍醐天皇の命により、菊池武時は鎮西探題・北条英時を攻めますが、一族の有力な武将が悉く討死しています。その後、幕府崩壊の状況が伝わると、大友氏・少弐氏はようやく探題攻撃に踏みきりこれに勝利します。草野孫次郎入道は、少弐氏に従い参戦しました。
建武元年(1334年)徳政令により、筑後国司庁宣であった草野孫次郎入道円真に、山本郷内山渋田畠屋敷の知行が認められます。幕府を滅ぼした後醍醐天皇の新政は上手く機能せず、足利尊氏らの離反や、楠木正成・新田義貞らとの戦いに敗れた事で、九州に逃れる事となります。しかし、大友氏や少弐氏の与力を得て、多々良浜の戦いで菊池軍を破り、反転東上し、幕府を開きます。このため吉野に移った後醍醐天皇は、討幕の為に皇子達を全国に派遣し、政権の奪還を図ろうとしていきます。九州には、征西将軍宮懐良親王、五條頼元らが派遣され、康永元年(1342年)薩摩谷山城に入ります。筑後では、康永2年に荒木家有が守護の御手となり、竹井萱津城を攻めます。草野孫次郎入道円真は貞和3年(1347年)、草野城警固を注進されるなど、武家方として活動しました。
懐良親王は、貞和4年(1348年)菊池武光に迎えられ菊池本城に入りました。草野孫次郎入道円真は、康永3年(1344年)からの武家方としての忠勤と、貞和4年までの草野城警固や、貞和6年(1350年)太宰府警固について奉行に軍忠を報告しました。これにより、観応2年(1351年)草野城の警固と修理を命じられます。
観応2年(1351年)懐良親王は、筑後国府に入り、大宰府進出への橋頭保を確保します。この頃に、草野氏は武家方から宮方に転じた様です。文和2年、草野永行の軍忠状は、一色範光が籠る千栗船隈の合戦、針摺原の合戦での軍忠を菊池武光に求め、了承を得ています。草野永行は以後、懐良親王の高良山に在陣し、諸所にて陣を警固し、肥前田手、仁比山城、菩提寺城の追落に力を尽くしました。文和3年(1354年)草野永幸は菊池武光に従い、一色範光討伐の為に筑前に出陣。翌年の文和4年、小城城では懐良親王に御供し、勲功を上げています。
懐良親王が博多に入ると、鎮西探題・一色氏は長門国へ逃亡します。延文4年、大友氏時退治の為、豊後国へ発向の時、草野氏は、諸所の御陣で宿直しています。高崎城にて合戦を行いその後、無事に帰国しました。
同・延文4年、菊池武光ら南朝勢は4万の将兵で布陣し、筑後川を渡り、一方の大友氏
・少弐氏から成る幕府軍6万と大保原一帯で合戦し、勝利します。しかし、戦に大勝した南朝勢も損害が大きく、そのまま追撃する事は出来ませんでした。双方の戦傷者は、幕府軍で1万8千人、南朝勢で6千9百人とも言われる大きな犠牲を出したと伝わります。その後、延文5年(1360年)から慶安元年の大宰府への攻撃で、遂に太宰府は陥落し、以後、十年に及ぶ征西府の執政が始まります。南朝方が覇を唱えた瞬間でした。
が、しかし応安4年(1371年)幕府が派遣した武将・今川了俊の活躍により、南朝勢は次第に押され始め…応安5年に大宰府を放棄し、高良山に征西府を移しています。そして応安6年、菊池武政は筑後川を渡り、遂に今川了俊と対陣。するも…味坂で合戦し敗れ、高良山の陣を引き、肥後に撤退します。今川了俊は、耳納山から上妻郡一帯の南朝勢を制圧しに掛かりました。この時、草野氏が武家方(幕府方)に降りたかは不明です。
懐良親王は、永和元年(1375年)に良成親王に征西将軍職を譲り、矢部・星野に隠棲し南朝の復興を願うと共に、犠牲となった多くの戦没者の菩提を弔ったと伝わります。永徳3年(1383年)に筑後矢部で病死したとされます。(諸説あり)南朝方は後征西将軍となった良成親王を奉じて、九州探題と対峙するも、好転しませんでした。明徳3年(1392年)後亀山天皇が後小松天皇に皇位を譲り、南北朝が合一されています。
白山城の見所は畝状竪堀群。その顔は戦国時代後期そのものだと思われます。草野氏の城郭と思われる為、今回は草野南北朝ヒストリーにしておきます。









